喰らい家

九十九

喰らい家

 売りに出されていたのは、屋敷といっても謙遜ないくらいの大きな家だった。その上、値段も手頃だ。売りに出していたのは見慣れぬ不動産会社ではあったけれど、個人でやっている所なんてどこも見慣れぬだろうと、すぐにそこに決めた。

 男四人、昔馴染みが縁があって一緒に暮らすことになった当初の数年前から、どこに住むかが大きな問題であった。新たな棲家など探すのは難しいのでは無いかと思われていたが、無事に見つける事が出来て取り敢えず胸を撫で下ろす。

 家の場所も人目のない、ずっと郊外の森の奥だ。静かで、誰の詮索も受けたくない男達にとっては絶好の場所だった。これで静かに過ごせると言うものである。

 それでも幾つか懸念点があった。本当にその家は人目の付かぬ所にあるのか。この大きさで手頃な値段と言うことは訳ありなのだろうが、その訳ありに寄ってくる人間はいないか。作業しやすい、あるいは逃げやすい土地が確保されているか。住むとなれば、少なくとも数年は留まるだろう。

 売り出されている家の頁には内見への相談の文字があった。連なって不動産屋の連絡先もある。

 物件の頁を見ていた男、水面みなもは、同居者の三人へ都合の良い日はどこか連絡をとった。

  

 男四人連れ立って件の不動産屋に赴けば、ひょろりと背の高い男が一人出迎えた。

「良くいらして下さいました。可瀬かせと申します」

 にこりと笑む可瀬と言う男の名前と声は、内見をしたいと問い合わせた際に電話口で聞いたものと同じものだ。全身が黒の出立ちであるが、物腰の柔らかさと唇に描かれた弧が圧迫感をなくしている。

「こんにちは、水面です」

「ああ、電話を下さった水面様ですね。では、こちらの方々が」

「はい、一緒に住むことになっている三人です」

平良たいら、です」

橘花たちばなと言います」

ふじと申します」

 水面他、三人が自己紹介を終えれば可瀬は笑顔で頷き、店の奥を示した。

 平良と橘花の髪色は赤色と白色で幾つもピアスもしているし、藤の腕からは刺青も見えているので、初対面の人間にはよく警戒もされるのだが、流石は客商売なのか可瀬にはその様子がない。

「どうぞ、こちらへ」

 スマートに案内されたカウンター席、カウンター前に椅子が四つ並べられたそこに座るように促され、水面達は腰を下ろす。カウンターに一番近い所に水面が座り、他の三人はその後ろに椅子を並べて座る。

 不動産屋の中は静かで、可瀬と水面達の他に客も従業員も姿は無かった。その上、薄暗い。不快になる薄暗さでは無いが、どこか心許なさを感じる薄暗さが、他の誰もいない空間と相まって、ここだけ切り取られたようだと錯覚させる。

 少々お待ちを、と一度姿を奥へと消した可瀬を待って数分、戻ってきた可瀬の手には数枚の紙と四つのカップの乗った盆があった。

 差し出されたコーヒーを勧められ、一口含む。

「美味いな」 

 コーヒーを好んで飲む藤が思わずと言った風に呟いた。同様にコーヒーを好んで飲む平良も一口飲んでからじっとコーヒーを見つめている。普段はあまりコーヒーを口にしない水面や橘花にしても、このコーヒーは飲みやすく美味い。

「お会いするのは最後になるかも知れませんので、お客様には上質なものをお淹れしています」

 微笑み、おかわりもありますので、と告げた可瀬は、机に紙を広げた。

 広げられた紙をコーヒー片手に覗き込めば、内容はなんて事はない家までの地図と間取り図だった。掲載されていたのと何ら変わらないそれは、確認のためなのだろう。可瀬の黒手袋を嵌めた長い指が、紙の上になぞられる。

「こちらが、今回の内見の建物になります。ご確認を。周囲や中の事は実際、内見でご確認いただいた方が早いでしょう。では、ここまでは私の車でお送りする事になります。宜しいでしょうか」

