曽祖父たちの日

霧縛りの職工

「根」「命日」「水門」

 抜けるような青空の下、テントから突き出た煙突から湯気が立ち上っている。木造りの家が並ぶ住宅街の只中で青年トゥルムは熱い蒸気に裸体を包まれていた。


 体表は高温の湿気で熱を帯び、刈り込んだ黒髪に包まれた頭頂から滴るものが露なのか汗なのかさえ分からない有り様だ。日に焼けた肌で強調される引き締まった筋肉の輪郭を水滴が度々流れていく。

 息苦しささえ覚える空気を何度も肺へ送り込み芯から温まっていた。口をすぼめて辛抱強く息を続けながら流れる砂時計を睨みつける。落ちきったのを見届けるとドアを叩いて飛び出した。


 寒気と言うには程遠いが蒸気風呂の中と比べれば天地の差だ。穏やかな風に身を晒し大口を開けて熱気を吐き出す。軒先に座って読書をしていたガザルがその姿を見て笑いながら声をかけた。


「やぁ、トゥルム。我が家の風呂の具合はどうだったかな」

「いやまったく最高だった。疲れが削ぎ落とされたよ」

「そいつは重畳だが、まぁ水を飲みたまえよ。そしたら冷えすぎないうちに体を拭くんだ」

「なにからなにまでありがたい」


 ガザルに近寄り腰を掛け、吸い飲みを手にする。何度も喉を鳴らして半分以上を一息にした。その間にし損ねた息を取り戻すと、ようやく布で身体を覆った水気を取り始めた。


「流石に見違えたな。泥だらけの髭面で浮浪者そのものだったが」

「長旅ではあったからね。君がこんな地方に住んでいなければ来なかったよ」

「我が故郷ながら辺鄙なところだからな。手紙で来ると言われても信じ難かった」

「一度は来ると約束したからな」

「結婚するならもう当分は来ないだろうとね」

「式を済ませてしまえば嫁さんをほおってはおけないからなぁ。相手の実家が送り出しに時間が欲しいということで、仕事も一段落したところだったからなんにせよちょうどいい頃合いだったのさ」


 2人が住む国はその大半をだだっ広い平原が占める内陸地だ。東西に長い楕円で模すと比較的海に寄った東の焦点に近い首都に対してここソム・ガーラは西の焦点に近く、その隔たりはゆうに1000kmを越える。首都での学生時代にした約束を果たすためとは言え、片道でさえ一月は要する旅路へは相応の決意なしに踏み出せない。ガザルはその友情に深い感謝を抱いていた。


「何度か話に聞いていた祭りの時期だと思ってはいたが、前日に到着できるとはツイていたな」


 昨日の夕方に街に着いたトゥルムは宿場の厩舎に馬を預けガザルの家へ着くなり、砂埃に塗れた身体を洗いもせず疲労のまま寝入ってしまった。ひとしきり眠りこけてから目を覚まし、トゥルムが用意していた風呂を借りたのが昼過ぎの今だ。


「首都に比べれば質素なものだけどね。そろそろ出ればちょうどいい頃合いだよ」

「いい弦の音が聞こえるが、まずは食べ物を腹に入れないとまた倒れちまいそうだ」

「出店ならいくらでも出てるから、楽しみにしているといいよ」


 体を拭い終えたトゥルムへガザルが衣装を渡す。ドロドロだった旅着はすでに洗濯屋に任せた。トゥルムよりも細身なガザルの服はきつめだったが、身長的にはそこまで差はない。意匠が施された祭服を帯で締め、丸く深みのある毛皮帽子を被って街へ出た。




 商業地区の中心から弓で引かれる豊かな音色が響き、皮を張った鼓が躍動を与える。打ち合わされる金属音は涼やかで、木管を通る風音が深みを齎す。国のどこでも聞ける基本的な構成の楽曲だが、トゥルムが聞き慣れたものとはどこか違う。四方にただただ広がる平原の広がりを感じさせるソム・ガーラの風情が感じられた。


