二の一

 佐平次は汗の流れる額を手のひらでなでながら、嵐山からの帰り道を歩いていて、壬生のあたりまで来た頃、ふと足をとめた。

 畑の手入れをしている農婦に目が惹かれたからだった。

 その女は二十半ばくらいだろう、日に焼けて浅黒い肌をして、腰をかがめて肉付きのよい体をよじり草をむしっていた。やがて腰が疲れたのか、立ちあがって背を伸ばし、流れる汗を手ぬぐいでぬぐった。そのありふれた光景のどこがどうというのではない。佐平次はただ無心でじっと見入った。しばらくして、その熱のこもった視線に気づいたらしい、女は嫌なものをみるような目でこちらを見、身をひるがえした。それを機に佐平次もその場を去った。

 ここひと月ばかり、康甚の工房には顔を出していない。今度の阿弥陀如来の造像に専念するためであった。これまでしていた仕事はすべて後輩にまかせた。どうせ誰がやってもいいような取るに足らない仕事だった。

 そうして佐平次は京じゅうの仏像を本尊としている寺をまわって、見せてもらっていた。いきなり飛び込んでいくものだから困惑する住職も多かった。秘仏だからとことわられることもたびたびだったし、お前立ち(秘仏の本尊のかわりにおいた模造の仏像)だけでも見せてくれれば良いほうだった。わけを話すとしぶしぶといった態でやっと見せてくれることもあった。

 そうして何十の寺をまわって佐平次は思うのだった。

 ――どれもこれもつまらない。

 これまで学ぶべきは先達の技巧や感性にあると考えていて、仏師を目指してからずっと、あらゆる仏像を鑑賞してきた。だが違った。

 慶派けいはだ、院派いんぱだ、円派えんぱだ、と言ったところで、大半の拝観する者からすれば、皆同じ仏像にすぎぬ。一様に表情のない顔をして、棒のように立っていたり、糊で固めたように座っていたりするだけだ。均一で特徴というものがまるでない。作った仏師も伝統のうえにあぐらをかいて、個性を埋没させて、囲われた塀の外へと一歩も踏み出そうとはしないのだ。どれもこれもつまらない彫り物にすぎぬ――。

 そうして既成の創作物に失望していたところ、たった今胸の奥に閃いたものがあった。

 あの農婦の姿であった。

 真に学ぶべきは作り物のなかになどはない、生身の、息をしている人間のちょっとした挙措にこそあったのだ。

 家へと足を一歩進めるたびに、新しい着想が溢流するように、頭のなかに次々に湧いて出てくるのだ。

 西本願寺の鐘の音が障子紙をふるわせる長屋に戻ると、佐平次は、誰かが来ていたなと感じつつ土間に足を踏み入れた。

 寝所にしている四畳半の障子をあけると、あがり端に重箱が置かれていた。

 ――また乙だな。

 と佐平次にはすぐにわかった。

 時時ではあったが、高倉七条の工房から十町ほど離れたここまで、食い物を持ってきてくれるのだった。

 佐平次は乙の持ってきてくれた料理を部屋の隅によけると、わずかに残る西日の差す作業場へ入って座った。

 目の前に檜の、綺麗に木目の走った柾目の材木があった。

 今やっと、その木目の中に、じっと身じろぎせずに眠っている阿弥陀如来の姿が、はっきりと目に見えた。あの農婦の草を引き抜くはりのある腕、肘や肩の動き、よじった腰のひねり……。

 頭にくっきりと浮かぶその形をなぞって、下図を描いた。

 ――俺は違う。

 これまで歴史の中に埋もれてきたあまたの仏師たちとは違う、一段飛び抜けたものを作ってやる。今の俺にならきっとできる。そして、平凡だった父など高高と飛び越え、誰も見ることができなかった新しい境地に踏み出すのだ。


 ひと月ほどたち、像の荒彫りが終わり、輪郭を整え、全体像がおぼろげに形をあらわした。

 ひと彫りひと彫り、指先に神経を集中させ、彫刻刀を動かした。動かすとともに、佐平次の心の中に思い描く阿弥陀如来が木の中から姿を現してくるのだった。これほど自分の思い通りに仏が形づくられていくのは初めての経験であった。彫刻刀と自分が一体になったような感覚だった。

 あまりに集中しすぎ、息をするのもおろそかになり、苦しさに大きく息をすった。

 ふと気がつくと、土間に面した四畳半の上がり口に見知らぬ男が腰を掛けている。

 男は後ろからみると四十半ばくらいで、小柄な体躯の背筋を曲げて、首を伸ばすようにして、開いた戸から路地を眺めているふうであった。

 佐平次はその男の、無機質に感じられる後ろ姿をしばらくじっと見つめて、

「どなたかな」

 と不機嫌そうに言った。

 男は振り向いた。

 思っていたよりも少し年をとっているかもしれない、目尻や口の横に深い皺が刻まれていて、大きな目に人の腹をさぐるようなぎらぎらした光を宿して、こちらを見ている。しかし炯炯と光るその目の奥がなぜか暗く感じられた。嵯峨屋の笑った目と、大きさはまるで違うのだが、どこかにているようだった。男の薄い唇が動いた。

「戸が開けっ放しやったんで、勝手に入らせていただきました」そう言って、人のよさそうな笑いをうかべた。「ずいぶん熱心にお仕事されてはったもんやから、どうも声をかけづろうおましてなあ」

 佐平次は黙って男の目を見返した。男は続けて話した。

「申し遅れまして。あたしは河原町五条のほうで骨董屋を営んでおます、春幸堂しゅんこうどういいます。佐平次はんのご評判はかねがね聞きおよんでおります。つきましては……」

 流れるように話す男の言葉を聞きながら、佐平次は男の口もとに胡散臭さを感じた。俺のご評判だと、そんなありもしないものがあんたの耳に入るものか――。

 佐平次のその咎めるような眼差しを意にも介さずに、春幸堂はさらに話した。

「つきましては、佐平次はんに仏像を彫ってもらいたい、思いましてな。その仕事いうんは、こちらが手本になる仏像を持ってきますんで、それのそっくり同じものをこさえてもらいたいんですわ。模造いうわけですな、いかがでっしゃろ」

 模造か、と佐平次は思った。模造などとは言葉ばかりで、模造品を真作として売るつもりなのではないか。それでは模造ではなく贋作であろう。そう思わせる響きが春幸堂の口調のはしばしに見え隠れしている。

「ことわる」

 にべもなく佐平次は答えた。佐平次の春幸堂を見る目はいつかけわしくなっていて、刺すような光を帯びていた。

「模造を真作と偽って売るつもりやなかろうな」

「さて、お客はんが本物と思えば本物、偽物と思えば偽物」と春幸堂は急に真顔に、――いや無表情になった。

「いかさま師の言い様やな」

「まあそうおっしゃらんと。しばらく考えてもらえまへんやろか。よろしう頼んます」

 笑みをとりもどして言うと春幸堂はさっさと部屋を出て行った。佐平次の心中に湧いた嫌悪など斟酌するつもりなどまるでない態度であった。

「商売人め」

 佐平次は吐き捨てるようにつぶやいた。

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