牟田蔵一族滅亡の日
北路 さうす
牟田蔵一家滅亡の夜
学校から帰宅すると、まず母からどこにもけがをしていないか調べられる。
「光輝さん。何ですかこれは」
右手の人差し指を強く握られ、光輝は声を漏らし、しまった忘れていたと思った。人差し指には、小さなささくれができていた。
「いつできたのですか?もう禊は済んでいますか?まったく、小さなささくれでもひょうぞ鬼は侵入してくると……」
「わかってるって。禊も済んでるから大丈夫だよ」
光輝は母の言葉を遮ると、さっさと服を着て部屋へ駆け出した。
光輝の生まれた牟田蔵家は、世にはびこるひょうぞ鬼と呼ばれる怪異を退治することを生業としている。ひょうぞ鬼は皮膚の破れたところ、いわゆる傷から人にとりつき、異形の化け物に変化させ取り殺す怪異だ。一度ひょうぞ鬼となった人間は、理性を失い仲間を増やすべく周囲の人間に襲い掛かるとされている。牟田蔵家は傷を作ることを忌事とし、万が一けがをしてしまった場合は離れへ隔離され禊を行う。ひょうぞ鬼にとりつかれていた場合を考慮してのことだ。しかし今では風習は形骸化しており、多少の傷なら大事にせず禊の真似事で傷を清める程度で許されている。ここ数十年ほどはひょうぞ鬼による大きな被害は出ていない。そのせいか、最近一族全体の気が緩んでいると翁が嘆いていた。今や牟田蔵家でひょうぞ鬼が猛威を振るった時代を知る人間は翁しか残っていない。
「光輝、今日は家清めの予定が入っているがお前は留守番だな」
「えー!僕も行きたいよ!」
「ささくれといえど傷は傷だ。連れていくことはできない」
「残念だったな光輝。お前の分までお姉さまがもてなされてやるから一人で待ってな」
家清めは、清潔を嫌うひょうぞ鬼が近づかないように、牟田蔵家に伝わる秘伝の水で家屋や人を洗い、火を焚き祈りをささげる行事だ。家清めのあとは、依頼者からの報酬としてもてなしを受けることができる。もてなしは金品だけではなく食事も大盤振る舞いされるため、子供はこぞって参加したがるのだ。牟田蔵家の人間は翁を筆頭に、光輝を残して家清めに出発してしまった。
「怪我した子供を一人にするなんてよくないと思うんだよね」
牟田蔵家は広い屋敷と先祖の残した少なくない遺産があるが、使用人などは雇わず一族だけで家を切り盛りしている。光輝が生まれる前に、ひょうぞ鬼にとりつかれた使用人が屋敷内で大暴れした事件があったそうだ。というわけで、今屋敷には光輝だけしかいない。普段は咎められることが何でもできる。母によりきれいに拭き上げられた屋敷内をべたべたと触りまわる。そして、洗面所の扉を開け、歯ブラシを物色する。翁、父、母、姉、そして光輝のもの。それぞれ色と大きさが違うそれを手に取り眺め、指の腹で毛の硬さを確かめてみる。そこで興味を失ってしまい、風呂に入ることとした。もちろんカラスの行水である。いつもは熱いお湯でしっかり体を清めさせられ、清潔なタオルでしっかり拭き、乾燥するまで部屋に返してもらえないが、今日は光輝の天下だ。髪を乾かすのもそこそこに、光輝は部屋へ戻った。
「帰ったぞ光輝!」
23時を少し過ぎたころ、牟田蔵一家は帰ってきた。光輝は2階にある自分の部屋から出て、家族を迎える。
「おかえりなさい、みんな」
「もう私眠くなっちゃった。先にお風呂もらうわね」
父、母、姉を迎え、もてなしでもらってきた品物を受け取る。各々食堂や自分の部屋、風呂場へ消えていく。あとから翁が入ってきた。
「光輝よ、儂にもささくれを見せてみろ」
光輝はいつもより凄みのある翁を不気味に思った。
「お母さんに見てもらったから大丈夫だよ。僕元気だし」
「見せるだけでいい」
翁が光輝の腕をつかもうとしたところで、母が割って入ってきた。
「何をしているのですかお義父さん!」
母は光輝を翁から引き離し、自分の後ろへ隠す。
「ひょうぞ鬼が侵入しているなら、今頃光輝さんは自我が保ててないはずです。ちゃんと会話ができてて見た目の変化もない。必要以上に怖がらせるのはやめてください」
「必要以上ではない、ひょうぞ鬼の性質は変異することが……」
「まだ光輝さんは小学生ですよ?一人で離れになんて連れていけません。昔とは違うんです」
「嫁は黙っとれ!」
ヒートアップする二人の間に父が割って入り、とりあえずその場は終息した。翁はまだ不気味な目でこちらを見ているが、光輝は母に付き添われて自室へ戻った。
「お母さん、おじいちゃんが……」
「光輝さんは気にしなくていいの。おじいちゃんは古い人間だから、ひょうぞ鬼のことを必要以上に怖がっているのよ。この屋敷だって家清めがされてるから、心配しないで良いのです。お風呂に入ったなら、もう遅いから寝なさい」
母が去った後、光輝は一人ベッドに横になる。寝る気にもなれず、ただ天井を見ていた。
「よ、ささくれ坊主」
「お姉ちゃん」
姉がずかずかと部屋に入ってきて、ベッドに腰かけた。寝転がる光輝を尻でぐいぐい押して座るスペースを広げる。