 往来をすれ違う人々は大人も子供も2人と同じく精一杯着飾っている。夜には火を灯されるのであろう丸い提灯がそこかしこに下がり、民話や伝承をモチーフにした絵が塗られている。


 ガザルの案内は祭りの中心地へ真っ直ぐは行かず、居住区を抜けると騒ぎの外縁をなぞるように進んでいる。それでもあちこちで地元の食材を使った料理が振る舞われていて、あれはこれはと紹介された。馬肉の細切れが詰まった肉厚のパンに蒸し野菜、よく干され果実、適当に好みに合いそうなものを買っては乳酒で流し込む。


「この橙なんだが、俺はこんなに甘みが出るものだとは知らなかったよ」

「ああ、東部はまだ雨が降るからね。水がないと栽培は難しいけれど気候としては乾燥が続いたほうが糖分を蓄える性質があるらしい」

「そうすると元々はどっかから持ってきた品種なのか」

「北の方だな。ここらじゃとても自生しない。収穫が安定しはじめたのは俺が産まれる前の頃らしい」

「それが今じゃ名産品になりつつあると」

「外に売るには販路の問題があるけれど、街のみんなには馴染みのおやつではあるな」


 馬上で見てきたでこぼこ道が思い浮かぶ。歴史上経済的に切り離されていた土地は確かに近年発展を遂げつつあったが、まだまだ仕入れを求めて訪れる商人は少なく街道の整備が進んでいない。大規模な商隊が行き来するのは先の話だろう。


「お、見えてきたな」

「あそこを登れば街の象徴が一望できるぞ」


 盛り上がった土手がトゥルムの視界に入った。疲労の残る脚を引きずって階段を登る。先に行くガザルが均された歩道に立つ。一段一段を踏み締めていくとようやく友人が眺めている景色を共有できた。


 広い、広い貯水池だ。湖面は通年雨の気配が感じられない故国の空が映り込む。川下には貴重な水を蓄える要の水門が長く伸びる。ソム・ガーラの街はこの水源の恩恵を受けて取り囲むように築かれた。樋門の向こうは大規模な灌漑によって農地が耕されている。


「あれがルングじいさんの水門だよ」

「なるほど。人工湖とはいえこれだけの水源は珍しい。わざわざ観に来た甲斐があったってもんだ」


 ガザルの口角がしたりと上がった。


 遠くの山から流れる来る細い河川と地下水を支えに生活していた遊牧民たちの生活を変えた、ガザルの曽祖父が設計した水門だった。ともすれば街中よりもきらびやかに飾られたその上には、人々が祈りを捧げる姿が並んでいた。




 流域は広くないものの流量はある。地元民が毎日水を汲み上げ生活水を確保していた川に、灌漑の可能性を見出し実現したのがルングだった。


 南の大国と交流を持っている首都は、当時からその他の地域と比べれば知識も技術も天地の差があった。幼少期に部族同士の衝突で両親を失ったルングは一族の男に連れられ首都に住む遠縁に引き取られる。始めは下働きとして使われていたが、覚えの良さからやがて勉学の門を潜った。技術者として力をつけつつあった氏がなにゆえその発想に至ったかは伝わっていないが、水の問題から人口密度が低い国の中でも取り分け閑散としていた故郷の灌漑計画をはっきりと提言したのは30を過ぎようという頃だった。


 もちろん賛同者は少なかった。当初、ほとんど居なかったと言っていい。国中でも例にない規模の事業である。作業をこなせる職人を集めるだけでも困難が予想されたが、材料を調達するにも立地上遥々運び込まねばならない。ただ築くだけではなく運搬の予算さえ膨大だった。事業の題目は土木技術の実証として、成功の暁には国中に同様の灌漑地が広げられるという趣旨だったが、実現性には疑問を呈された。

