内見の姉

木古おうみ

内見の姉

 おれのうちには姉がいる。

 前はいなかった。前は妹がいた。


 おれが小学五年生で、妹が小学三年生だった頃だと思う。

 妹がシックハウス症候群というアレルギーになって、どうしようも常に目や鼻から汁を垂らすようになったので、引っ越すしかないんじゃないかという話になったときだ。


 おれはその頃の家が気に入っていた。学校が近いし、駐車スペースの横の空き地で友だちと集まることができたし、夜寝る前に二階の窓を開くと向かいの養魚場が見下ろせるのが好きだった。

 両親はこっちも大変なのにそんな理由で反対するなとか、妹が可哀想だと思わないのかとか、いろいろと言った。

 妹は両親が大事にするせいで、目と鼻を真っ赤にして病気の兎みたいだったくせに、お姫様気取りだった。


 内見に行く途中、車の中でおれは妹と喧嘩をした。すぐ妹が泣き出し、皮膚が擦れた目に涙が滲みて痛いと騒いだので、おれが両親に一方的に叱られたのを喧嘩と言えればの話だが。

 おれはふてくされて後部座席にもたれながら、おれの人生はこの先ずっと妹が割り込んで邪魔をしてくるんだろうかと思った。



 いつの間にか眠っていたら、両親に肩を揺さぶられ、「着いた」と起こされた。

 寝ぼけ眼で車の窓の外を見たとき、目を疑った。

 目の前にそびえる一軒家は、おれの家と全く一緒だったからだ。


 くすんだ赤い屋根も、玄関の犬の置物も、セルビアの花の鉢植えも全部一緒だ。二階のベランダに干してあるピンクのバスタオルだけは見覚えがなかった。

 両親も妹も何も言わない。気づいていないんだろうか。そんなはずはない。おれは家族が今住んでる家が名残惜しくて、そっくりな家を選んだのだろうと自分を納得させた。


 家の中からおれの両親そっくりな奴らが出てこないか不安だったけれど、現れたのはいかにも金を持っていそうな若い夫婦だった。

 玄関もおれの家と同じ靴箱とカレンダーがかかっていた。両親は何も言わなかった。


 家の持ち主の夫婦は、おれの家そっくりのリビングで海外に移住するので急遽家を売りに出すのだと言った。家電や家具なんかは向こうで揃えるから一緒に引き取ってほしいらしい。おれは初めて居抜きという言葉を知った。


 若い夫婦は妹の腫れた目を見て仕切りに可哀想だと言い、何かと気を遣った。おれは嫌になって、庭を見たいとリビングを出た。


 両親が早めの反抗期なのだと苦笑する声を聞きながら廊下に出たとき、女とぶつかりかけた。

 セーラー服にカーディガンを羽織った長い髪の女だった。おれが二年後に通うことになる地元の中学校の制服だとわかった。でも、町で同じセーラー服を着てゲラゲラ笑っている学生よりずっと大人びて見えた。あの夫婦の娘にしては大きすぎると思った。


 おれがすいませんというと、女は小さく笑った。

「この家気に入った?」

 気に入るも何も自分の家そっくりだとは言えなかった。おれが、はい、まあとか呟くと、女はもう少し大きく笑った。

「よかった。いいもの見せてあげる、来て」

 女はそういうと、すごく自然におれの手を握った。さっきまで氷水に浸けていたような、ひんやりして白い手だった。


 女はおれの手を引いて二階の階段を上がった。

 二階の造りも全く変わらなかった。女が進んでいったのは奥の部屋だった。おれの家なら妹の部屋があるところだった。

 いつもならドアに猫とリボンのネームプレートがかかっているはずだけど、何もかかっていなかった。他人の家だから当たり前だ。


 女がドアを押すと、秋の花みたいな匂いがした。

 机は整理されていて分厚い教科書と文庫本が並んでいた。緑と白のギンガムチェックのベッドにクマのぬいぐるみがいた。

 他人の生活を覗き見たせいで、勝手に入った訳でもないのに気まずくなった。


 女はベッドの上に乗って、おれにも乗るよう手招きした。頼りない布団を靴下で踏み締める感触で、更に罪悪感が増した。何をするんだろうと足踏みしても、ギンガムチェックの布団が足裏を押し返すだけで逃げ場がない。

