桃の巻

 まったく、言い出しっぺはだぁれ?名前こそ宿命さだめを現してるだなんて。そりゃ、確かに桃子は桃の花のような子でしたよ。桃子はきれいな娘でしたから。桃の花って、愛らしくて満開のときにはそこだけ景色を常世の楽園みたいに見せるでしょう?まさしく桃子はそんなふうに美しかった。けれども桃の花が見せる楽園って、どこかこの世のものではないようではありませんか?あぁ、確か桃源郷という言葉があったわね。そして桃子はね、突然降って湧いたように皆のところへ現れた子でもありました。蕾が一夜にして花開く、突然そこに花園が現れたように。そう考えるといよいよ桃子は桃の花にそっくりかも知れないわね。なぜなら桃子は、街中の桃の花がさかりを迎えていた頃・・・




   花物語・桃子の巻


 一帯を治める貴族の一人息子は青砥箔せい・とはくといいました。一人息子と言えど、砥箔にはずいぶん年上の嫡子の兄がありましたので、一人っ子と呼ぶにはすこしはばかられましたけれど。仲の良い二人でしたから、砥箔はその年の少年にしては荒っぽい遊びに長けていました。砥箔は少年ながら乗馬をいちばんの遊戯として、遊戯のわりにはどんな馬でも上手に乗りこなしました。砥箔の父親は愛息子の乗馬上手を自慢に思い、見栄のままに上等な馬を砥箔に与えました。栗毛の仔馬は仔馬ながら駿馬で、子供の砥箔が乗るにはその上気難しい高貴な性質たちでした。与えられた砥箔は我が馬としてみればすぐに情が湧いて、その速さたるや空を飛んでいるよう、燦燦さんさんと降りしく彗星の尾のごとくに、燦燦陸離王さんさんりくりおう。とそう名をつけて馬を可愛がりました。遠乗りは毎日のことで、燦燦陸離王の散歩と称して一人と一頭は走りました。砥箔は幼いながら、一心同体を遠乗りで知りました。砥箔は燦燦陸離王のように高貴で、優しい男の子でありました。曰く、馬は乗る人間を選ぶと言います。


 早春の頃、街のいたるところに満開の桃の花々。空模様は曇りで、それにしてもあまりに肌寒い日でした。遠乗りの砥箔は冷たい風を受けながら、いつものように飛んでいく景色を楽しんでおりました。すると、親のない子どもたちが暮すお寺の門前に濃桃色の塊が動くのが見えました。

「どうどう、どうどうどう。」

燦燦陸離王に落ち着くよう言いつけ、砥箔がゆっくり近づいてみますと、濃桃色の正体は砥箔よりずっと小さな子どもでした。繻子しゅすの帯を着物の代わりに体に巻き付けられ、お腹のところに縄を縛って数尺先の門につながれていました。

「ひどいな。犬ではあるまいし。」

子どもは砥箔と燦燦陸離王を見るや泣いていたのをまたわっ、と大声を上げて泣きに泣きました。かわいそうに、もしかしたら流感にかかっているのかも知れません。小さなほっぺたを林檎みたいに真っ赤にして、唇まで腫らしておちょぼになっていました。砥箔は燦燦陸離王にまたがったまま、自分の着物の帯に付いた飾り石を引きちぎると社の窓ガラスの横に引かれた鎧戸めがけて力の限り投げつけました。社の中に居た子どもはすぐに気がついて、窓を開けてくれました。砥箔はその子どもにお寺の老夫婦をすぐに呼んでくるように言いました。


 桃の季節に突然現れて、お寺の子どもの一人になった少女は桃子、とそう呼ばれるようになりました。くだんの流感がよろしくなかったのか、桃子はずっと病弱なままでした。発熱し、咳き込んでは小さな背中を丸め、ぜいごのように鳴る胸と一緒に痛めておりました。


