佐々木くんのささくれ

海沈生物

第1話

 バイト仲間の佐々木くんは変わった人だ。いつもぼんやりしていて、三日に一度は電柱にぶつかっておでこに絆創膏を張っている。一ヵ月に三回は飼い猫の尻尾を踏んで怒らせている。そんな不注意な癖に、他のバイト先の居酒屋で一度も注文を間違えたことがない。

 けれど、そんな変わり者の彼にも悩みがあるらしい。それは左手中指にあるささくれである。


 本来、ささくれというものは数日すれば消えるような代物である。あるいは、よっぽど栄養状態が悪ければ延々と消えないものである。だが、佐々木くんは健康優良児である。「朝昼晩、青汁を飲んでいるんですよー」と沼地の池みたいな色をした粉末タイプの青汁を水に溶かして飲んでいるような人間である。あれで健康でないとすれば、私はもう不健康劣等児どころか既に死人である。生きていない。


 話を戻すが、佐々木くんのささくれはただのささくれではない。私の目視で申し訳ないが、彼のささくれは一日に一センチほど伸びている。ちょうどジャパニーズホラーの定番である、日本人形の髪が毎日少しずつ伸びる話と似ている。あの感じでささくれが少しずつ伸びているらしい。


 六センチほどになった辺りで、さすがの私も気になってきた。そこで、バイトの休憩中に休憩室で青汁を飲む彼の背中に「ねぇ」と声をかけることにした。


「どうしたの、鶴木さん?」


「どう、って。……えっとね。佐々木くんの、そう、左手の中指にある、さ。そのささくれって、そんなに伸びてて痛くないの?」


 佐々木くんは少し不思議そうな顔をして、自分の左手の中指に目を向けた。まるで何でも鑑定する某の団がお宝を鑑定する時のような目つきだ。頭の中で「たらららーたららーたたたたたー」と脳内BGMを流して「オモロ」と勝手にほくそ笑む。

 しばらくして、彼は「ああ」と声をあげた。


「このささくれのことなんだけど……」


「じゃかじゃん!」


「は?」


「あっ、ごめん、なんでもない。無視して」


「うん……? それで、このささくれのことなんだけど、僕も一昨日ぐらいから気になっていたんだよね」


「そうなんだ……剥さないの? なんかテレビで昔やっていた爪を切らずに少年漫画の悪役みたいな長さまで伸ばしていた人みたいな独特な趣味嗜好があるのなら、別にどうこう言うつもりはないんだけど」


「さ、さすがにささくれを伸ばす趣味はないよ! それに、僕だってこのささくれを早くどうにかして処理したいって思っているし。でも……」


「でも?」


「ささくれって、剥したら痛くない?」


「は?」


「痛いでしょ! 痛くない? ささくれ。だから、その、気があんまり進まなくて……」


 あまりにもしょうもない理由でため息をついた。「そげが刺さったけど、抜くのは痛いから嫌」と駄々をこねるタイプの根性無しうじうじ虫か。性別関係なくこういうタイプはいるが、だからといって、こんな長さになるまでささくれを放置しておくのは本当に呆れる。三センチぐらいの時点で「びっ!」と引きちぎってしまえば、一瞬の痛みと引き換えにささくれで困るようなことなどなかっただろうに。


「……分かったわ。佐々木くんの気が進まないなら、私が代わりにささくれをちぎってあげる」


「えっ、ほんと!? でも……なんか、悪いよ」


「いいよ、いいよ。ささくれぐらい。ずっと伸ばしていたら、仕事にも支障出ちゃうでしょ? だから、私が引きちぎってあげる」


 佐々木くんはまるでインフルエンザのワクチンを撃たれる前の時みたいに怯えた表情を浮かべた。なんか失礼な気がするな。そこまで怯えなくても良いのに。私が不服ですという意を暗に込めて睨みつけると、彼は委縮した猫みたいな顔をしてこくんと頷いた。私は満面の笑みを浮かべる。

 椅子に座る彼を見下ろす形で対面に立つ。そして、彼が突き出している左手の中指のささくれに手をかける。ごくり、と佐々木くんが唾を飲む音が休憩室に響く。


「よし、それじゃ引きちぎるよ!」


 ささくれの先端を、私の利き手の親指と人差し指で挟み込む。他人のささくれに触れたことはあまりないが、自分のさして変わらない触れ心地だなと妙な感心を覚える。そのまま、私は佐々木くんのささくれをべりべりと剥していく。


「あ……っ」


 なんてことはない、ただのささくれを剥すだけの作業である。


「……っぁ」


 それなのに、どうしてだろうか。


「……ぁ」


 なんで佐々木くんは顔を赤らめているのだろうか。というか、その喘ぎ声みたいなのをやめてほしい。ここは風俗店でもなければ、私たちは恋人関係でもない。ただのバイト仲間である。

 さすがの私も一旦ささくれを剥す手を止めると、はぁはぁと息を漏らす佐々木くんに蔑むような目線を送る。


「……佐々木くんさ。もしかして、こういうのが”好き”なの?」


 彼は赤くなった顔を隠すように俯くと、静かに頭を縦に振った。本当に好きなんかい。呆れというか、知りたくなかったという感情で心が疲弊する。


「こういう、誰かに痛めつけられるのが好きで……あぁ! でも、ただ痛いのは嫌というか、一方的な暴力に興奮するというか、加害性の的になるのが好きというか、なんというか……」


 佐々木くんは「はぁ」と息をついた。 


「なんか……ごめん、ね。僕の変態趣味につき合わせているみたいで」


「変態って。まぁ自覚して反省しているんなら、良いんじゃないの? ただ、その……他人の性癖なんて知りたくなかったけど」


 微妙に気まずい空気が流れる。なんかこういうの、苦手だ。お互いの感情が飽和して、言語化されていない感情だけが宙を漂っているような、妙な瞬間。そんな瞬間が心底苦手だ。だから、さっさと彼のささくれを引きはがすことにした。


「えい」


「…………っ!」


 勢い良く残りのささくれを剥すと、グロテスクな血色をした佐々木くんの肌の下が露出する。まるで理科室にある人体模型のようだな、と苦笑いを浮かべた。あまり見ていて気持ちが良いものではない。ただ、これでささくれ問題は解決したのだ。


「やったね、佐々木くん!」と報告しようと彼の顔を見る。すると、佐々木君はその場で失神していた。いやそんなことあるか、と頬を叩いてみたが起きない。それどころか、を見て理解した。


 どうやら、座ったまま「至った」らしい。最悪すぎる。本当に最悪すぎる。頭おかしいのではないかとドン引きする。私の頭の中の佐々木くんの評価がだだ下がりになる。こういうのは家でやれよ、家で。真面目に。


 休憩室の外で店の掃除をしている店長にどう説明したら良いのか。ありのまま起きたことを説明すれば良いのか。いや無理だろ。どうするんだこれ。これからのことに頭を抱えながら、ひとまず、剥したささくれをゴミ箱に投げ捨てた。

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