 伺われて水面は頷く。他の三人もまた問題は無いと頷いた。

 その後、いくつか確認事項が取られた後、水面達は可瀬の車で不動産屋を後にした。


 物件は、考えていたよりずっと森の奥深くにあった。

 高く鬱蒼とした木々が辺りを囲い、アスファルトで舗装されていない、車が一台通れるだけの道が続いている。手頃な価格の要因の一部はここか、と納得できてしまう程の暗い森の中の土の道。けれども可瀬は、物件の管理などで何度も訪れているのか、迷う事も車に何かを引っ掛ける事も無く進んで行った。

 空を覆い隠す木々達の間を抜けていけば、開けた場所に出る。周囲を背の高い木々に囲まれているから明るい、と言う事もないのだが、森の中に比べると日の差すその中央に、目的の家はあった。

 車を止めた可瀬は、水面達を乗せた後部座席の扉を開く。

「私はここでお待ちしておりますので、皆様で内見をなさって下さい」

 運転席に乗ったままそう言う可瀬に、水面は一度瞬く。平良達も一度水面の方を見てから、可瀬を見た。

「え、可瀬さんと一緒じゃなくて大丈夫なんですか?」

「まずは皆様に自由に見て貰った方が宜しいかと。説明が必要でしたら後で合流しますのでその時にでも」

 にこやかに手を振る可瀬に、水面達は互いの顔を見遣ってから、それなら、と車を出た。

「皆様が入られたら扉をきちんと閉めて下さいね」

 車の扉が閉まる直前、可瀬がそう言った。それは会社でも言われた事である。森の中にある故に、開いていると獣や虫が入ると言う事らしい。

 水面達は可瀬の言葉に頷いて、森の中でたた一件佇む家へと向かった。


 家は大きく、古く、どこか冷たい固さを連想させた。二階の窓は下からでは光が反射していて中の様子は少しも分からない。それは一階の窓も同様で、水面達の後方、西から差した日が酷く反射していて、中はよく見えなかった。

 水面達は屋敷の周りは大して見ずに、早々に玄関の扉を開けた。周囲には広い使えそうな森があり、近くに建物らしき建物は無いと分かっただけで十分だったからだ。

 平良が扉を開け、順々に玄関を潜っていく。家の中は薄暗かった。

「埃っぽいな」

「確かに少し匂いがする」

 鼻の良い平良が顔を顰めて言えば、藤がすんと鼻を鳴らした。

「ここの物件見に来る人が久し振りだと可瀬さんは言っていたから」

「これだけ広いと頻繁に綺麗にするのは大変だろうしね。何年も放置されてた家よりは平気でしょ」

「まあ確かに、ずっと放置された家よりはマシだわな」

 水面が電話での会話を思い出しながら言えば、橘花は頷き、平良は鼻を擦りながら、仕方ねえ、と呟く。

「そこら辺は住む事になったら掃除でもすれば良い」

 藤の声と同時に、がちゃん、と大きな音を立てて玄関の扉が閉まった。眠った家を起こすかの如く、家中に響き渡るほどの大きな音に水面の肩が跳ねる。

「うるせえ」

「ここ、直さないとかもね」

 赤髪を鬱陶しげに掻き上げながら溜め息を吐く姿に、橘花も苦笑する。藤はじっと閉じた扉を見ていた。

 家の中は洋館の作りになっていた。洋画で見るような、父親と母親、それに子供達が住まうようなそんな家。靴を履いたまま自身の家に入るのは、水面と藤は少々落ち着かなかったが、平良と橘花は悪くなかったらしい。