 地方ならともかく、首都付近には平原中から河川や地下水が集った本流がある。その近辺すら発展の余地が残っていた。単純に国家としての優先順位も低かったのだ。


 着工に至るまでの経緯を書き出せばそれだけで一冊の伝記になる。割愛するが他の候補地を押しのけて事業はソム・ガーラで始まった。提言から20年が経っていた。その間にルングによって首都近辺で執り行われた数々の治水施策が勅命を引き出す礎になったことは言うまでもない。


「で、首都で働きながら合間に現地調査と周辺氏族の説得を繰り返す超人的な仕事のおかげで始まった事業の成果がこれか」

「そうだ。今や歴史を学べば誰もが教わるルングの水門だよ」


 足元の石造りの構造物を見ながら言うトゥルムにガザルが答えた。示された結果は国中に伝わり、規模は違えど灌漑が当たり前に行われ始めている。そもそもがあまりにも遠いソム・ガーラまで経済圏が広がるのには時間がかかるだろうが、国全体に活力が生まれ始めているのは確かだった。


「事業を継ぐには曾祖父さんの仕事はでかすぎやしないか」

「何も俺だけの仕事じゃないさ。当たり前だが、彼だって1人で事を成したわけじゃない」

「会社を継いだんだろ」

「現場の責任者ってだけ。優秀な先達から学ぶことばかりさ」


 首都大学で学科を共にしていたガザルは卒業まもなくソム・ガーラへ帰った。水門の修繕と改築を国から引き取り会社として事業継続していた名士の家に生まれ、勉学のために首都へ来ていた頃にトゥルムは知り合う。ルングの時代から100年が経ってそれなりの若者が勉学に励む時代になったが地方からはまだ珍しい。中でも歴史に名高い男の血を引く青年は耳目を集めた。値踏みされることも多かったが、街に残っている優秀な技術者から指導を受けた知力は周囲に引けを取らなかった。


「いくら大学を出たって鼻っ柱を折られるばかりだよ。土木に農工、知らなきゃいけないことが多すぎるんだ」

「まったく、継げと言われたわけでもないのに苦難を選ぶ」


 2人は学生時代と同じ様に笑い合った。上流の向こうへ日が傾き強くなった照り返しを浴びつつ水門を渡る。対岸にあった街並みが見えるが、目的は川下に降りた先だった。


 数々の市民たちが集まる碑があった。事業の始まりから街の発展にかけて命を捧げた人々が刻まれた慰霊の碑だ。最上部にはルングの名がある。


 ――水門の父ルング、水を奪わんとする者の矢に倒れる。


 人は水なしでは生きてはいけない。水を征しようとすればそこに争いが生じるのは世の常だ。事業達成に向けた最大の障害は氏族間の争いだった。一帯に住む人間すべてが頼る水源に手を加え、一時的にでも堰き止めようとするのだから川下からは反発があった。ルングは着工前から粘り強く説得を繰り返し理解と協力を求めたおかげで生じた摩擦が少なかったのは確かだろうが、それでも戦火は度々上がったし、水門の完成後もその支配権を狙う蛮行に街は脅かされた。


 碑に刻まれてるのは施工中の事故やそうした争いの数々の中で失われた命だった。


 ルングが命を失ったのは灌漑の一次計画が完了した20年後である。事業自体も継承が終わっており彼の死後も街の存続には支障がない状態だったにもかかわらずその命は奪われたのだが、最後の襲撃から5年を経てつかの間の平和を味わった後だったのは不幸中の幸いと言えるだろうか。


 麦のような穀物、野菜に果物の栽培が進み売買が盛んになって、周辺氏族にも利益があると認められた今となっては平和なものだが、ここに至るまで少なくない血が流れた。


 碑に祈った市民は明かりを入れた灯籠を受け取ると川辺りにかがみ込んで流していく。トゥルムとガザルも彼らに続いた。じきに日が沈み、緩やかに流れる川面に点々と火が浮かんだ。