 桃子が娘の年頃になったとき、病弱なからだは少しはましになっていました。他の青年たちには及びませんでしたけれど・・・病の床が多い桃子を尻目に、お寺の青年たちは皆お寺の外の世界に各々の人生を求めるようになり、次第に巣立ちが目前に控えるようになりました。桃子は彼らの人生の幸先よいことを願いながら、普段の床が病の床に変わる度、彼らの人生を想うようになりました。はつらつとした青春は、輝かしく、実り多いものに桃子には想像されました。自分には到底手に入らぬ夢と思って、桃子はときどき心を閉ざすようになりました。けれどねぇ、桃子はほんとに優しい娘で、すこし頭が良すぎるきらいがありましたけれど、年頃にしては物わかりがとても良かったの。どんなに外の世界が立派に見えても、いつも努めて穏やかでいましたよ。そんな桃子の心が表れたように、笑うときにはいかにも儚げで、年頃なのにあんまり薄幸そうなのは、すこし、かわいそうでしたけれどね。そんな風だから、桃子が本の中に人生を求めたのはまったく道理の通ったことで、勉学を好いたのはよくわかることです。なんせ桃子は病弱で、花嫁修業なんか夢のまた夢でしたから。


 実家の家業を継ぐ為と称して両親の持ちかける縁談から逃げ回っていた砥箔が外国から帰ってきたのはちょうどこの頃でした。母に情けをかけてくれ。と連日のように文を送られた砥箔はしぶしぶ観念し、実家に帰って来たはいいものの、今度は中々家に近寄りません。この日も朝から街の様子を見てくると言って馬を駆っていました。


 砥箔が桃子を見つけたとき、まさかあのときの少女だとはつゆとも気が付きませんでした。


 桃子は書物を読んでいました。お寺の門前には大きな桜の木があって、縁側は絶景を臨むにふさわしい特等席でした。桃子ははらはらと散る花弁に物語の主人公を重ね合わせ、まさしく本に夢中でした。時々桜を見上げては感嘆のため息をもらし、また書物に目線を落として微笑む。桃子の長く清らかな黒髪は花のかおりの風にたおやかに揺れていました。桃子は実に美しい女性になりました。桃子は独りで居るのもへっちゃらでしたから、その高貴ゆえ冷淡な印象も人へ与えました。まさしく書物の中の古の王女のように、桃子は孤独さえ楽しんでいたの。だから誰でも桃子を見れば近寄りがたく、こうした春の宵に、花の香りに酔いながら書物に耽る桃子がふ、と眼差しを上げて微笑む、そういう時にはなお一層、人は高貴にひれ伏すことは出来ましょうが、嗜みで覚えた愛の物語を、共に語らうなんてことは恐れ多くて出来ませんでした。お寺の門に手を掛けたまま、時を忘れて見惚れた砥箔もそうした思いにかられるのでありました。桃子の儚げな微笑に和らいだ瞳は清らかに透明で、そのまなざしに砥箔は切ない気持ちを産まれて初めて知りました。春の風は桜の花を散らせます。散りゆく花弁は優美に舞い、一枚、また一枚と、桃子の手元の書物に落ちていきました。桃子は本当に嬉しそうに微笑み、これを喜びました。

「・・・丁度良い頃だわ。今、終幕へ向かって、この人はね、長い旅路を終えようと、郷里への道を懐かしんでいるところなの。おまえは、散りゆく花だけれど、実りのために散りゆくのだわ。きれいね。どうしてなの?」

ふいに桃子が顔を上げて、門前に佇む馬上の砥箔に気が付きました。

「あら・・・」

「初めまして。お寺の方ですか?」

「えぇ・・・あ、いいえ。私は・・・」

砥箔の立派な佇まいに、桃子の青い頬はうっすらと赤く染まりました。


 砥箔の手ほどきは優しく甘やかでした。桃子は本のこともすっかり忘れてしまって、砥箔との恋に夢中になりました。二人は次第に将来を望むようになり、添い遂げる未来への希望を同じくするようになりました。砥箔の求婚は桃子の人生に燦然と輝く最良の日となりました。