「何処から見て行こうか? 部屋は結構あるけれど」

「二階からで良いんじゃないか?」

 尋ねる水面に刺青の彫られた手が二階を指差す。

「まあ、自分の部屋になるだろうしね。四部屋あるんだったよね、水面ちゃん?」

「そう、四部屋。前の人が寝室に使ってた部屋が二部屋と、子供部屋で使ってたのが一部屋、後は空き部屋だったみたいだけど」

「家具なんかはそのままなんだっけ?」

「うん、まあ、住んでる途中で消えてるとかで」

「ああ、言っていたな」

「まあ、前の住人も俺たちみたいな訳ありじゃないかな」

「そうなんじゃないかな。詳しいことは分からないって可瀬さんも……あ」

 水面が音に気がつき振り向けば、他二人も視線の方向へと目をやった。三人が話していた間にも平良は早々に階段を登り始めている。

「平良、もう登り始めてる」

「せっかちじゃ無いし、話は聞いてるけど、いつも先歩いてるよね」

「俺達も行くか」

 互いに顔を見合わせ、平良の後へと続いた。

 玄関のほぼ正面の階段は長く、大の男が肩を寄せ合えば二人並べる程の広さだった。踊り場の高い所には嵌め込まれた窓もあった。

「あれ?」

 水面が踊り場を折り返し、再び階段へ足を掛けた時、足元に不意に影が出来た。丁度、後ろの嵌め窓を暗くされたみたいなそれ。足を止め振り返るが、当然後ろには誰も居ない。皆は何も気づかず前を歩いている。

 再び明かりが戻った。窓を見上げて見ても、既に影は無い。鳥でもいたのだろうか、と何となく気になったけれど、再び階段を登り始めた。影は人間の形に似ていたけれど、気のせいだったのだろうか。

 

 二階は廊下が伸び、左右に二つづつ部屋があった。そのせいで窓が廊下の先に小さいもの一つしか無く、暗い。

 水面と藤は子供部屋の、橘花は寝室の、平良は空き部屋の、それぞれ適当な部屋の前に立つ。

 ぎい、と金具の音がして子供部屋の扉が開ければ、隣と背後からも同様の音がした。

 子供部屋はベッドとクローゼットが二つと勉強机が一つ、それと今さっき遊んだばかりのようなおもちゃや画用紙が床に広がっていた。多分、前の住人の子供は二人いて、勉強をし始めるような小学生とまだ遊びたい盛りの幼子の兄弟だったのだろう。

「片付けて居ないのか」

「可瀬さんは管理には入っていると言っていたけれど」

 管理の手が入っているにしては、不自然な程、その当時のままが残されている。当時のまま、いや、今さっき子供が居て遊んでいたみたいに、おもちゃには経年による汚れも埃もなく、床に散らかっている。

 奥に入っていく藤を横目に、水面は床に広がっている画用紙を手に取った。黒く塗りつぶされた画用紙は、拾い上げてみれば、中心に赤い裂け目があった。果たして何の絵なのか、検討がつかない。

