落陽

鋏池 穏美


 じりじりと身を焦がすような陽の光。みんみんと五月蝿うるさく泣くせみの大合唱。開放的な雰囲気に走り回る子供たち。じわりじわりと己の皮膚が不快に湿っていき、せ返るような熱気で息が詰まる。じっとりと湿った肌が、嫌な記憶を想起させる。


 私は夏が嫌いだ。


 仕事もリモートで出来るし、買い物もネットで済ますことが出来る時代。そうとなれば、わざわざ嫌いな夏に外出などしたくはないのだが──


 私は今、売りに出された一軒家の内見に来ている。住宅の内見などしたことはなかったのだが、どうしても見てみたかったのだ。「多少古いですけど、広さは十分でしょう?」と、不動産屋が作られた笑顔を見せる。私はいらぬ問答などしたくはなかったので、「知っています。ここは私の実家だった場所ですから」と答えた。


 不動産屋は「それでしたら先に仰ってくれたら──」と言葉を発するが、私はそれには反応せずに靴を脱いで家に上がる。そう、ここは私の実家だった場所だ。両親が他界し、私の姉が相続した家。姉は早くに家を出て結婚しているし、住む予定もなく、売りに出したのだ。


 不動産屋は私の後を追いかけながら「それならば相続人との遺産分割協議のやり直し、または話し合いで名義変更をすればいいのではないでしょうか。まあその場合でも贈与税が課税されることにはなりますが──」と、次々にどうでもいい言葉を並べていく。


 そんなことは知っているし、かといって私にはその資格はないのだ。私は──


 私は両親や姉から縁を切られている。もちろん今の法律上で完全に縁を切ることは難しい。成人すると共に分籍もしたが、それでも縁を完全に切れた訳ではない。当然ながら相続の権利もあったのだが、それは両親の「遺産は全て姉に」という遺言によって意味をなさなくなっていた。と言っても、私も私で相続をするつもりはなかったが。


 不動産屋が「何か事情が?」と聞いてくるが、私は答えずにリビングに向かう。リビングに入ってみれば、壁に刻まれた懐かしい傷の数々。私は姉と二つ歳が離れていたのだが、お互いの身長を一年ごとに両親が刻んでいたのだ。私は壁の傷にそっと触れながら、目から溢れてくる涙を抑えられなくなってしまい、その場に崩れ落ちた。


 口からはとめどなく嗚咽が漏れ、床にぼたぼたと涙が落ちる。その姿を見た不動産屋が「少し外しますね……?」と気を利かせたのか、外に出て行った。


 私は叫んだ。「なんでこうなっちゃったんだ」「ごめん、ごめんみんな」「本当にごめんなさい」と、とにかく後悔と謝罪の言葉を叫び、しばらく泣き続けた。




 数分後、戻ってきた不動産屋が「大丈夫ですか?」と、優しく私に問いかける。それなりに気持ちが落ち着いた私は、懐かしいリビングのソファに座り、また目が潤んだ。「何があったかお聞きしてもよろしいでしょうか?」と不動産屋が言うので、私の対面のソファに座るように促した。


「今から二十年前、あれは姉が高三、私が高一の夏……ですね。今日のように蒸し暑い日でした。その日、私は姉の交際相手を殺したんです。首を絞め、殺したんです」


 私のその言葉に、不動産屋が絶句する。


「その日、姉は塾で帰りが遅く、両親も仕事で家にいませんでした。そんな中、姉の交際相手が訪れたんです。姉の交際相手とは私も仲良くしていたので、家に上げました。とりあえずは二人でゲームをして過ごし、交際相手が途中、トイレに行きました。その際、部屋にスマホを置いていき……、そのスマホに信じられないメッセージが届いたんです。スマホのメッセージって文頭の何文字かは表示されるでしょう? そこに『いつになったらお前の彼女とヤらせてくれるんだよ』って文字が見えて──」


 その当時のことを今でもありありと思い出す。交際相手のスマホにはロックがかかっておらず、私は震える手でメッセージを遡って読んだ。そこには姉の行為中の写真や動画が添付されたメッセージが多数あり、姉が交際相手に弄ばれていることが容易に窺い知れた。


 私はトイレから戻ってきた交際相手を問い詰めた。だが交際相手は開き直り、「処女はちょろい」「ちょっと遊んだだけ」「妊娠してたらごめんな?」と開き直り──


 気付けば私は交際相手の首を絞め、殺していたのだ。汗ばんだ私と相手の肌が、ぬるぬるとしていた事を覚えている。その際、揉み合いとなってスマホを踏んで壊してしまい、交際相手の姉に対する仕打ちの証拠はなくなってしまっていた。そこから数時間、私は姉や両親が帰ってくるまで放心したままとなり──


「他にもやり方はあったはず。ですが私は短絡的に殺してしまった」

「それは……なんと言っていいのか……」

「……姉のことが大好きだったんですよ。私は。異性として……ね」


 そう、私は姉が好きだった。狂おしい程に好きだった。彼氏が出来たと聞いた時は、胸が張り裂けそうだったのを覚えている。だけど私と姉は血の繋がった姉弟であり、結ばれることなどないと知っていた。ならばせめて姉の幸せを願おうと、自分の気持ちは隠していた。だが──


 戻ってきた姉や両親は、烈火の如く私を責め立てた。とっくにバレていたのだ。私が姉に対して恋慕の情を抱いていたことは。それが理由で殺したと責め立てられたのだ。もちろんそんなことはないし、私は必死に交際相手の罪を捲し立てた。だが証拠はないし、私が必死になればなるほど姉や両親は侮蔑の表情に変わっていった。まるで汚物でも見るような目で見られ──


「姉とどうこうなるつもりなんてなかったんですよ。ただ好きだった。ただ好きって気持ちだけでも──」


 いけないことなんでしょうか──と、私は呟いた。不動産屋は困惑の表情で私を見ている。そう、おかしいのは私なのだ。実の姉を好きになったことも、激情に任せて交際相手を殺してしまったことも。


 私の行為のせいで、実家のその後は散々なものとなった。引っ越せばよかっただろうに、それもせず、周囲からは殺人犯の家族として白い目で見られ続け──


 姉は家出をして数年後に結婚。両親は周囲に白い目で見られ続けながら、他界した。


「なんでご両親は引っ越したりせず……?」

「それは私にも分かりません。分かりませんが……」


 私は溢れる涙のままに、「ここは先祖代々の土地だと父が誇らしげに言っていたのを覚えています」と呟いて、力なく項垂れた。


「代々の土地を守るために……?」

「父は責任感の強い人でしたからね。そう……なのかもしれません。ですが私が全てを壊したんです。これまで紡がれてきた歴史を……壊したんです」

「……では今回内見されたのは、この土地を購入して守るためですか?」

「……それに関しては謝らなければなりませんね。ただ見てみたかったんです。私が壊してしまった全てを見てみたかったんです。たまたま実家が売りに出されていることを知って……。購入するつもりもないのにすみません。私はいつも短絡的なんです。嫌になりますよ、自分の性質が」


 不動産屋が「そうですか……」と呟いた後で、「その……大丈夫ですか?」と問いかけてきた。


「なんだかあなたが全てを諦めているように見えて……、本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。家族が幸せだった頃の家を内見しているようで、満足しています。


 そう言いながら見た窓の外では──


 ゆっくりと陽が沈んでいく。





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