一の三

 外に出ると、

「あら、佐平さん来てたんやね」

 と声をかける女があった。

 見れば康甚の娘のおとであった。どこか買い物から帰って来たのであろうか、手に風呂敷包みを持って家のわきにある地蔵の祠に身をよせるようにして立って、こちらを見ている。

「仕事が暇だからっていうても、もっと顔を見せに来てくれへんと、お父さんに嫌われてしまうよ」

 乙は大きな目をいたずらっぽくゆがめた。

 そうして乙が笑うと佐平次にかつて入門したころを思いださせた。康甚に毎日叱られ、裏庭の隅でひっそりと泣いてると、乙が時にそっと肩を叩いてくれたり、時にこんぺいとうなどの菓子を手に握らせてくれたり、なにかと慰めてくれたものだった。この家での、暗く澱んだ思い出ばかりのなかで、彼女の心象だけは春の陽射しのように眩しく輝いていた。

 乙は十年ほど前に商家に縁づいていた。嫁いだ時、佐平次は落胆したものだが、三年ばかりで不仲になって出戻ってきた。帰って来た乙を見た時、あまりに大人びた様子に、心臓がどきりと大きく打った感覚を、佐平次はいまでもはっきりと覚えている。

 しかし今、目の前にいる乙は少女の頃に戻ったような笑顔で、ひとしきり工房内の話を一方的に喋った。菊之介がこうだ、安蔵がこれこれだ、音吉が、定助がああだこうだ、と――。

 乙の話しようは歯切れがよく、くぎりくぎりを刃物で切るような喋り方をするものだから、かわいげがないようにも感じられるが、それは反面はきはきとして小気味よい印象を聞く者にあたえ、性格に表裏がないのもあいまって誰からも好かれ、近所の評判もすこぶる良かった。頭の回転も速かったし、仕事一筋で家計も家事もいっさいかえりみない康甚に代わって内所のことはすべて切り盛りしていた。数年前に乙の母親が亡くなってからは、工房は乙で保っているようなものであった。

「なんかええことあったん?」

 唐突に話を変えると佐平次の顔を覗き込むようにして乙が訊いた。

 痩せた顔をしてこけたような頬で、それでいて目が大きいものだから、その目は比較して異様に大きく感じるのだ。その目がきらきらと陽の光を反射させて美しく輝いている。

「なんでや?」

「なんでやて、顔がずいぶんほころんでるやないの」

「え、そうかな」

「そうよ」

 乙は歳が佐平次よりもひとつ下なだけだから、自然、きょうだいのような口のききかたになるのだった。

「あいや、実はな」と佐平次はなにか秘密を見抜かれたようで、ちょっとどぎまぎしながら答えた。「今日は仕事の話をもらえたんや」

「どんな仕事なん?」

「お公家の広橋様のところの仕事なんや。阿弥陀如来をこさえてくれって」

「へえ、広橋さんいうたら……、まあ立派なお公家さんやろうな。ええ仕事をもらえたんとちゃうの、良かったやんか」と乙はぱっと顔を明るくさせた。「これがうまくいったら、お父はんも独り立ちさせてくれるんと違うの?」

「ああ、そうやとええなあ」

「きっとそうなるわ。期待しとるで、がんばりな」

「ああ、がんばるわ。かならず成功させたる」

「ねえ佐平さん、ぜったいよ」

 そう言って昔のように佐平次の肩をぽんと叩くと、牛蒡のような細い体をはずませながら、家に入っていくのだった。若いころから変わらぬその華奢な体は、ちょっと力を入れて握ったら折れてしまいそうだった。

 ――確かに、この仕事をやりとげれば、康甚も佐平次を一人前として認めてくれるだろう。そうなれば……。

 と佐平次は思う。

 乙に求婚しよう。乙も佐平次の気持ちを受けとめてくれるはずだ。ふたりが思い合っているのなら師匠も否やはいうまい――。

 そうして佐平次は高揚する気持ちを抑えかね、はずむような足どりで自分の長屋へと帰るのだった。

 乙の口を弓のように曲げた笑顔が、頭のなかでちらちらしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る