三の二

 しばらくして、菊之介が年長者の席を回り始めた。ひとりひとりに酒を注いで、今後ともよろしくなどと言っているようだ。

 そうして佐平次のところまできて、どうせ一瞥もせず通り過ぎるだろうと思っていたら、膳の向こうに腰をおろした。

 こんなやつに酒を注いでもらうものかと、佐平次は盃を引き寄せて、そっぽを向いた。

 それで去って行けばかわいげのある男だが、菊之介な銚子を持ったまま薄く笑ってじっとこちらをみている。その目が、だんだんけわしく刺すような眼差しに変わっていった。そして、

「よくもこの場に顔を出せたもんや」

 侮蔑するように言った。

 佐平次は横目で菊之介をにらんだ。

 菊之介はそっと顔を寄せ、佐平次だけに聞こえるような小声で、

「よくも俺の女房に言い寄ってくれたな。自分の立場と無能をわきまえろ、恥知らずめ」

 佐平次の顔がだんだん上気してきた。怒りと恥と屈辱と、いろいろなものがないまぜになって、渦を巻いて頭にのぼってきたような具合だった。

「いやしい男や、お前は」

 菊之介の剃刀のような声音であった。その剃刀のような言葉が佐平次の胸を切り裂いた。

「いやしいだと?俺のどこがいやしい」佐平次は甲走ったように叫んだ。

 周りの者がこっちを振り向いたり、素知らぬ顔で聞き耳を立てているのが、目の端でわかった。

「人の女を口説くようないやしい人間だから、あんな下品な仏像しかつくれへんのや」菊之介の声もだんだんと高くなってきた。

「いやしいのはお前やないか、人を陰でなじり陰口を言って相手を貶める。いやしくなくて何だ」

「俺はいやしくなどはない。いやしくてあのような清廉な仏像が彫れるか。お前はどうだ。仏とは亡き人を想い弔うものだ。お前はあの仏像を彫っている時、広橋様の母上の菩提を弔う気持ちがわずかでもあったか。ないやろ。お前のようないやしい人間に人の悲しみなどわかるはずがない。そんなお前やさかい、名利、功利、慢心、増長、怒り、妬み、憎しみ、あらゆるいやしい感情が滲み出した仏像しか彫れへんかったんや」

「なんやとっ!」

 と叫んだつもりが、金切り声で奇声を発したようだった。

 佐平次は持った盃を放り投げて、菊之介に飛びかかっていた。

 菊之介の持った銚子がころがり、酒が畳に染み込んでいった。

 佐平次は菊之介の胸ぐらをつかみ、馬乗りになって首を締め上げた。

「お前に何がわかる」佐平次の声が自分の声でないように聞こえた。「やればやっただけ周りから認められ、苦も無く笑って生きていられるお前に何がわかるゆうんや。どんだけがんばっても誰も評価してくれへん、何をやっても悪くとられる。そんな人間の悔しい、惨めな気持ちがわかるか」

「わ、わかるかいな。他人を妬んで、自分がうまくいかんのを全部世間のせいにして生きている、お前の手前勝手な気持ちなんぞ、わかるわけないやろ。人生がうまくいかんのは全部お前が悪いんやっ、心のねじくれたお前が悪いんやっ!」

「この、くそったれっ!」

 言いざま腕を振り上げた佐平次の頬に衝撃が走った。

 あっと思った時には、すでに撒き散った酒の上に佐平次は転がっていた。

 そのあとはもう、何が起こったのか、佐平次にはわからなかった。

 誰にやられたかもわからない。何人もの人間から顔といわず体といわず殴られ蹴られた。容赦のない打擲が波濤のように続き、誰が止めるでもなく、殴る者達の気がおさまるまで終わらなかった。やがて波が引くように暴力が終わり、体中が鈍く痛んで、立ちあがることもできなかった。もうすでにまぶたが腫れて、狭くなった視野には、誰かもわからない黒い影が周りを取り囲んでいた。彼らが口口にののしる声を聞けば、安蔵たち後輩たちであるようだった。「菊之介はんに殴りかかるとは、ふといやっちゃ」「何様やちゅうねん」「立場をわきまえんかい」後輩たちからそんな罵声が飛んできた。

「もうこの世界で生きていけると思うな」

 そう言ったのは菊之介であった。

 その罵りの言葉がとどめになったように、佐平次の意識はぷつりと途切れたのだった。


 苦痛にうめきながら目を覚ますと佐平次はまるで知らない場所で寝ていた。

 どこかの板敷きの間にいるようだった。息をすると胸が痛むのは肋にひびでも入っているのかもしれない。仰向けに寝ていると胸が痛いので、横向きになるといくぶんやわらいだ。頭もひどく痛んだ。口の中に違和感がして恐る恐る舌でさわってみると、左上の中ほどの歯が折れていた。

「気がついたみたいやな」

 そう言って顔をのぞきこんでくる男があった。男の背中から射してくる光が、ひどく眩しく感じた。

 腫れて視界は狭く、痛いのと眩しいのをこらえて男を見れば、四十年配で、身なりからさっして町奉行所の同心のようであった。

 そうしてやっとここが自身番屋であると理解できた。同時に涙が目尻から流れて落ちた。あれほど一方的に痛めつけられ、そのうえなぜ、まるで咎人のように、自身番に突き出されねばならぬのか。

「まったく余計な手間をかけさせんなや」同心が伝法な口調で話した。「宴会で酔って暴れたらしいな。殴りかかられた当人が、酔った上でのことやから大目にみてくれ言うとったわ。ええ友達を持ったもんやな、おい」

 ほな、もう帰れ、と目障りな野犬でも追い払うように手を振って、同心は番屋から出ていった。

 その後すぐに番人に、ごみでも捨てるように佐平次は追い出された。

 菊之介と、工房の者達の顔がかわるがわる脳裡にあらわれては消えていって、またすぐにあらわれた。

 ――馬鹿にしやがって、どこまでも人を見下しやがって。

 痛みと悔しさで、佐平次の目からは滂沱と涙が流れ続けた。人間の欺瞞と偽善に接して心の底から涙があふれ出てくるようだった。

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