「今日の家はね、造船業を営んでいるからか輸入物がいっぱい手に入ったよ。ささくれ坊主にはこれをやろう」
姉は光輝にチューブを渡し、英語でもない言葉で書かれたそれはハンドクリームだと教えてくれた。
「私ハンドクリームは決まったものしか使わないようにしてるからね。あんたよく見たら手足もかさついてるじゃないの。お母さんに見つかったら裸に剥かれて保湿地獄よ!しっかり自分でやりなさい!」
姉は一人でしゃべり、嵐のように帰っていった。光輝はハンドクリームを手に取り適当に塗ってみた。甘いにおいが部屋に充満する。
「意味ないなこりゃ」
朝に目が覚め、光輝がキッチンへ向かうと母が食事の用意をしていた。
「僕も手伝う」
「珍しいわね。今日はいいわよ、ささくれもまだ治ってないでしょう」
「お母さん、僕のこと疑ってる?」
「もう、じゃあお箸とお皿用意してくれる?」
光輝は意気揚々と箸を並べ、盛り付けられた料理を運ぶ。今日はご飯に味噌汁に焼き魚の典型的な和食だ。
「おじいちゃんはやっぱりお部屋で食べてるの?」
「そうよ。まぁ、好きにさせなさい」
翁は、いまだに屋敷にひょうぞ鬼が入ることを恐れ、先祖の立てた誓いを忠実に守っているのだ。
「おじいちゃんもよくやるよね。いいや、食べちゃおう」
いつの間にか姉と父も合流し、手を合わせて食べ始めていた。母もエプロンを脱ぎ食卓に着く。
「光輝も早く食べちゃいなさい。学校に遅れるわよ。」
光輝は味噌汁鍋を手に持ち、家族の前に立った。
「光輝、どうしたの?」
光輝は、さっきまで火を入れていた湯気の立つ味噌汁鍋を放り投げた。鍋は食卓の中央に落ち、家族に厚い味噌汁がかかった。
「ぎゃああああ!光輝!何をするの!」
3人は大きな悲鳴を上げる。味噌汁を顔に浴びた姉は床をのたうちまわる。腕と顔をやけどしながらも、両親は光輝に詰め寄るが光輝は表情を変えず、両親のやけどした腕をつかみ、皮膚をずらすように思いっきりこすり上げた。
両親は目を見開き、その場で倒れる。両親の体は、光輝が触れた腕から順にブクブクに膨れ上がり、崩壊を始めた。それはひょうぞ鬼が憑りついた時の変化そのものであった。その様子を眺めていた姉は、やけどの痛みも忘れ、恐怖に震えた。
「光輝……あんた!」
「もう手遅れだよお姉ちゃん。いや、牟田蔵の娘。光輝はとっくにひょうぞ鬼のものだ」
光輝は膨れ上がった手を伸ばし、翁の部屋へ行こうとした姉を捕まえる。姉は激しく抵抗するが、粘菌のようにうごめく光輝の腕がついに顔に届き、そこで動かなくなった。両親と同じように姉の全身が膨らんでいく。光輝は家族が変異していく様子を見ることなく、翁の部屋へ向かうととした。
翁はちょうど歯を磨いていた。ひょうず鬼は清潔を嫌うため、翁は1日5回の歯磨きを欠かさない。
「どうした光輝。歯を磨きたいなら、すぐ終わるからそこで待っていなさい」
翁は洗面所に現れた光輝に目を丸くした。翁が吐き出した水に血が混ざっているのを確認した光輝は笑い声をあげた。
「どうした金太」
「牟田蔵家断絶の場に立ち会えたことを喜んでいるんだよ!これまでさんざん俺たちの仲間をやりやがって、やっと俺たちの時代が始まるんだ!」
翁は事態が呑み込めず、ただ豹変した光輝を見ていたが、口の中の違和感に気が付いた。急いで鏡を見てみると、口腔内に無数のできものができているではないか。
「貴様、ひょうず鬼だな!」
「今更気付いても遅い!昨日、お前らが一人にした光輝は、家の中を触って歩いたぞ!もちろんお前の歯ブラシにもだ!」
「ひょうず鬼がこんな……擬態の能力を持つなんて……本家に連絡を」
翁は口に手を突っ込み、できものをもぎ取ろうと必死だが、ひょうず鬼にとりつかれた以上どうすることもできない。今や口内のできものでしゃべることもままならない。
「残念だが、お前には死んでもらう。俺はこんなちんけな分家を滅ぼすために来たわけではない。俺の標的は、ひょうず鬼払いの総本家今羽家の滅亡だ!お前の葬式で仲間を増やし、全国の分家と今羽家を乗っ取ってやる!」
翁はできものに気道をふさがれ、意識が遠のいていく。高笑いする光輝の後ろに、息子とその嫁、そしてもう一人の孫が集まってきた。
「この家は無事乗っ取ることができたな」
「あぁ。しかしこの家は末端だ。我々の繁栄のためには、今羽家を倒さなければならない」
「誓いをないがしろにする末端の家なんて、大したものではなかったな」
こと切れた翁の前で、ひょうず鬼たちは同じ声で会話をする。ひょうず鬼たちは、退治される中で少しずつ自身の体を変化させ適応させていき、ついに憑りついた人間の記憶と外見を保ち、すぐに人を襲わず計画を立てる頭脳を得たのだ。
「さて、葬式の用意だ。これから忙しくなるぞ」
父だったひょうず鬼が、一族の名簿を探しだし葬式の手配について相談を始める。ここから我々の逆襲が始まるのだ。
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