小指のささくれ

飯田太朗

小指のささくれ

 その死体が見つかったのは世界大恐慌が始まる少し前のこと。駆け出しの春がまだ寒さから抜けきらない、三月十一日の朝方、午前五時のことだった。

 公園の管理人がいつもより一時間も早く出勤した。理由は単純で、この日は管理人が結婚してちょうど二十年が経つ頃だったからだ。管理人はいつもより早く家に帰って妻を祝いたかった。だからこの日は一時間早く出勤した。

 異変にはすぐに気づいた。どこかで何かを削るような音がする。森の方からか……? 

 管理人はランプを持ってその音のする方に出向いた。手には散弾銃を持っていた。このところ森で、違法な行為に及ぶ輩が出ているとの注意喚起があったため、自衛の手段を用意したのである。

 果たして管理人はその異変と遭遇する。

 いつの間にか削るような音はしなくなっていた。しかし違和感だけがあった。管理人は森の奥へ進んだ。そうして、見つけた。

 棺桶。

 長くて大きな箱がひとつ、縦長な穴のそばに置かれていた。管理人は一目でそれが埋葬だと気づいた。だが違法な埋葬であることは明らかだった。何の届出も出ていないし、この森に何かを埋める手配があった覚えもない。第一、そんな話があるならまず管理人に連絡が入るはずだ。管理人は箱に近づいた。そばには大きなシャベルがひとつ、乱暴に放り投げられていた。

 箱の中を覗く。

 不思議と声は出なかった。

 それは多分、箱の中で息絶えている女性が、まるで水の精霊のように、たいそう美しかったから、という理由があったからかも、しれない。



 この事件が僕のいる課に回ってきたのは三月十三日の昼、ランチが終わった頃だった。僕はサンドイッチを頬張りながら先日の、銀行強盗についてのレポートをまとめていた。

「ジョセフ、行くぞ」

 先輩刑事のアルフが上着を羽織る。僕は手を止めた。

「殺人事件だ。それもなかなかの美人らしいぞ」

 先輩はニヤッと笑った。

 僕たちが現場に赴くと既に巡査が周辺を整えた後だった。すなわち死体は運び出す準備がされ担架に乗せられており、棺桶やシャベルの写真はカメラに収められ、規制線が木々の間を蜘蛛の巣のように張り巡らされた後のことだった、というわけだ。

「うわっ」

 僕は死体を見て声を上げた。

「すっごい美人だ」

 それはアルフの言った通りだった。

 目を瞑ったその顔は見ているだけで吸い込まれそうだった。あの柔らかな唇にキスできるなら警察のバッジを捨ててもいい気がした。実際、彼女の前にいるのに何で僕は手ぶらなんだと思った。花の一輪、あってもいいじゃないか。女にしても死体にしても、花はよく似合うだろうに。

 そして死体は、どういうわけか裸だった。首元に大きな手形。多分これが命を奪ったのだろう。だがそんな痣が残ってもなお艶かしかった。体の曲線が僕の目をとらえて離さない。実際アルフも涎を垂らしていたと思う。乳房から腰、尻にかけての滑らかな曲線はそれはもう堪らない、むしゃぶりつきたくなるような線で……

 ……あれ?

 これはみっともない話、僕は死体に見惚れるあまり担架に接近してほとんど彼女に触れられるくらいの距離にいたのだが、そしてその距離にいたからこそ、そう、その距離で彼女の曲線に見惚れたからこそ、気づけたことがひとつ、あった。それは彼女の手に関することだ。

 しなやかな曲線の先、へそのあたり。彼女の五指が丁寧に揃えられていた。その小指……左手の小指の、爪の根本のあたりが、ぴっ、と、ささくれていたのである。



 この一件は、僕にとっては特別な一件だった。

 それは被害者の美しさ、という意味でじゃない。

 初めてアルフから担当を任された、僕の独り立ちの仕事だったからだ。

警部キャプテンには週報を入れろ。鉛筆をナイフでガリガリ削り出したら苛立ってる証拠だ。多少出来が悪くても出せ。どうせ大して読みやしないから字も汚くていい。最悪適当にぐるぐる書いて出せ。警部はせっかちだからな。週の終わり、金曜日には何も進展はなくても進展があったようなレポートを書いて提出しろ。さっきも言ったが、読みやしないだろうから口頭でも説明入れとけよ」

