また

白河夜船

また

 不動産会社の担当者に先導されて、部屋に入った。こじんまりした単身者向けアパートである。短い廊下と必要最低限の水回り、程々の広さの洋間が一つ――所謂1Kという間取りであり、写真で見たのと印象の相違は大して感じられない。

 担当者が一通り部屋に関する説明を終えて、

「いかがでしょうか」

 と気まずげな微笑を浮かべた。

「大丈夫です。ここでお願いします」

 そも俺は聞くまでもなく、この部屋のことをよく知っている。設備の使い心地、交通の便、周辺施設、自殺者が出たこと、以来奇妙なものを見聞きするせいで人が長く居着かないこと、全て知っていてその上でここに住もうとしている。内見したのは部屋の様子を知るためというよりも、あの人がまだここにいるかどうかをあらかじめ確かめたいがためだった。


 血と煙草の匂いがふっと仄かに鼻を掠める。


 先輩が生きていた頃は、よくここへ遊びに来ていた。酒を飲んで、映画を観て、漫画を読んで、適当に駄弁る。大学に近いから、朝の早い日などは泊めて貰ったことも度々あった。明るい人ではなかったけれど暗い人でもなかったし、思い詰めるような悩みを抱えている風でもなくて、未だにあの人がなぜ死んだのかよく分からない。だが自殺なんてしたからには、何かしら死ぬ理由やきっかけがあったのだろう。ただ、相談されなかった。それだけの話だ。

 そのくせ、死体を発見させるためだけに俺を呼び付けはしたのだから、心底質が悪い。血塗れの浴室と先輩の死体と、狭い空間に充溢した鉄の匂い、それから最期に一服でもしたのだろう僅かに残った煙草の臭いが頭の片隅に焼き付いて、いつまで経っても消えてくれない。


「ここでお願いします」


 俺はもう一度、独り言つように呟いた。

 あの匂いがしたのなら、やはり先輩はまだここにいるのだろう。ここにいてあの日の情景を意識的か無意識的か他者住人と共有している―――それは何だかとても受け入れがたいことに思われた。あの日、あの時、この部屋に呼ばれたのは俺なのだ。

 あるいは、とも考える。ここへ来たことで先輩の最期に関する記憶が想起され、脳が幻の匂いを嗅ぎ取っただけかもしれない。先輩の幽霊なんて本当のところ、ここにはいない。


 どちらでも、いいような気がする。


 訪れてみて確信した。いずれにせよこの部屋に住んでいれば、あの日の記憶はきっと薄れない。先輩の最期を忘れない。それにもし噂が本当なら、


 ぺた。


 帰り際、背後で足音が聞こえて俺は振り返った。開いた玄関ドアから、昼前の明るい陽光が射し込んでいる。担当者の男は既に部屋を出ており、短い廊下には当然ながら誰もいなかった。空耳か、と思って前を向けば、ドアを押さえて俺を待つ男の顔に微かな怯えの色が滲んでいる。



 思わず、口許が引き攣るように少し緩んだ。



 それにもし噂が本当なら、また先輩の死体を見られるかもしれない。

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また 白河夜船 @sirakawayohune

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