 一枚捲る。二枚目の絵は、家族の絵だ。恐らく。父親の首に掛かる縄を見なければ、普通の子供が描いた家族の絵だ。

 一枚捲る。三枚目の絵は、何か鏡台のようなものからスカートが覗いていた。周囲に散らされた赤色。上半身が食われているかの如き絵。

 一枚捲る。四枚目は、青色。口が裂けた青色は、黒い口内と鋭い牙を覗かせている。

 五枚目、六枚目、画用紙を捲っていけば行く程、獣と人の成り損ないのような青色が口を開いて近づいてくる。

 捲り、捲り。ああ、このままだと食べられるな、とぼんやり考えていれば。

「水面」

 藤の低い声が聞こえた。顔を上げれば、彼はいつもより深く眉間に皺を寄せて、クローゼットの中を睨んでいる。

 画用紙を置き近づけば、クローゼットの中が見えた。

 まず見えたのは子供の衣服。多分、上の子のもの。そうしてその中に。

「首が無い」

 首無し死体。獣に頭を丸ごと齧り取られたような死体が、外の世界に怯えるように縮こまっている。

 ぎざぎざの首に触れる。当たり前に脈は無く、冷え切っている。

「血、乾いてる」

「古い死体だろう。管理の手が入っているとあの不動産屋は言っていたよな?」

「うん」

「ならこれは」

 何だと思う、と藤が尋ねるのと同時に背後の部屋から、がちゃんと大きな音がした。次いで何かが暴れるような音ががたがた鳴る。橘花の方だ。

 いつの間にか閉じていた二つの扉を開け、寝室へと駆け込む。

「っ!」

 鏡台、恐らく昔の住人の母親の所有物であろうそれ。すぐ傍には手鏡らしきものが割れていた。先程の音はこれだろう。

 鏡台の鏡からは体が伸びていた。白く塗られた爪、白い靴、僅かに長い白髪がこちら側にある。あれは。

「橘花!」

 藤と二人駆け寄って、橘花の体を引っ掴み引っ張る。それが正しい判断か、なんてそんなものは考える暇がない。

 抵抗するような力があって、一度、胸まで呑み込まれた後、ずるりと橘花の体が鏡台から抜けた。

「がっ……ふ」

 白にべっとり纏わり付く赤。普段でさえ、白髪に赤色が纏わり付くのなんて見た事はない。ごぼり、と口から溢れる赤色が、さらに白髪を汚す。

 橘花の首がぱっくりと切れていた。刀で切ったみたいに滑らかで肉が見えた傷口が次から次へと赤色を零していく。

「橘花!」

 髪色と同じように白くなった男の口からは、ごぽり、ごぽりと赤色で溺れるように、濁った音だけが上がる。

 がしゃん、大きな音がして傍を見上げれば、藤が鏡台の鏡を叩き割った所だった。

「水面、ここから出るぞ」

「うん」

 首筋を引き裂いた布で宛てがい、無理に肩を抱いて外に連れ出す。異常事態だった。急速に変わった事態に、嫌な汗が出る。

 部屋を出る寸前、視界の隅、割れた鏡の向こうに何かが立っていた気がして、つい振り返る。そこには何も居ない。橘花を呑み込んで、首を切った筈の鏡台は、ただの物みたいに沈黙している。

「水面」

「うん」

 呼ばれて再び前を向く。閉じた背後の扉、その先で、確かに何かの笑い声が聞こえた。


 廊下に出て階段の手前、ふと気がつく。平良はどうしている? 音に気が付かなかったとは考え難い。警戒心の強い男だ。少しの異変で直ぐにでも飛んできそうなものなのに、扉の前にさえ姿がない。

「藤、平良を見て来る。橘花を見ていて」

「分かった。ここで待っている。何かあったら直ぐ呼べ」

 歩いて数歩の空き部屋へと向かう。たった数歩であると言うのに、その距離が妙にもどかしく感じた。

 閉じて居た空き部屋の扉は簡単に開いた。ぎい、とやはり金具の音がして、開いた扉の先は闇だった。闇、いや黒い何かが部屋の壁を、床を、窓を覆っている

 床に見慣れた赤い髪が見えた。黒色に呑まれた赤。黒く、けれども七色の光が中で煌めくような粘液が、平良を押し潰すように床に縫い付けている。

「平良!」

 粘液に手を突っ込めば、熱が手に触れた。

「っ!」

 掴み力いっぱい引っ張る。ずるずる、と粘着質な音が音がして、泥沼から引き上げる感触と共に平良が中から出てきた。

「っ! クソッ……」

 ぜえはあ、と荒い呼吸が上がり、赤髪が揺れる。平良の手は目を押さえていた。掌の隙間から赤色が滴り落ちる。

「平良、目が」

「この野郎、柔らかい所から持っていきやがった」

 覗き込んだ顔、目は抉れ、唇と耳たぶが欠けている。首にも傷があった。

「出るぞ。そこら中からさっきはしなかった血の匂いがする」

 正面の粘液が緩やかに体をもたげ、再びこちらの足元に這い寄るのを確認したと同時に、走り出す。

 大して距離のない扉の外へと辿り着けば、扉を閉め、藤達と共に階段を駆け降りた。

 

