本編

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 恋は人を変える、とはよく言うけれど。

 失恋もまた人を変えてしまうのかもしれない。


 私は小さくため息をつきながら、ポケットからスマホを取り出した。

 画面に表示された時刻は一七時半。親友との待ち合わせ時間はとっくに過ぎていた。

 彼女は誰かを待たせるような人じゃないのに。どうしたのだろう。


 ――今どこ? 私は中橋に到着してるよ。


 スマホで親友にメッセージを送るが、数分待っても返事は来なかった。

 これも彼女らしくない。彼女の返信はいつだって早いのに。

 やはり、失恋が彼女を変えてしまったのだろうか。


 どこかに親友の姿が見えないか、と私は辺りを見回してみた。


 美術館や土産物店が営業時間を終えたのだろう。美観地区を歩く観光客は、まばらになりつつあった。

 むわっとした夏の夕暮れの風が吹き抜けて、倉敷川沿いの柳並木を揺らしていく。立っているだけで汗がにじむ気候なのに、青々と茂る柳は涼しげに見えるのが不思議だ。

 通りに並ぶ白壁が茜色に染まっている様は、なかなか風情がある。


 私の予定では、今頃は親友一緒にこの景色を眺めていたはずだった。

 なのに、彼女の姿はどこにもない。


 中橋なかばしの欄干によりかかりながら、私は小さく肩を落とした。


 待ち合わせ場所に指定したこの「中橋」は、美観地区の中心地。倉敷川に架かるアーチ型の石橋で、そのたもとには倉敷館観光案内所もある。地元に住んでいる親友が迷う様な場所じゃないはずだ。


 彼女に電話でもしてみようか。そう思った時だった。

 ポケットのスマホが能天気な音を立てる。


 ――ごめん、まぁちゃん。そっちに行くの、もう少し遅くなりそう。


 画面に表示されたそれは、間違いなく親友からのメッセージだった。

 私のことを「ママみたいに世話焼きだから、まぁちゃん」と呼ぶのは彼女だけなのだから。


 ――なんで?

 私がすかさず親友にメッセージを送る。


 ほどなくして彼女からの返信が届いた。

 ――なんか、道に迷ってる人に声かけられちゃって。ちょっと案内することになった。


 私は小さくため息をついた。

 道案内など、スマホの地図アプリに任せればいいものを。頼まれたら断れない彼女らしいトラブルだ。


 ――ちなみに、今どこにいるの?

 私がメッセージで問いかけると、すぐに親友からの返事が届いた。

 ――武士の像がある橋にいるよ。


「武士の像?」

 私はそう呟きながら、スマホの画面から顔を上げた。目の前の中橋は小さな石橋だ。武士の像なんてない。


 私は首を傾げながらメッセージを送る。

 ――どこにそんな橋があるの? 私もそっちに行くよ、案内して。


 親友からの返信は、予想外に短い上、早かった。

 ――ダメ。まぁちゃんはこっちに来ちゃダメ。


 ――なんで?

 訳が分からず、私は彼女にメッセージで問いかける。

 ――『こっち』って何? 今、どこにいるの?


 しかし、今度は返信がない。数分待ってみたが、私のスマホはウンともスンともいわない。

 困り果てた私の目に入ったのは、倉敷館観光案内所だった。



「武士の像のある橋ってどこですか?」

 閉館時間ギリギリの観光案内所のカウンターに駆け寄って、私はそう尋ねた。

 カウンターのお姉さんはちょっと考えると「もしかして、藤戸ふじと盛綱橋もりつなばしのことですか?」と問い返した。


 私は目をパチクリさせる。

「もりつなばし?」


「藤戸合戦という源平合戦の一幕で武功を立てた武士、佐々木盛綱。その像がある橋が盛綱橋です」

 お姉さんはそう言いながら、パンフレットを差し出した。


 佐々木盛綱。

 彼は、当時海が広がっていたこの藤戸合戦の舞台を馬で渡り、武功を立てた。

 海での戦いに不慣れな源氏軍に油断していたのだろう。平家軍は意表を突かれた形になった。結果、藤戸合戦は源氏の勝利となる。


 しかしその武功には、裏があった。

 盛綱は、馬で海を渡れる浅瀬の場所を地元の若い浦人から聞きだし、その命を奪うことで口封じをしたのだ。

 藤戸には、合戦の戦死者や浦人を弔うために、盛綱が修復し、大法要をしたとされる寺が今もあるらしい。


 そんな武士の名を冠する盛綱橋は、待ち合わせ場所の中橋と同じく倉敷川に架かる橋だ。でも、パンフレットの地図を見る限り、盛綱橋と中橋はかなりの距離がある。車に乗っても十五分くらいはかかりそうだ。


 なぜ親友はそんな所に?

 彼女は生まれも育ちも倉敷だ。待ち合わせ場所を間違えるはずがない。


 釈然としないまま観光案内所を後にした私は、再び中橋の前に戻る。しかし、やっぱり親友の姿は無い。スマホを見るがメッセージの返信も無い。


 夕暮れの蒸し暑い風が、ため息をついた私の頬を撫でる。川岸の柳並木がぞわり……と揺れて音を立てた。


 その時だった。


 突然、私の手の中のスマホがけたたましい音を上げた。電話だ。


 びくり、と肩を震わせながら、私は画面を見る。

 そこに表示されていたのは、親友の名前だった。


 開口一番、私は叱りつけるように彼女に問いかける。

「もしもし! 今どこにいるのよ?」


 電話口から聞こえてきたのは、穏やかな声だった。

「ごめんね、まぁちゃん。心配かけて」

 