 女はまた小さく笑って窓を開けた。


 薄く曇った空の下に、濁った水面が見えた。水の中に赤ペンを引いた後みたいな魚の影が映って、養魚場だとわかった。おれの部屋と同じだ。

「夜、これを見てから眠るのが好きなの。ゴボゴボって水の泡の音が聞こえてね。パイプで酸素を送ってるだけなんだろうけど、鯉が口をパクパクさせて泡を吐いてるのを想像するんだ」


 女はそう言った。おれは思わず、自分の部屋からも養魚場が見えて、同じ想像をするんだと話した。今にして思えば子どもの話なんか聞いてもつまらないだろうに、女は何度も頷いて楽しげに笑った。

「一緒だね」

 女がそう言った声が、耳の穴の裏にじんわりと濡れたように残った。



 階段の向こうから、両親がおれを呼ぶ声が聞こえた。おれが女にもう帰ることを伝えて去ろうとすると、女も一緒に部屋を出た。見送りをしてくれるんだろうと思った。


 両親が若夫婦に頭を下げて、おれと一緒に玄関から庭に出ても、女はついてきた。そして、おれが後部座席に乗り込むと、女も当然のようにドアを開けておれの隣に座った。

 おれはどう反応していいかわからず、ひたすら両親と女を見比べた。


 両親は女に関して何も言わなかった。帰りにファミレスに寄って遅い昼食を取るかと相談するだけだ。

 母がおれと女ににシートベルトを締めたか確かめ、父がアクセルを踏んだ。おれの家とそっくりな家が見る間に遠のいた。


 おれは慌てて両親の座席に身を乗り出した。妹はどうしたんだと聞いた。

 父が急ブレーキを踏み、母はおれが何か、死ねとかウザいとかよりもっととんでもないことを言ったような顔でおれを見た。空気が凍りついて、おれは指一本動かせなかった。


 隣に座る女は苦笑すると、ふざけたようにおれの方へ倒れた。

「お兄ちゃん、お小遣いちょうだいー」

 姉が下手な冗談を弟をフォローしながらじゃれつくみたいな、自然な仕草だった。両親は途端に笑ってまた車を走らせた。


 おれと両親と妹の四人でよく行ったファミレスで昼食を取って、レンタルビデオ屋に妹と観た映画のDVDを返して、女と一緒におれたちの家に帰った。


 二階の妹の部屋からは猫とリボンのネームプレートが消えていた。代わりに半開きの扉から緑と白のギンガムチェックの布団が覗いていた。

 おれの部屋からは相変わらず養魚場の池が見えた。


 あの日からずっとおれの家には姉がいる。

 最初からそうだったんじゃないかと思うほど自然に。

 内見なんてなかったように、元の家で家族四人で暮らしている。


 おれは姉と同じ中学校に行って、別々の高校に行って、おれは大学入学と同時に上京し、姉は地元で就職した。

 姉と喧嘩した記憶はない。毎年帰省するたびに、おれの好きな献立で飯を作ってくれる。おれが初めてのバイト代で送ったマフラーを未だに大事にしてくれる。



 おれは新卒で入った会社の後輩と結婚し、子どもができた。おれの姉と妻は、本当の姉妹のように仲良くなった。

 実家に行くと、妻はときどき冗談で、本当はお姉さん目当てであなたの結婚したのと茶化す。姉はおれの子どもと遊びながら「バレた?」と笑う。おれも姉に妻を寝取られるなんてとふざけてみせる。


 おれの実家の二階からは養魚場が見える。何も変わらず、最初からこうだったんだと思う。

 おれの娘は今年、消えた妹と同じ歳になる。

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内見の姉 木古おうみ @kipplemaker

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