僕と彼女の糸切り合戦(KAC20244 参加作品)

高峠美那

第1話

「「オイショ、オイショ、オイショ!」」


 摩擦でささくれた麻糸から、白煙と焦げるにおいが立ち上った。

 砂埃と汗の匂い。鼓舞するラッパと太鼓の音が、どこまでも続く砂浜に鳴り響く。


 『大凧の糸切り合戦』


 男達の掛け声とともに、遠州のからっ風に舞った大凧は、互いの糸を絡ませ合うことで、どちらの糸もささくれる。それでも自らの糸を犠牲にして、相手の糸を先に断ち切る。


 それこそが『ケンカ凧』だ。


 須川すがわが、この迫力満点の凧切り合戦に初めて参加したのは、ちょうど二十年前だった。この土地で生まれ育ったわけではない余所者が、地元の祭りだ…と胸を張れるていどまでには、経験と年月を積んだとは思う。


 雄大に見える大凧だが、糸を引いている方はラクではない。砂浜に足を取られ、身体全体の力を使い、手のひらは擦れて指の感覚がなくなるほどだ。だが、男も女も息を合わせて糸を引く。


 熱気と興奮は最高潮に達し、全ての感覚を凧に向け、ただひたすら糸が切れるまで強く引き続けるのだ。

  

 太さ五ミリの麻糸が、少しずつ、少しずつささくれていく。顔や足だけではなく、法被や下着の中まで砂まみれ。


「オイショ!! オイショ!!」


 同じ麻糸を握る仲間の声に合わせ須川すがわは、大声を張り上げていた。リズミカルな動きは、すっかり身体に染み付いている。


 それは二十年前の須川すがわでは、考えられないほどに…。


 須川は若い頃、東京の商社に勤めていた。仕事は大変だが、その分給料もいい。三年付き合った沙紀さきとも、そろそろ結婚を意識した頃だった。


「実家に戻らなくてはいけないの…」


 だから、別れて欲しいと言われたのだ。


 これから結婚して…家族を得て、仕事もバリバリこなして、マンションぐらいなら購入しようかと夢見ていた矢先に、別れを告げられるとは…。


 お互いに嫌いになった訳では無い。それなら、夢見た場所が東京でなくてもいいと思えるくらい、須川は彼女に惚れていたのだと改めて気付かされた瞬間でもあった。


 俯いている彼女に、須川すがわは笑って言った。


「僕を、沙紀さきの結婚相手に選んではくれないのか?」


 沙紀は、弾かれたように顔を上げる。その顔を見れば、彼女がどんな言葉を欲しがっているのかくらい分かった。だから、須川も思ったままを口にしたのだ。


「沙紀が東京を離れるというのなら、僕も一緒に行くよ」


 そう言うと、沙紀はくしゃりと顔を歪めて、今までで一番の笑顔で笑ってくれた。


 それからは、何もかもが今までの生活と一変した。それこそ心が擦り切れそうなほど悩む事もあった。だが、東京を離れたことと、会社をやめたことに後悔はない。


 あのとき「私を選んでいいの?」と、不安そうに聞いてきた沙紀に、須川が言った言葉に偽りはないのだから…。


 それから沙紀の実家の花農家を、須川が継いで早二十年。土と水いじりで、すっかり農家の手になったのは沙紀も同じだ。


 静かでのどかな町が、毎年この時期になると、町も人も浮き立つ。


 須川にとって、凧揚げ合戦はこの土地に移り住んだ自分を鼓舞する祭りだ。


 皐月さつきの空に、今日も悠々と舞い上がった大凧は、一つや二つではない。色とりどりの大凧は百を超える…。

 鳥の絵柄があるかと思えば、一文字だけ書かれた凧。大きさは、畳二帖ほどの凧や畳十帖もある大凧を上げる強者つわものの町もいるほど。


「オイショー! オイショ!!」


 ほら…。今も太さ五ミリの麻糸が激しく切り合いささくれていく。そうして切れた大凧は、海からの風に煽られながら落ちていくのだ。しかし糸が切れた大凧は、それさえも誇らしい。


 大凧を上げるには技術がいる。花農家も、常に改良を重ねて技術がいる。試行錯誤は花も凧も同じ。


 昔は、あんなに華奢だった沙紀の手も、麻糸みたいにささくれてガサガサだ。それなのに、昔よりもっと綺麗になった沙紀が、また同じことを須川に聞くのだ。


「私を選んでよかったの?」


 だから、須川も同じ言葉を返す。


「沙紀のいる町が、僕の住む町だろ?」


 須川と、沙紀。どんなに大きな壁にぶつかっても、お互いの手は繋がったまま。


 今日も、真っ青な空に大凧が悠々と上がっていた。




              おわり


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僕と彼女の糸切り合戦(KAC20244 参加作品) 高峠美那 @98seimei

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