「進展をでっち上げろって……そんなことってありか?」

「華の金曜日にマグノリアで一杯やりたくない奴が言うセリフだなそれは」

 さぁ、そういうわけで。

 僕と事件の格闘が始まった。


 しかし、いや、ある意味当然のことか、捜査は難航した。何せ手がかりが少ない。

 森の中にあったのは全裸の女の死体と棺桶、それにシャベルだけ。厳密には穴もあったが手がかりらしきものはなし。おそらくだが埋葬の最中に公園管理人に見つかったから逃亡した……という顛末だろう。

 とりあえず、推定犯人がこの穴に死体を埋めようとしたのは間違いない。穴は浅く、棺桶を埋めるのには少し心許なかったがそれでも土を被せてしまえば最低限隠せはする、そんな穴だった。

 捜査に当たった翌日には被害者の身元が割れた。

 マリア・アントワニーズ二十二歳。フランスの名家の出でアメリカこっちに来てからは美容研究家として活動していた。イマイチピンとこない仕事だが、どうもヨーロッパの方では女性の美と健康のために活動する人のことをそう呼ぶらしい。やることは化粧品やら健康食品やらの開発。まぁ、僕とは縁遠い業界だ。

 ただ、まぁ、美容研究家というだけあって。

 あの全身が聳り立つような美しさは、努力の賜物なのだろうな。シャワーの後にクリームを塗ったり、香水や、化粧水なんかもたっぷり使うのだろう。

 だからこそ、そう、だからこそ、最初の僕の疑問が際立つのだ。

 全身の美容に気を遣っている。クリームや化粧水を欠かさない。多分指先のケアなんかもしっかりしてるだろう。そんな女性の……柔らかで、しなやかで、美しい女性の指が、それも小指だけが、ささくれて……? 


 マリア・アントワニーズは女給を雇って家事の全般をさせていた。給料はかなりよかったらしく、僕に話をしてくれた女給の一人、中年女性スージー・クワイスはこれからどうやって生きていこうか真剣に悩んでいた。

 だが聞くところによるとマリアは肌に気を遣うあまり水仕事の類は一切しなかったらしく、皿洗いなど以ての外だったそうだ。彼女が手を水につけるのはフィンガーボウルとシャワーの時だけ……しかしヨーロッパの方では頻繁にシャワーを浴びる人間は珍しいらしく、彼女は「これでも水を浴びている方」だと言っていたらしい。

 マリアに最近変わったことはなかったか、とスージーに訊いたところ、彼女は、

「そういえばこの頃美術教室に通って版画を習っていた」

 と話した。これが捜査の手がかりになる。

 早速その美術教室とやらに向かうと二人の男と一人の女が出迎えてくれた。男。ジョン・ワッティー版画絵師。もう一人の男。ハリー・ケニヤ摺師すりし。女。美術教室生徒、アビリーン・マクリー。

 版画絵師のジョンと摺師のハリーからは大した話は聞けなかったが(しかも工房には関係者以外立ち入り禁止だと頑なだった)、アビリーンは饒舌だった。アルコールやら、絵の具やら、さまざまな薬品の匂いがする教室の中で彼女は話した。

「三ヶ月前……忘れ物を取りに教室に戻ったら聞こえたんですわ……女の人の、その、いやらしい声が、ね」



 ジョンとマリアが恋愛関係にあったのではないか。

 僕がそう考えるのには納得していただけるだろう。美術教室の生徒と教師。いけない関係だ。だがその分燃える。

 しかし決め手に欠けた。実際証拠がない。マリアとジョンが密接だった証拠が。

 金曜日。最初のレポートを警部キャプテンに提出するにあたり、僕は警察署の周りを歩いてみることにした。何、散策の最中に良案に出会うことはまままある。僕は散歩をした。そうして、図書館に来た。

 警察署の裏に図書館があるのは知っていた。だがその図書館の裏に妙なカフェがあることは知らなかった。このあたりはよく歩くのに……。

 しかしまぁ、行き詰まった調査に一杯のコーヒーは沁みるだろう。僕はカフェの戸を開けた。ベルが鳴った。

「ハロウ」

 店主が挨拶してきた。それは妙な訛りのある「ハロー」で、僕は「こいつまでヨーロッパ人か?」と訝った。しかしまぁ、あっちのコーヒーは何だかとかいう特殊な抽出法で美味しいらしい。せっかくだ。頼もう。そういうわけで、僕はカウンターに座った。しばらくして、コーヒーが出てきた。