 祭りはルングの没した翌年から市民たちの請願によって始まった。ルングたちの死を悼み、街のさらなる発展を願って土地の産物を振る舞うのだ。




「トゥルムはまだ胃にものは入りそうかい」

「俺の食い気を忘れたのか。酒さえあればまだまだ流し込めるさ」

「そいつは重畳。まだ君に食べて欲しいものがあったんだ」


 水門の上を折り返して市場に入った2人は夜空の下に並べられたテーブルに着いている。麦酒ののどごしを味わっているところでの質問にトゥルムは浮かれて答えた。ガザルが給仕に伝えて間もなく椀が2つ運ばれた。


「なんだか普通のスープだな」

「そうだな。でもこの祭りじゃみんなこいつを一杯は飲むんだ」

「定番ってやつか」


 普通というのも少々気を遣った言い方で、中身は出汁を取ってキク科の植物の根を煮込んだだけらしい単純なものだ。拍子抜けしながらも口をつける。一口、二口。味のしみた根っこを噛みしめるとシャキシャキとした歯ごたえとともに香ばしい風味が立つ。


「うん、なんというか――」

「普通だろ」

「悪くはないんだけど、流石に具材が単純過ぎるんじゃないか」

「その根菜を一番素朴に味わう料理なんだ」

「これを?」

「ルングじいさんの好物だったらしい」

「なるほどね」


 街と運命を共にした男の死を契機とする祭りなのだから、その好物が定番料理になることもあるだろう。


「この街で栽培されてる品種の中じゃ一番古い作物の一つなんだけど、そもそもはそこらに自生してるものを掘り返して食べるようなものなんだ。じいさんが住んでた頃から採れた数少ない野菜ってことだ」

「わざわざ首都から離れた故郷のために事業を立ち上げたこともそうだが、随分と土地に愛着があったもんだ」

「どうだろうなぁ。確かにおとぎ話じゃこのスープを食べるために帰ってきたような筋立てもあるけど、引き取られたのだって10歳にもなってない頃だし怪しいね」

「好物だったってのは確かなのかい」

「少なくとも灌漑を始めてから栽培を指導した記録もあるし、ことあるごとに食べていた様子も残ってる。好きだったのかは分からないね」

「俺にはこっちの方が良さそうだ」


 スープを飲み終えて、また麦酒に手を付け始めた。


「そもそもなんだけどさ、この根っこ、昔はこんなに味もしなかったんだ」

「と、言うと?」

「興味があるなら原種のやつも食べられるんだが、じいさんの時代は一応食べられるってんで掘り返されてただけのものだよ。正直まずい以前の問題だね」

「遠慮しておきたいが、それをわざわざ栽培までしたなら好物と思われるのもわかる気がする」

「街の文化として根付くまでは何度かもうやめようって意見も上がってたらしい」

「他に食べるものがあるなら、余計にわざわざまずいとわかってるものを記念日に食べたくはないよな」

「それでも変わったやつはいて、水の量を変えたり肥料を変えたり別種を掛け合わせたりと工夫を重ねた。それが俺達が今口にしている食用種ってわけだ」

「ひょっとして食べて欲しかった理由と関係があるのかい」


 同じくスープを飲み終えたガザルは友人の勘の良さを喜んだ。


「俺はこいつが少しは気に入ってるんだ。味がじゃなくって、その成り立ちがね。じいさんは灌漑の仕組みを考えて人を雇って作り上げた。でもその後に続いて来たのは1人や2人じゃない。街を良くしようって思い立った人間の積み重ねなんだよ」


 ガザルの言葉には学生の頃と変わらない熱がある。かつて辺境へ帰ると言うのを引き止めたトゥルムだったが、喧嘩別れしなかったことを密かに誇った。


「スープ以外にも材料にした料理はいっぱいあるから、明日以降でも良ければ食べてみてくれ」

「そうしよう」


 2人は久しぶりの再開を祝って夜通し酒杯を交わした。




 終




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 本作は想定した風土に近いモンゴルに由来する語句や情報をいくらか参照していますが、基本的にフィクションです。

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