「クソッ! 開かねえ」

 玄関の扉は、なぜか開かなかった。大の男が二人で体当たりしてもびくともしない。橘花を支える水面も叩いてみたが、扉の向こうに壁があるような、そんな感触だった。

「他に出られる場所を」 

 探そう、と言葉が出なかった。音がする。ひたり、ひたり、と音がする。それは階段の上から聞こえてきた。多分、足音だ。足音は徐々に階段を降りているようだった。

 息を潜めて互いを見やる。碌でもないものが降りてきているのは明白だ。

「おい」

 階段を正面に見て左手、一番近い部屋の扉を平良が静かに開ける。それに頷き部屋の中へと体を滑り込ませた。

 部屋の中央にはテーブルにソファ、棚の上には青々とした植物が並ぶ、そこは客間だった。床に敷かれた赤い生地が見える絨毯には、もうそれがどんな模様が描かれていたのか分からないほど、赤黒い染みが広がっている。恐らく一人や二人分の染みでは無い。客間はどこか鉄錆た匂いがこびり付いているようだった。

 藤が大きな窓へと近寄り、カーテンを開ければ、外には案の定、森が広がっている。そこに異常性は無い。

「不動産屋の車はここからでは見えないな」

「こっちが見えた所で助けてくれるかね」

 忌々しげに平良が呟く。布で止血し切れない目からぼたりと赤色が溢れた。不動産屋が紹介したこの家、管理もしていると言うのに、中がこんな有様だと知らない事などあり得るのだろうか。知っていて放り込んだ、それが最も高い可能性だ。

「やれるだけやってみるか」

 藤は徐にソファを持ち上げると、勢いよく窓へと打ち付けた。大きな音が鳴るが、扉の前に足音が来る気配は無い。

 窓には罅すら入らなかった。コンクリートの壁にぶつけたように、ばらけたソファだったものが床に転がる。

「玄関と同じだ」

 ソファの欠片を投げ捨て溜め息を吐く長躯が、入り口付近にいた水面達の方を向く。そうして固まった。

「ぐっ」

 目を見開き、体は不自然なほど痙攣し、苦しげに呻く。尋常ではない汗が額から流れ、人体からは肉を潰すような音が響いた。明らかな異音が部屋の中に木霊する。それも長くは続かず、瞬きをしていたなら二つ分の内に音は止んだ。

「っ……」

 べちゃり、と口や鼻から赤色が溢れる。押し上げられたように流れ出たそれは止めどなく、動脈から溢れるように、床に吸い込まれていく。赤黒かった絨毯が、赤を吸い込み色を濃くした。

「っく、そ」

 拙い言葉を吐き捨て、藤はこちらへと向かってくる。そうして水面の丁度後ろの棚に手を伸ばした。客間の棚、植物や置物、置時計が並ぶそこ。

「藤!」

「目、を、合わせ、る、な」

 言葉になっているかも怪しい掠れた声だった。それでも確かに聞こえた言葉に、背後、藤の伸ばした手の先へと振り返ろうとしていた体が止まる。

 ごぼごぼと空気を震わせ、刺青の彫られた手が何かを掴んだ。次いで、木が割れるような音が響く。骨が折れる音にも聞こえた。

 硬い音を立てて床、水面の足元に転がり落ちたのは、木彫りの像のようだった。恐らく頭があった部分が握り潰されている。藤が見て居たのは、彼と目が合ったのはこれだと直感的に気付く。

 それを認めた瞬間、傍の長躯が床に伏した。大きく痙攣し、びしゃり、と赤色が吐き出される。

「藤!」

 返答は無い。

 人形のように投げ出された四肢からは力が抜け、目は瞳孔が開いて居る。藤の腹は、ひしゃげる様に沈んでいた。

 平良が脈を確認し、眉間に皺を寄せて直ぐに首を横に振る。橘花を支えていた水面の指先が震える。

 捲った服の下は何の傷もなかった。吐き出した赤色で濡れてはいるが、表面は綺麗なまま、ただ異常に沈んでいる。中だけが綺麗に潰された死体。それは、色んな死体を見てきた水面達でも初めて見るものだった。


