一の二

 京の町に入って東寺の脇を抜け、西本願寺の角を曲がってまっすぐ東へ進み、東本願寺も過ぎてやがて康甚の工房に着いた。入り口の前でほっと溜め息をつく。

 この工房は硬骨な康甚が、慶派の仏師なら古来からの仏所に住まんでどないする、と十七、八年ほど前に四条烏丸から移り住んだもので、師の住居もかねていた。佐平次が門弟となったばかりのころは、まだ壁板が木の香をただよわせていたほど真新しかった。

 今はもう黒くくすんだ潜戸をあけて入ると、土間の右手にある作業場から、狙いすましたように安蔵やすぞうが顔を出し、

「なにをやってたんですか」と先輩を先輩とも思わない口ぶりで言った。「もう嵯峨屋さがやさんが来てはりますよ」

 はて、約束の刻限までは間があるはずだが、と思いながら、土間を抜けて奥の座敷へと向かった。

 顔をだすと、康甚がじろりとこちらをみて、遅かったなとぶっきらぼうに言った。六十を過ぎてから、急に渋みが増した声であった。

「いやいや、康甚はん、わてが早う来すぎましたんや。佐平次はんを責めるのは酷ちゅうもんですわ」

 笑みを浮かべながら言った嵯峨屋が、ささ腰をおろしなはれ、と佐平次を手招きした。仏具問屋の嵯峨屋はこの家にひんぱんに出入りしているものだから、佐平次や菊之介のような古参の弟子だけでなく下働きの顔までしっかりと頭に入っているようだった。

「ちょうどええわ、ほな、これから仕事の話をしましょ」

 そう言って、嵯峨屋が話し始めた。年齢は康甚と同じくらいであろうか、しかし、皺も少なく張りのある肌をしていて齢よりもずっと若く見える。笑うと細くたれた目が、さらに目尻がさがって大黒天のような福福しい顔になる。が、佐平次は嵯峨屋のこの笑みを見るといつも背筋におぞけが走るのだ。たれた目の奥に、人の腹の内をさぐるような何か暗い闇が宿っている気がするのだ。

「先日、お公家の広橋様のご母堂さんが亡くなりはってな」と嵯峨屋は佐平次に向かって話し始めた。「お殿さんはたいへんな親思いのお方でな、いたくなげかれはって、新しく仏堂に阿弥陀如来さんをお迎えしたい、とまあこう言わっしゃるんやな。そこで、康甚はんに相談したところ、ほんなら佐平次はんがええちゅうことでなあ。なに、そんな大きなもんをこさえんでもよろしいのや。丈六仏なんてもんは置く場所もあれへんそうで、三尺ばかりの阿弥陀さんの立像りゅうぞうを御所望や」

「どうだ」と康甚が重い声で言った。「それくらいなもんならお前でも、もう充分彫れるやろ。わしは今やっとる承暦寺はんの釈迦如来の造像で手一杯や。菊之介も手伝いをさせんとあかん」

 佐平次しか暇な者がいないからやむをえずやらせてやる、とでも受け取れる師の言いようであったが、佐平次は、静かに頭をさげた。

「どうぞ、私にやらせてください」

 これは絶好の機会だぞと佐平次は思った。

 広橋家と言えば、公家のなかの名家の家格である。顔も広いだろう。この仕事をやりとげ、広橋家に気に入られれば、佐平次の名があがることは明白であった。小さな阿弥陀如来とはいえ父の作った田舎寺の本尊などとは比べものにならない大仕事だ。

「ほな決まりでんな」

 と嵯峨屋がまた細い目をさらに細くした。

 康甚は黙って顎を撫でている。


 帰りしなに工房をのぞくと、菊之介が他の弟子たちに指図をしていた。十畳の部屋に六人ばかりが一心不乱に鑿や彫刻刀を走らせているものだから、木の香とともに男の体臭がまざりあって、部屋いっぱいに鼻につく臭気が充満していて息苦しい。

 菊之介は表面では人当たりもよく、いま皆に仕事を伝える態度も優しくて横柄さもなく、佐平次よりもふたつ年下であったが人望も厚かった。いつだったか、菊之介は、「人の悪口を言いあってこそ腹を割ってつきあえるというものだ」などと偉そうにのたまわっていた。そんな低俗な価値観の持ち主でも、見栄えがよくて人としての華やかさがあれば、他人からは欠点すら長所に見えるのだろう。周囲から人望も名声も得られているのだから、世間というものは人間の何を見て良し悪しを判断しているのか、佐平次にはまるでわからない。

 佐平次は急ぎの仕事があるわけでもないし、嫌な人間といっしょにいる理由もないので工房を後にして外に出た。

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