二の三

 佐平次は逃げるようにして家に向かって走った。

 ――こんなもんは仏像やない。

 そう言った康甚の声がいつまでも耳の奥で反響し続けていた。

 目を引きつらせて怒鳴る康甚の姿と、人を見下すような笑みを浮かべた菊之介の顔と、康甚の言で考えをころりとひるがえした嵯峨屋の卑屈な笑みが、いれかわりに脳裡に浮かび、佐平次はただひたすら腹立たしく、悲しく、そういう負の感情が渦を巻いて胸の中で荒れ狂っていた。

 同時に、佐平次は絶望した。

 ――俺が彫ったものだから、否定されたのだ。師はまったく俺を正当に評価していない。

 佐平次にはそう思えた。

 佐平次の作った仏像は良くない、菊之介の作った仏像は良い。康甚だけではない、皆がそう思っている。

 人はすべて、仏像そのものの出来よりも、誰が作ったかによって感動しているのだ。

 かつて何度もあった。工房を訪れた者が、佐平次の作った仏像にいったん驚嘆しても、佐平次が作ったと知ればなんだという顔になった。菊之介はその反対だ。あまり出来が良くなくても、菊之介が作ったと知れば、皆一様に褒めそやすのだった。

 彼らは、真実どちらの仏像が秀でているかなどはわかってはいないのだ。ただ見栄えがよく人当たりのいい菊之介が作ったものだから良い作品だ、陰気で感じの悪い佐平次の作ったものだから劣った彫刻だ、そういう見分けかたしかできないのだ。目立つ人間が作ったものが優れている――、他人が良いと言うから良いものだ――、世間とはその程度の眼識なのだ。

 康甚までがそうであったことに、佐平次は絶望した。浅い眼識を覆い隠すように、伝統がどうのとわめき散らす、老人の醜い姿を思い出し厭悪した。

 家に飛び込むと、佐平次は手にした阿弥陀如来の入った桐の箱を、頭上高く振り上げた。

 ――これが仏像やないやとっ?工房の恥やとっ?

 上がり框めがけて叩きつけようと振りおろした。

 刹那。

「あかん!」

 その腕に後ろからしがみついてきた者がいた。

 箱の中で、仏像ががたがたと音をたてた。

 振り返るまでもなかった。乙だと佐平次にはわかった。

 おそらく、工房を出た時から追いかけて来ていたのであろうが、まるで気がつかなかった。

「なんや」乙を見返りもせずに佐平次は叫んだ。「何しに来たっ」

 乙は答えなかった。

 乙の細い腕を振り払い、箱を乱暴に框に置き、床を踏み鳴らして部屋にあがり、あぐらを組んで座った佐平次の背中に、乙の熱のこもったような視線がそそがれているのがわかった。

 そうしてしばらく、ふたりはじっとしていた。

 乙の視線だけで充分だった。

 何を言わなくても、乙の心情は佐平次の胸に伝わってくるのだった。

 工房でのさっきの会話を、どこかで聞いていたのであろう。そうして佐平次を追いかけてきたはいいが、佐平次のうなだれた背中を見、憐れみ、どうして慰めていいのかわからず戸惑っているのだろう。

 そういう憐憫の思いが佐平次の背中に刺さるようだった。

 やがて、佐平次はその痛みに耐えかねるようにして振り返った。

 逆光で黒い薄絹をたらしたように影をまとった顔に、大きな目だけがうるんだように輝き、こちらを見つめていた。

「乙ちゃん」佐平次は乙の目を見かえした。「嫁になってくれ」

 乙のうるんでいた目が、乾いて光を失ったように見えた。

「本当は、この仕事がうまくいって、師匠に認めてもらえたら言おうと思っていたんだ。けどもういい。師匠の許しがなくったってかまいやしない。お前、家を出て俺のとこに来い。なんやったら駆け落ちしよ」

 光を失った乙の目がさらに暗くなった。眉間に皺が寄って目尻が鋭くあがった。

「あなた何を言っているの、なにか思い違いをしているんやないの?」

 佐平次は口をあいてその言葉を聴いた。まるで予想だにしない答えだった。戸惑ったり、照れたりするだろうと思っていたのに。

「お前こそ何を言っている。これまであんなに優しくしてくれたやないか。あんなに俺を気にかけてくれたやないか。飯を家まで届けてくれた。まわりから毛嫌いされていた俺に明るく声をかけてくれた」

「馬鹿言わんといて。これまできょうだいみたいに時を過ごしてきたのよ、大きな仕事を受けたあなたを気にかけるのは当たり前だわ。明るく話をしていたのだってそうよ、きょうだいだからよ。食事だっていい仕事をしてくれなくちゃ、工房の信頼に傷がつくからこしらえて届けたんやないの。別にあんたを思いやってしたんやないわ」

 佐平次は声が出なかった。喉が閉まって、ただぜえぜえと荒く呼吸をくりかえした。

「あたし結婚するのよ。菊之介さんと夫婦になるの」

「そそそ、そんな」

 佐平次は何か言おうとしたが、言葉が喉に詰まったようになって出てこなかった。それでも詰まった喉から無理に声をだしてなんとか喋った。

「し、師匠に言われでもしたんだろう。菊之介なんかと、いやいや結婚することはない」

「お父さんは何も言ってへん。あたし菊之介さんが好きだから結婚するのよ。もうずっと以前からふたりで決めてたことよ。順番が反対になっちゃってあなたに先に言ってしまったけど、近いうちにお父さんに話すの。今の仕事が落ちついて暇になったら祝言をあげるわ」

「阿呆か。お前、人の何を見とるんや。菊之介は頭もよく口も達者で華やかさもある、人に好かれる、後輩から慕われもする、世渡りもうまい。けどな、あいつの彫った仏像が世間に褒められるんは、腕前があるからやない。人として目立つから作った物までうまくできて見えるだけや。みんな騙されとるんや。本当は酷薄で弱い者を侮蔑する人間なんや。下劣や、低俗なんや。そんなこともわかれへんのかっ」

「あんた、人として最低やわ。普段ろくすっぽ喋りもしないし何を考えているのかわかれへんのに、人の悪口をいう時だけはペラペラと舌がまわるんやね」

 言い終わるとくるりと振り返り、乙は戸も閉めずに出て行った。

 俺は生まれてこの方、一度たりとも悪口を言って他人をおとしめたことなどなかった。陰口などはいやしい行為だと自分を戒めて律してきた。それが今、今日の様様な、あまりのしうちに耐えかねてついこぼしてしまった。それがそんなに罪悪なのか。常から悪口をいう菊之介は許されて、たった一度悪口を言った俺がなぜそこまで罵られ、責められねばならない。そんな不条理があってたまるか。

「阿呆かっ、どいつもこいつも阿呆ばっかりかっ!」

 佐平次は、もはや誰もいない空虚な土間に向けて罵倒した。

 乙だけは違うと佐平次は信じていた。佐平次を軽蔑することしかしない他人とは違い、心底から好意を持ってくれていると、ずっと、子供の頃から信じていたのだ。

「阿呆めっ!」

 佐平次はもう一度、虚空に叫んだ。

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