ささくれができた。保健室に行った。
矢口愛留
ささくれができた。保健室に行った。
「おはようございまーす」
「あら、おはよう」
僕がガラガラと保健室の引き戸を開けると、先生は少し驚いたようにこちらを振り向く。
後ろで緩くまとめた黒髪を揺らし、こてんと首を傾げる先生は、天使みたいに可愛い。
「朝からどうしたの?」
「ささくれできちゃった。絆創膏持ってないから、切ってくれませんか?」
「はいはい、ちょっと待ってね」
先生は僕に丸椅子へ座るよう促すと、薬箱を手にして僕の前に戻ってくる。ブラウスの上から白衣を羽織ると、縁の細い眼鏡をかけた。
こんな些細なことで保健室を訪ねた僕を邪険にすることなく、優しく対応してくれる先生が、僕は好きだ。
先生は僕の指にできたささくれを確認すると、先の細いハサミを手に取った。
「じゃあ切るからね。痛かったらごめんね」
先生は僕の指を自分の左手で優しくつまむ。
ふわりと香ってきた柔軟剤のいい匂いと、その手のあたたかさに、僕の心拍数は上がっていく。
ひやりと冷たい刃が指に触れた瞬間、少し腫れてしまっているささくれの根本が痛んだが、ハサミでの処置はすぐに終わった。
ささくれの痛みよりも、先生の手の方に意識を集中していたから、その手が離れていくのが寂しかった。
先生は薬箱から絆創膏を一枚取り出すと、僕の目を覗き込む。
眼鏡の奥の茶色い瞳には、僕の姿がはっきり写っていて、僕の気持ちまで見透かされてしまうんじゃないかとドキドキした。
「どうする? もうすぐ始業時間だから、絆創膏は自分で貼る?」
「えっ? あ……」
始業時間、の言葉に僕の心は急速にしぼんでいった。
どうしても教室に向かいたくなくて、うつむいてしまう。
僕の机に碌でもない言葉が書かれてるのも、歩けば足を引っ掛けられるのも、あることないこと言われるのも、売店にパンを買いに行かされるのも、もう慣れた。
慣れたけれど、やっぱり何かあるたびに、僕の心はささくれ立つ。
あいつらだけじゃない――見て見ぬふりをする周りの奴らも、なかなか気づいてくれない担任も、そんな奴らに反抗できない僕自身も大嫌いだ。
いっそのこと大怪我でも負わせてくれれば、このまま保健室で一日過ごせるのに……なんて思ってしまう。
僕の様子が変わったことに気がついたのか、先生は、無言で僕の手を取った。
びくりと肩を揺らす僕を見て、先生は安心させるように優しく微笑んだ。
「やっぱり、絆創膏、先生が貼ってあげようか」
「お、お願いしますっ」
「指先って、貼りにくいもんね」
先生は優しく笑って、一旦僕の手を放すと、絆創膏の端をハサミで切り落とした。反対の端には、縦に切れ込みを入れる。
先生は再び僕の手を取ると、絆創膏の紙をめくって、ガーゼの部分を僕のささくれに当てた。
「絆創膏を指先に貼るときはね、こうするとぴったりフィットして邪魔になりにくいの。覚えておくと便利よ」
「へえ、本当だ」
切れ込みを入れた方を最後に巻くと、確かに指の形にぴったり合っている。
いつも自分で貼るとぐちゃっと潰れてしまって汚くなるが、こうすればこんなに綺麗に貼れるのかと、ちょっとした感動を覚えた。
「はい、おしまい。乾燥するとささくれができやすくなるから、ちゃんとハンドクリームとかで保湿するといいよ」
「ハンドクリーム……はい」
そういえば、数日前にうっかり机に置き忘れてしまったハンドクリームが、その後見当たらないことを僕は思い出した。
僕がうつむいて静かに息をつくのと、始業のベルが鳴ったのは、同時だった。
「始業時間ね」
「……先生、ありがとうございました」
「あ、ちょっと待って。まだ、ささくれてるとこ、あるよね」
「え?」
先生は僕の手を取った。両方とも。
僕の手には、さっき絆創膏を貼ってもらったところ以外に、ささくれなんてない。
「ねえ、キミ。ここはね、保健室なの。怪我をしたら、辛かったら、いつでも来ていいし、いつまでいてくれてもいいの」
先生は、僕の手をあたたかい掌でそっと包み込む。
しっとり柔らかい手は、僕よりも小さいはずなのに、すごく大きく感じられた。
「ささくれができたら、早めにきちんと処理しないと、腫れたり膿んだりしちゃうこともあるわ。一人で処理するのが難しかったら、傷が深くなる前に、誰かに頼った方がいいよ」
優しい茶色の瞳は、僕をじっと見つめている。
このまま、澄んだこの茶色に吸い込まれて、この中に住めたら――きっと先生に見えているのは、美しくて優しい世界なんだろうな。
「ねえ、キミ。指にできたささくれは数日で自然に治るけど――」
「先生」
僕は、先生の言葉を遮った。
先生は、心配そうに細めていた目を、少しだけ丸くした。
――その先は、僕だってわかってる。
けれどそれは、僕の大好きな先生にお願いすることじゃない。
「――行ってきます。怪我をしたら、また来てもいいですか」
「……うん、もちろんだよ。何もないのが一番だけど、怪我をしたり、具合が悪くなったら、いつでもおいで」
大丈夫。僕は頑張れる。
ちゃんと僕を心配してくれる人が、怪我をした時に両手を広げて包み込んでくれる人がいるから。
「お大事に」
「ありがとうございました」
ささくれは、早めに処理しないと。
……きっかけは、何だったかな。本当に些細なことだったような気がする。
先生が貼ってくれた絆創膏を見る。
ささくれだけじゃない、僕の心も、守られているような気がした。
今日こそは、ささくれにハサミを入れよう。
僕はホームルームが始まっている教室に入り、自分の席に向かう。
そこには、相変わらずくだらない落書きが書かれていた。
「遅刻だぞ。早く座りなさい」
「……あ……あの」
「ん? どうした。何かあるのか」
――大丈夫。
怪我をしても、治療してくれる人がいる。
僕は、頑張れる。
「何もないなら、早く座りなさい」
「――あの、先生」
僕は、絆創膏を貼った指をぎゅっと握って、担任に向かってはっきりと声を上げたのだった。
ささくれができた。保健室に行った。 矢口愛留 @ido_yaguchi
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