 扉の外の足音はいつの間にか扉の前で止んでいた。


 気配がある。背後の扉の先に何かが居ると気配がある。

 息を殺す。今動けば間違いなく殺されるだろう予感があった。

 目の前に居る平良が扉を睨む。その目の中の扉を水面も見ていた。

 こつん。

 小さな音、靴先にビー玉が当たるくらいの僅かな音。瞬間、水面の視界が揺れた。肩に担いでいた重さが消え、押された感覚があった。

 水面を受け止めたのは平良だ。振り向けば串刺しにされた橘花が立っていた。標本のように、伸ばされた形で留められた片腕は水面を庇った腕だ。

 飛び出した左目が棘の先からぼとりと落ちる。首が、四肢が、だらんとして動かない。息をしていないようだった。

「ドアを蹴り開ける。走れ」

 平良の声と同時に引き起こされる。沈黙が三秒、次の瞬間には扉が蹴破られた。


 玄関の方向にはいけない。今いる場所の反対側、見取り図では倉庫や書斎があった方向に水面達は駆け出した。

 走ってしまえば大して長くはない廊下。左手手前に倉庫を臨み、右手手前に居間、奥には書斎がある。

 不意に背後で空を切る音がした。次いで聞こえる木を裂く音。それもかなり近い。

 振り返りたくなる本能を抑えて、一番手近な倉庫に二人揃って雪崩れ込めば、閉じた扉が悲鳴を上げた。

「なあ水面、お前これ生き残れると思うか?」

 大して持ちはしないだろう扉を前に、平良がぽつりと呟く。

「難しいかもね」

「そうだよなぁ」

 赤髪をくしゃりと撫で上げて大きな溜め息を付く。

「ごめん、僕がここの内見選んだから」

「ああ? 別にいい、いい。まあ、人を殺した俺達にはこう言う最期がお似合いかもな」

 扉に何度も硬く鋭い物が当たる音が響く。倉庫の中は真っ暗で、殆ど何があるか見えない。

「これ、使うか」 

 平良が足元にあるものを持ち上げた。それはポリタンクとランプだ。ポリタンクには液体が入っており、近づいてみるとガソリン独特の匂いがする。

「燃えるかな? なんか粘着質な足音だったけど」

「化け物は何でも燃やせば解決するだろ」

 一度ガソリンを離した平良は、懐から取り出したライターでランプに火を付ける。多少の付きにくさこそあったが、思ったよりもすんなり灯りがついた。

「あ」

 ランプの光に照らされて、足元で何かが黒光りした。拾い上げなくても分かるそれは拳銃だ。不自然に転がっている。用意されたみたいだ、なんて思う。

「お誂えむきだな。お前が持っとけ」

 愉快そうに笑って、最後の弾は自分用にしろ、と唇が動く。

 扉の限界はもうすぐそこまで来ていた。


 扉が破れる寸前、水面は構えた拳銃の引き金を引いた。弾丸は真っ直ぐ、既に薄くなった扉を突き破り、確かに被弾した。

 扉の前で何かが呻く。その瞬間に、再び扉を蹴破って廊下に出た。

 振り返れば、扉で押しつぶされた何かが木片を払いながら起き上がっていた。

 獣と人間の成り損ないの姿。無理に継ぎ接ぎされたようなその体は、趣味の悪い人形のようなのに、確かに生きている。鋭い爪が扉の破片を砕き、表面から滴るどろどろとした粘液が床を汚す。黒い粘液が光に触れ、青の、赤の色が鮮やかに差した。

