三の一

 路地のどこかで、蟋蟀や鈴虫が涼しげな音色を奏で始めるようになったころ、工房から一番年少の定助が長屋にやってきて、明後日、釈迦如来をおさめた打ちあげ会をするというので、佐平次も来るようにと言ってきた。佐平次は今度の釈迦如来の造像にはさほどたずさわったわけではなかったが、同じ工房に勤める者だから一応声をかけたというふうだった。

 駄賃をやっただけで、行くとも行かぬともいわずに定助を帰したが、さてどうしようと木屑がつもった部屋に、佐平次は座り込んで迷った。

 あのことがあって以来、康甚の工房にはまったく足を運んでいないが、阿弥陀如来が否定されただけで、べつに破門を言いわたされたわけでもなく、打ちあげに顔を出さない理由は見当たらなかった。

 乙にこっぴどく振られたことは、いまだに癒えぬ傷として心に残っているが、乙が一件を皆に語って聞かせたとも考えにくく、乙と顔を合わせなければ恥をかくこともないだろう。

 そう考えれば、宴会に顔を出さないのもなんだか義理を欠くようで心苦しく、気は乗らなかったが佐平次は参加することに決めたのだった。

 阿弥陀如来は、まるで不採用になるのを見すましていたように、春幸堂がやってきて、五両という破格の値段で引き取っていった。

 そんなにもらうわけにはいかない、と遠慮した佐平次であったが、

 ――なに、あんたさんの将来に期待しての投資やさかい。

 そう言って、春幸堂は帰って行った。

 将来に期待、というのは、もちろん贋作に手を貸せという意味であろう。良心がとがめるような気がしなくもなかったが、背に腹はかえられず、佐平次は受け取っておいた。

 日時になって、工房近くの魚よしという小料理屋へ行き奥の座敷へ入ると、佐平次は、おや、と思った。

 十人ほどの人数がもうあらかたそろっていて、一番奥の真ん中に康甚が座り、部屋の両側に並べられた席の一番上座に、菊之介が自分が筆頭という顔で胸を張っている。その十畳の部屋の片隅に乙が控えていた。康甚は謹厳な人だったから、こういう場に女が顔を出すのを好まなかった。乙だけでなく店の女中に給仕をさせることさえもしぶることすらあった。

 これはあのことを皆に告げるに違いない、と思いつつ佐平次は長幼の順で、中ほどの席についた。乙は佐平次が来たことに気づいたはずだが、まるでこちらを見ようとしなかった。佐平次もきまりが悪くそちらに視線を送るのを避けた。

 ほどなく、康甚が皆に向け簡潔にねぎらいを言って、そのまま宴会がはじまるものと思いきや、菊之介と乙を手招いて自分の脇に座らせた。

「皆、もう知っている者もいると思うが、ここにいる菊之介と乙が夫婦になる」

 そう言う康甚の言葉を、佐平次は暗澹とした気分で聴きながら、膳に並んだ料理を見つめ気を紛らわせようとつとめた。康甚は続けて、

「これを機にわしはもう引退してこの菊之介に跡をゆずることにした」

 ぞっと血の気の引く言葉だった。佐平次はふせていた目をあげて、責めるような気持ちで康甚を見た。

 一同どよめいたり、品なく囃し立てたりする者もいて、ひとしきり場がざわめいたあと、そのまま宴会が始まって、乙はそっと部屋を出ていった。

 佐平次は自分で注いだ酒を、腹立ちまぎれにぐっとあおった。

 ――冗談じゃない。

 酒といっしょに不快感が腹にたまってくるようだった。俺はまだ独り立ちも許されていないのに、このままじゃ、菊之介の下で働いていくことになる。そんな馬鹿げたことがあってたまるか。乙を取られたことはどうにかして諦められても、菊之介の采配する工房で働くなどは屈辱でしかない――。

 いらいらとしながら続けて手酌で三杯飲んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る