 それから数週間経った頃でした。あれはねぇ、本当に残酷な事で、桃子は悪くありません!私ははっきりとここでそう宣言したいくらいです。砥箔の家が、産まれが定かでない桃子のことを、お嫁さんとして迎えるのを拒絶したんです。そうと知るや突然手のひらを返したように・・・もちろん二人は苦しみました。あわや悲恋か、と思われた二人の恋路は砥箔が生家と縁を切ることによって救われました。しかしながら救われたのは恋路だけで、砥箔は親も家も財産も失くし、お嫁さんの桃子を抱えて無一文になりました。二人の地元の地主は砥箔の両親ですから、ここに仕事は望めません。にも関わらず、さすがに桃子が見込んだだけあって、それでも砥箔は遠い土地にお金になる仕事を見つけて、道中桃子の花嫁衣装まで買ってひと月以内には桃子の元へ帰って来ました。なんとまぁ!砥箔の英雄ぶりときたら、お寺の女の子たちみんなが頬を赤く染めるほどでした。誇らしげな桃子の様子ったら。あれこそ若い娘の特権というものなのかしら。とにかく二人は夫婦になって、新たな門出のかわりに、産まれ持った多くのものを、泣く泣く手放したのでありました。


 新しい土地では何もかもがこれまでとは違って、もちろん二人は苦労しました。根をおろす前の不慣れからよく心細くなって、まだまだ新鮮な愛情の力に任せて口論なんかもよくしましたけれど、けんかの行く末はどうあれ二人は睦まじく、砥箔も桃子も互いの懐を依り代として、共に生きるよろこびに浸りました。毎日なんとか二人で生活をやりくりし、大波小波と乗り越えて、ようやっと土地にも生活にも馴れて来た頃、二人は互いの愛情を発揮して、仲睦まじく、実に幸福な夫婦になりました。桃子の人生は春の訪れに花もほころぶように、よろこびは盛となりました。新芽の予感さえ・・・桃子は願いました。このしあわせの終わらぬことを。実りのすべてが朽ち果てぬことを。これが不幸の始まりでした。


 その日も朝から変わりなく二人は幸福でした。桃子は砥箔を仕事へ送り出すともうすっかり板についた家の仕事にかかりました。桃子はことにお洗濯を干すのがすきでした。一日の始まりに、今日はどんなお天気かしら、と空や辺りを見回すのは楽しみでもあります。桃子は一寸手を止めて、思わず空を仰ぎました。夏の入口の爽やかな良い一日で、桃子の家から街の桃の木が見えます。桃の木は青い実をたわわとつけておりました。つい先日それを見つけた砥箔と今年は必ず桃を食べようと約束したばかりでした。研箔が今日船に乗り、向かう街ではもう早生品種の桃が売られているかも知れません。もしかして、今夜のおやつは桃かしら。そんなふうに考えて桃子はにっこりと笑み、家の仕事に戻りました。


 まれな天候というのは、まさしくこの日のことを言うのでしょう。夕暮れと共に吹き始めた強風は次第に雨を伴い、桃子の家も吹き飛ばされんばかりでした。桃子は家で一人ぼっち。もちろん砥箔の無事な帰宅を祈っておりました。その夜の怖いこと、怖いこと。桃子は一人肩をすくめてきつく目を瞑り、砥箔の枕を抱きしめて耐え凌ごうとしていました。風雨が家を打つ度全身を跳ね上げて、砥箔の枕をきつく抱きしめるわけですが、気が休まるわけなどなく、外の景色を想像する度に、砥珀の事を一念に思って胸が張り裂けんばかりでした。怖いばっかりに、桃子は嫌なことを考えるのを止めました。嵐が止み、朝が来て、戸の方で音がしたら、桃子は駆け寄り迷わず戸を開けるのです。そこにはいつも通り、砥箔が微笑みながら立っているのです。桃の入った包を持って・・・