 窪んだ目がこちらを見て、身を屈める。飛び込んでくる。

「お前は書斎に行け」

 飛び退く瞬間に小さく囁かれる。

 水面は後ろに避け、平良は懐に潜るように左へと避けた。そうしてポリタンクのガソリンを粘液滴る体にぶち撒ける。

 瞬間、成り損ないが体の動きを無視して、平良の抉られた左目側、死角から覗かせた何かで首を貫いた。腕だ。先程までは腕が二本だったのに、三本目の腕が背中から生えている。そうしてその腕は長さも関節も無視して、平良の首へと打ち込まれている。

「ぐっ……そがっ」

 首を支点にして体が持ち上がる。首に刺さった手から肉が軋む音がした。

「平良!」

 一瞬、赤い目が水面を見た。行け、と言っている。

 振り向いて走り出す。書斎の扉を開けたと同時に、ガラスが割れる音がして、爆ぜた熱と光が背中を押した。

 意識を失う直前に聞いたのは、ぼとりと肉が床に落ちる音。多分、首の落ちる音だった。


 目を開けた時、書斎の椅子には背の高い黒色が座っていた。

「おはようございます」

 不動産屋で見たのと何ら変わらない笑顔で、可瀬は笑っている。何度か目を瞬いて、夜の闇よりも昏い真っ黒な目を見つめれば、更に笑みを深くする。

「ここから外に出れますよ」

 可瀬が椅子をずらせば、書斎机の隣に扉が見えた。人一人通れるくらいの然程大きくはない扉だ。

「そう、ですか」

「おや、嬉しくないのですか?」

「まあ割と。皆、死んだので」

「良い終わり方だったでしょう?」

 首を傾げれば、可瀬の口は大きな三日月を描く。

「人殺しの皆様には、良い終わり方だったでしょう? 誰かを生かして死ぬのは」

 水面が眉根を寄せれば、可瀬は目を柔らかく細めた。

「水面様は人を殺していませんので、匂いが薄かったのでしょうね」

 可瀬の手の中に小さな獣と人の成り損ないが現れる。それは辺りの匂いを嗅ぐが、迷うように周囲を見渡し、やがて尾を伏せた。ぱちり、と手を合わせ、再び広げればそこにはもう彼の姿はない。

「ここから出れば、家に帰れます。ああ、でも記憶は頂いております。この家に喰わせねばなりませんので」

 不動産屋で確認事項を説明していたのと同じ声音で可瀬が言う。穏やかで、耳障りの良い声。鉄錆た匂いのするこの家には、不釣り合いな声。

 水面の答えは殆ど決まっていた。それでも僅かにあった生きていくための希望も、消えるのだと知った。確かに見てきたものを手放す気は毛頭ない。

「そうですか」

 なら、と水面は手に持っていた拳銃を持ち上げる。筒先は水面の頭を向いていた。

「おや、左様ですか」

「帰る家もさっき無くなったので」

 居場所は元々ない。腐れ縁を手繰って生きていたのだ。人殺しの彼等と人を殺さない己と、訳ありの人間が、寄せ集まった人間が四人居た場所が居場所だった。

 彼等の幕引きがここであったのなら、己の幕引きも此処だろう。生まれ変われなど出来やしない。

「どうして」

「ええ」

「どうして、ここに人を?」

 呼び込んでいるのか、と問えば、楽しげに笑う。

「さて、訳ありの人間が穏やかな棲家を探す事に理由はないでしょう。そちらが先かこちらが先か、いずれにせよそちらがいらっしゃる限り、私どもは門を開いておりますので」

 よくは分からなかった。ただこれからもこの家で居なくなる人間が居るのだろうなと言う予感があった。

「それでは」

 引き金に手を掛ける。彼等と己は、きっといつかは破綻すると思っていたが、けれどもう少しだけ一緒にいたかった。

「ええ、ご機嫌よう」

 最期に見たのは黒色だ。黒い、昏い、人では無い何か。


 銃声が響き渡り、それっきり何の音もしなくなった。

 家は今でもそこにある。

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