 僕があれこれ、事件について頭の中でこねくり回していると、店主がにこやかに僕のそばに来た。カウンターテーブルの向こう。店主は訊いてきた。

「何かお悩みでも?」

 低くて、渋い声だった。

「ああ、いや、仕事のことでね」

 僕は笑った。

「どうにもうまくいかなくて」

「それはそれは。大変でしょうね警部補ルーテナント

 僕は凍りついた。

「何で僕の職業を……」

 しかし店主は笑う。

「バッジ、胸ポケットから見えてますよ」

「ああ……そっかそれは……」

 と、言いかけたが。

「……にしたって何で警部補だって?」

「この時間帯に外をうろつける、制服を着てない警官と言やぁ警部補くらいのものでしょう。警部キャプテンは部下からの週報を待つでしょうからね。巡査は巡回しているからこんなところで油は売れない。巡査長は警部同様、巡査からの週報を待つ身だからこんなところにはいない」

 返す言葉もない。

「お仕事はあれですか? エルミリア公園の?」

「何でそこまで分かるんだ?」

「新聞読んでりゃ察しはつきますよ。妙な女の死体が見つかった大きな事件の割に続報が少ない。捜査が進んでないのでしょう」

「ああ、いや、まったく……」

 僕は白状した。

「その通りだよ。お手上げなんだ」

 僕は少し躊躇ってから、しかしこの店主相手だと下手に隠したら余計なことまでバレかねないと、ある程度までの情報を公開することにした。どうせ放っておいても、僕の報告書を読んだ警部が記者会見で口にして、遅かれ早かれ明日の朝には紙面を飾る情報だ。僕は話した。

「……というわけで、どうにもならなくなって」

 すると店主はニヤッと笑った。

「まぁ、女は自分で服を脱いんだんでしょうな」

 僕は訊ねる。

「それはどうして?」

「ヨーロッパの美容家だか何だかとかいう女がその辺の小娘が着ているような安くて質の悪い服なんて着るわけがない。上等な服は脱がせるのに苦労します。女が脱いだ方が楽でしょうな。少なくともわけではない」

「となるとやはり情事の果てか……?」

「大きな手形が首元にあったなら間違いないでしょうな」

「まぁ、そこまでは僕も納得がいくんだ」

「何に納得がいかないんです?」

「いいか、マリアの周りには怪しい男がいる。だがそいつとマリアを直接結ぶ線がない」

「あるじゃないですか」

 僕は首を傾げた。

「どこに?」

 すると店主は小指を立てた。

「ここに」



 摺師のハリー・ケニヤ氏が逮捕されたのは土曜日の朝のことだった。決め手はマリアの小指のささくれだった。

 美容にこだわりのあった彼女の家にはやはり美容液や化粧水や、さらにクリームの類が山のようにあった。その中には七種類のハンドクリームがあり、全てが均等に使われた形跡があった。つまり、マリアは欠かさずこれらの化粧品を使っていたということだ。

 当然、手の指の先から爪先までしっとりツヤツヤ。実際彼女の裸体が綺麗だったのも彼女の努力の賜物だろう。しかし小指だけがささくれていた。これは何故か。

 これは版画の経験がある人なら分かることらしいが。

 刷り上がった紙を持つ時、親指、人差し指、中指は使わない。小指と薬指の間に挟んで持つらしい。理由は親指、人差し指、中指はインクが付いている可能性があるが小指と薬指の間には比較的インクがつきにくい。せっかく一生懸命紙を擦り上げても指についたインクで全てを台無しにしては上がったりだ。だから小指と薬指の間に挟むらしい。

 そして版画は原版についたインクを除去する工程があるのだが、ここではアルコールを用いた特殊な薬品を使う。これが鍵だった。

 アルコールは水分を飛ばす。それは女の細指でも容赦ない。マリアが一生懸命クリームを塗って細胞内に留めた水分は、アルコール製剤によって綺麗に飛ばされたのだ。結果、指がささくれた。おそらくだが、薬品が染みた紙を小指と薬指の間に挟んだのだろう。その際にアルコールが水分を飛ばした。

 実際彼女の小指の爪を調べると、僅かにだが変性アルコール薬品の残滓が検出された。これは版画を擦る工程でよく使われる薬剤だ……版画を彫る工程ではなく。つまり僕が当初睨んだジョンは犯人ではなく、ノーマークだったハリーが犯人だったことになる。

「ご苦労だった。幸先いいスタートだな」

 警部キャプテンは僕を褒めてくれた。

「この調子で頼むぞ」

 しかし僕は手放しには喜べなかった。どうしてかって? そりゃそうさ。僕はあの、図書館の裏にあるカフェのおかげで謎が解けたのだ。あの特殊な淹れ方をするコーヒーが美味い店。喫茶店カッフィハウスシュンペーターの店長のおかげで、僕は活躍できたというわけだ。


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