〝天上の神さま方、どうか私の夫、砥箔を無事に私の元へお返しください!私たち夫婦はきっと、あなた方さまの情けをおかけになるこの世の人々の為に尽くして、私たちの日々の勤めに従事いたしましょう。どうか、私の砥箔に情けを・・・〟


 翌朝、祈り疲れ、うつらうつらしていた桃子は待ち焦がれていた戸を叩く音にまた、体を跳ね上げました。かわいそうに。あんなに驚いて。桃子ったら息急き切って戸の方まで慌てて駆けて行ったのよ。なのにどうしてかしら・・・家の戸を叩いのは砥箔ではありませんでした。街のお役人はすまなそうに眉をハの字に曲げて、桃子へ丁重に挨拶をしました。


 砥箔の乗った船は難破して、砥箔は帰らぬ人になりました。


こんなにひどいことがあるかしら・・・桃子は何も分からなくなってしまって、気が触れました。毎日毎日港を彷徨い歩き、砥箔を探し回っては泣くことしか出来ません。桃子は天を恨み、永続を望んだ自分を恨みました。

〝幸せすぎた、幸せすぎたのだわ!私は天上の女神の嫉妬をかって、これはきっとその罰に違いない。人の宿命に逆らって、私が永続を望んだばっかりに・・・砥箔・・・あぁ愛おしい人。波がさらって行った、私の愛を・・・〟


曇天の空模様は桃子の心を映したように混沌と見えました。大気の湿気と海風の塩っ辛い湿り気はまとわりつくように桃子を包み、その不快さときたら本当に桃子の体にのしかかるようだった。桃子は泣く泣く浜辺を彷徨い巡っておりましたけれど、ついに観念して、膝を折るとそのまま砂に雪崩れました。無くなった生活のままに、髪も着物もひどい有り様で、おまけに涙の頬に砂がくっついて桃子の姿は目も当てられない程汚らしく、惨めなものでした。


 男はイオト・アヌイと名乗りました。近くの港へ着港したばかりの巨大な商船の持ち主の秘書であるイオト・アヌイは、浜辺に突っ伏している桃子を見つけるや、近づいて来ました。このイオト・アヌイという男は本当に性根が腐っていました。弱った女と見るや構ってやろうと近づいて、どうやら気が触れているらしいと分かるや面白がって、ひとつ気の触れた振る舞いでもさせて楽しんでやろうと考えるのですから。イオト・アヌイが何をしても桃子は構いもせず、砂にしがみつき、手からそれがこぼれ落ちるとまたしがみつき泣いていました。これを見て中々面白くなってきたイオト・アヌイは、砂を洗って顔を見てやろうと手に持っていた酒を全部桃子にぶちまけました。これでは息が出来ないと顔を上げた桃子は正気の沙汰でイオト・アヌイを睨みつけました。桃子の美貌は変わらぬままで、若年の涙はうぶに清く、桃子の一層青い顔に宝石を散りばめていました。イオト・アヌイは性根が腐っているだけではなく、大層ないやしんぼでもありました。見上げた桃子の若さと美貌にたまらなくなって、弱い立場に算段つけると船の荷にそうするように、頭の中でそろばんをはじき、それをじろじろと眺めて納得し、桃子を自分の妾にしようと決めました。それで桃子がどうしたかって?それがねぇ・・・これはどうしたことだったのかしら。ひとつ、言えることがあるとすれば、桃子は自分がこの世に生をあずかったことを、いかにもありがたく思ってこれまで生きてきたの。生有る限りは一生懸命生きなくては、そういう考えが自然と身についていました。あの時分、桃子はもう、どうしようも自分の人生と、身を、どこに置いておけば良いのか分からなかったのでしょう。私にはそうとしか、分からない。イオト・アヌイは嫌な男でしたけれど、特に初めの頃は桃子に懐いてもらおうと可愛らしく振る舞ったりもしていました。砥箔喪失の悲壮は桃子の人生に隙間風を通しました。天涯孤独になった桃子は、イオト・アヌイのお妾さんになったの。イオト・アヌイの妾になった桃子はイオト・アヌイのように冷酷であろうとしました。冷淡な高貴の気高いこと。桃子の天女の面は決して笑いません。ただ時々、やさぐれた感傷からげすな冗談を言っては口元にだけ、微笑みを浮かべておりました。かつての悲壮は桃子の胸の内に固く、固く閉ざされました。イオト・アヌイとの交流は実りないものでした。生まれた感情は桃子の肌の上をすべり落ちる冷ややかな井戸水のように桃子を凍えさせ、うわべだけの情けは心までまず、時を刻まぬ時計のように桃子を残してから回りしているようでした。桃子は生きるために今度は自分の情熱を殺すことを覚えました。生きる術は術でありながら、次第に桃子を蝕むものでもありました。桃子はイオト・アヌイやその周囲の冷たい人たちの中に居て、朱に交われようも無いのに生きようとするあまり、本当の自分を胸の内に深く、深く閉ざしていきました。例え装いでも冷徹も板につくもので、桃子は非情を嗜んでみせました。桃子の非情は汚れない貴婦人のようで、装いの面は桃子の真実で出来ていました。冷たく卑猥な世間に身を置いて、装いを装う、桃子は丸裸でした。凍え傷んだ傷だらけの桃子は実に上手に冷徹非情を演じるものですから、誰も桃子の叫びになど心及びませんでした。これにはもうひとつ理由があって、そもそも冷酷な人々というものは、人の悲しみになど耳を貸さないものなのです。