 それは、まちがいなく親友の声だった。私のことをまぁちゃんと呼ぶのは彼女だけだから。

 でも、何かがおかしい。

 昨日の電話で聞いた虚ろな声の主とは思えない。それは、いっそ場違いなくらいに和やかで満足げな親友の声だった。


 虫の知らせだろうか。

 私のお腹の底で、ぞわり……と何かがうごめいた気がした。


「あのね、まぁちゃん。あたしのためにここまで来てくれて本当にありがとう。どうしてもお礼が言いたくて、電話をしたんだ」


「何よ急にお礼なんて。いいから、早く一緒にご飯に行こうよ」


「ごめんね。あたし、もう一緒にご飯は行けないの」

 親友が、私をなだめるように言う。

「あたし、これから彼を案内しないといけないの」


「何言ってんのよ。今どこに居るの?」


「向こう岸にいるよ」


「向こう岸?」

 私がそう問い返しながら辺りを見回す。


 そして、私は見つけたのだ。 確かに、中橋の向こうに並んだ二人の人影がある。

 夕日の逆光のせいで、二人の顔は良く見えない。でも、シルエットだけでも分かる。


 並んだ人影一つは、懐かしい親友の姿だった。

 少し痩せたのだろう。以前よりほっそりとしたシルエットは、ふんわりとしたワンピースが良く似合っていた。


 もう一つの人影は、知らない男の姿だった。ゴツゴツとした体格の良いシルエット。だが、何者だろうか。


「ともかく、やっと会える!」

 私は声を弾ませて、中橋を走り渡ろうとして――――足を止めた。


 いや。正確には、足を止めざるをえなかった。

 橋が途中で切れてしまっていたからだ。


 アーチ状の石橋は、橋の中ほどで崖のようにブツリと切り落とされている。その下には暗い色の倉敷川の水面が揺れていた。

 おかしい。どうして急に橋が落ちているんだ。


「まぁちゃん、こっちに来ちゃダメだってば。危ないよ。橋から離れて」

 電話口から、親友の声がする。


 私はぎゅっと唇をかんだ。

 向こう岸まであと橋半分の距離なのだ。そこには親友がいる。

 でも、こんな中途半端な石橋、いつ崩れてもおかしくない……。

 迷った末、私はジリジリと後ずさりをして橋を降りた。


「どうしてこんなことに……? 他に橋はないのかな?」


「ねぇ、まぁちゃん」

 困惑する私を尻目に、親友が穏やかな口調で話し始めた。

「あたし、紹介したい人がいるの」


 親友からの唐突な話題に、私は一瞬言葉を失った。

「……は?」


「あたしの隣にいる彼、見える? あたし、この人を案内してたの。彼、遠くから来たらしくて、道が分からなくて困っていたんだって。それで、『地元の人間だから、案内しましょうか』ってあたしが言ったら、彼、とっても喜んでくれてね。時間はかかったけど、あたし、何とか彼をこの岸まで案内できたの。そしたらね。彼、どうしたと思う?」


 はにかむような忍び笑いをもらしながら、親友が話をつづけた。


 「彼ってば、急にあたしを、ぎゅって抱きしめたの。その時のあたしはね、もう頭の中空っぽで、クラクラしちゃって。スゴイ衝撃でね。心臓を貫かれたのかと思っちゃった。彼のたくましい腕の中で呼吸が止まりそうで。こんな気持ち、あたし初めてで――」


 熱に浮かされたようにべらべらと喋る彼女は、私の知らない人みたいだった。


 ぞわぞわ、ぞわぞわ。

 一方的に喋る親友の明るい声を聞いている間、私のお腹の底で何かがずっとうごめいている。


「――で、その時思ったの。あぁ、これが運命の出会いなんだ、って。ねぇ、まぁちゃんもそう思わない?」


「もういい、止めて」

 私は震える声で彼女の話を断ち切る。

 これ以上、お腹の底のうごめきに耐えられなかった。蒸し暑いはずの夏の空気の中で、私は鳥肌が立っていた。

「私もすぐそっちの岸に行くから。彼と同じように私も案内して」


「それはできないの」

 そう言う親友の声は、急に熱が冷めたような、淡々とした調子だった。

「この岸へと渡る道を知るのは彼だけ。そうじゃないとダメだから」


「何それ、意味分かんないよ」


 泣きそうな声でそう言う私に、親友は穏やかに語りかけた。


「心配しないで、まぁちゃん。私は大丈夫。だって私、今幸せなの。彼のためなら命だって惜しくないと思えるくらいに」


 これが本当の恋なのかもね、と囁いた親友は電話を切ってしまった。

 そうして彼女は隣の彼と手をつなぎ、踵を返して歩き始める。


 対岸に残された私は彼女の名前を叫んでみたけど、彼女は振り返らなかった。


 夕暮れの蒸し暑い風が私の頬を撫でる。川岸の柳並木がぞわり……と揺れて音を立てた。


 何がどうなっているのか。全てに全然納得できなくて、再び中橋に駆け寄った私は息をのんだ。

 切り落とされていたはずの中橋は、すっかり元通り。アーチ型の石橋は、しっかりと向こう岸まで届いている。

 恐る恐る橋を渡った私は、手当たり次第に周囲を走り回ったけど、親友と男の影も形も見なかった。


 後で聞いた話だけど。それ以降、彼女を見た人は誰もいないらしい。


 恋は人を変える、とはよく言うけれど。

 失恋もまた人を変えてしまうのかもしれない。

 通話の切れたスマホを握りしめながら、私は痛いくらいにそう思った。


 親友を変えてしまったのは、恋だったのか、失恋だったのか。

 私には分からないままだけど。

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向こう岸への案内 芝草 @km-siba93

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