「私は誰のことも愛しはしない。自分が変わるのを恐れているのです。暴かれず、眠らせたままがいいわ。・・・一時の恋なら応えましょう。けれどねぇ、一途な愛ならいらない。一途な情けがどんな想念を生むか、考えるに容易いことではないでしょう。一途な情けが人に教えることは、他人の涙に堪えぬこと、あとそれから・・。生きとし生けるものへの執着です。奪われた怒りは熱病のようで苦しく、悲しみは厳しい冬のように怖く、凍えるほど。幸福より欲望がすき。幸福は恐ろしい。永遠を望むことは、天が下した人々の宿命と逆行しているもの。」


 その時分の桃子にとって、死は、暗がりや、得体知れないこわいものではありませんでした。かつての愛人、今はもう亡き砥箔は死後も変わらず桃子の唯一の人でありました。離れて永い安寧の懐を求めぬ日は無く、イオト・アヌイとの交流が桃子を一層孤独にさせて、気がつけば桃子は以前より強く砥箔を求めておりました。共に居られるならば、そこは黄泉でもユートピアなのです。

〝死を想う床の、なんと安らかなこと。一切の障りが、私の人生から出て行ってくれる。私をどうか連れて行って。昼日中のまどろみ、夜の眠りをそのままに、黄泉へ、目覚めたくない。だから黄泉へ、私の砥箔の所まで・・・昼日中のまどろみ、夜の眠りからそのまま滑っていくように、私を砥箔の元までへ連れて行って。どうか私を殺してください。〟


 夢の中で、死の入口に立つ桃子を、ありとあらゆる獣が涙を流して見詰めていました。それはかつて、桃子が幸福だった時代に、愛した書物のなかの、おとぎ話の主人公たちでした。

〝私がただひとつの望みを叶えぬよう、おまえたちは私を見守ってくれていたのね。〟

獣の咆哮は生命の叫び、桃子の死を追い払うように、たくましく、桃子の涙を偲ぶように、悲しくこだましていました。

『君の一生の一番に良いとき、青春の時は、盛の季節は、あの人が黄泉まで連れ去ってしまった。君は泣き、我らは同情に切なく、君に届かぬ我らの心に涙がむせいでいる。どうして、我らの母さんの、大地の、可愛い娘は、死の患いに、若く、清い血肉を委ねんとするのか。生きる者の、死への渇望は、患いだ。死の患いだ。』

『生きるに足るだけの、生きるに足るだけの、それしきの欲望さえ君は抱かない。欲望は、生きるに必要なことだ。なのに君は、それをも削ぎ落とし、死のうとしている。思い出せ。君は、空の、山の、草木の、大地の可愛い娘では無かったか。』

〝ありがとう。けれど、私にはもう・・・いいえ。ずっと前から愛すべきことのひとつも在りはしないの。生きようと思ったら、私は自分を、千切っては虚しさの中へ放り込むように、朱に交わり、冷徹な人間になるより他に無いみたい。返ってくるのが嘲りに似た微笑み、それからいやらしい愛撫とそれに似た言葉でも。他に仕様がない。私はただ、無言を待ってはいても、皆はそれを許さないでしょう。そして見境も無しに、例え誰かの玩具としても、必要とあらば私はそこへ向かうでしょう。愛されるに足る人間になるには手遅れです。何も持たないこの小さく、役立たずの両手は、健全な世間の営みに寄り縋ろうにも余りに力無いのです。〟

桃子は獣が涙を流しているのを見詰め、ぼんやりと考えていました。

〝ねぇ、まだ私のこと、想って泣いてくれるものが在るなんて、信じ難いわ。・・・狂おしい。なんて可愛いものたち。私、あなた方を悲しませてしまったわね。〟

桃子は獣たちを慰めようと、できるだけ優しいまなざしでいるよう努めました。それは桃子の情けであり、死に際した人間の、深い深い慈しみと愛情でありました。


 桃子の夢は悲しく、体に残り、染みをつくるようでした。夢から目覚め、桃子は誘われるように部屋に吹き込む微風に心を委ねました。少し考え事をして、立ち上がると支度をし、河を渡る橋まで歩きました。


 早朝、辺りに人影は無く、蒼天の空は雲一つ無い快晴で、空の高さをなお一層遥かなものにしています。りん、と張り詰めたすこし肌寒い空気はどこまでも清く、桃子の身の内に淀み溜まった不潔な名残りを鎮め、ほんの少しのいとまだけにせよ、治めてくれるようでした。橋の上、桃子は一人、川面を見詰めておりました。

〝なんと清いこと。〟

桃子は胸の内でそう呟くと目を細め、注意深く川を眺めました。今こそ桃の花の盛の季節。河岸には見果てぬ果てまで列を成した桃の花が咲き乱れています。早朝の澄んで凪いだ風に桃の花は揺られ、もう花弁を落とし始めていました。落ちた花弁は河に浮かび、川面を染めています。その、なんと優美でどこか哀しいこと。川底は深く、流れは余り早くないようで、散った桃の花弁は川面に帯となり、揺れ行きます。桃子はそれを見て、まるで天女さまの裳裾のようだと思い、実に久しぶりに優しく微笑みました。


 桃子は身投げしました。


 早い春の訪れに美しく花開いた桃子の幸福は、後の腐敗を生きるには余りに輝かしく、思い出は胸に抱いて生きるには儚いものでありました。


 川面を染める桃の花弁は、実りを知りません。一時、私達を喜ばせ、心を和ませ散りいった、元はあの満開の花々なのです。それが川面に張り付いて・・・その様子に、花の生命は刹那、と偲ばずにはいられません。蒼天の空を儚げに染める桃の花々は、後の実りを伺わせて笑いかけてくれるようですのに。


 私は思います。天より舞い戻った風の錦が、桃の花弁の衣が、桃子の背にぴったりと張り付いて、桃子は空へ舞い上がり、まさしく昇天したでしょう。桃の花の、天の裳裾のその先で、乙女は初々しく芳醇な実りを夢見て眠っているのです。花の香の実は瑞々しく、口に含めば儚く溶けて、消えてしまう。なのにいい匂いをいっぱいにさせて。愛らしい花の実り。まさしく桃子は花から産まれたような娘でした。そう、桃の衣の天女さまのように・・・


 衣の中へ天人を見たと話しても、誰も信じてはくれないのですけれど、ね。





        花物語・桃子の巻〆

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花物語 花ケモノ @hanakemono

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