迎えに行ったその後で

櫻葉月咲

 たくみには三分以内にやらなければならないことがあった。

 いや、本当ならば今すぐにでも家を出た方がいいのだが。


「……さて、どうしたものか」


 顎に手をあてて視線の先を睨み付ける。


 そこには、やや丸みのある字で「つばさ姫華ひめか陽菜ひなのお迎え、よろしくお願いします」と書かれた紙があった。


 それは昔馴染みである女──美優みゆうのものだ。

 美優は女優として日々邁進まいしんしており、年中休む間もなく動き回っている。


 女優業だけでなく母として、シンガーソングライターとしても活躍しているため、いつ倒れやしないかと気が気でない日が現在進行形で巧にはあった。


 ただ、巧から見ていつもより乱雑な美優の筆跡に微かな違和感を覚える。


(今日は仕事は無いと言っていたし、事務所にもいなかった。メッセージ一つくれてもいいのに……わざわざこんなことをするか?)


 五つになる双子と、そろそろ三つになる陽菜は巧にべったりだ。

 こちらの顔を見つけると駆け寄って来るさまは可愛らしく、ついつい甘やかしては美優に咎められている。


 ちらりと時計を見ると、保育園のお迎え時間が迫っていた。

 帰ってきた時は二十分ほどあったが、今は三分すら無い。


 迎えは多少遅くなっても大丈夫だと思うが、美優が帰って来る前に帰宅していたかった。


(……ひとまず行くか)


しゅんに先を越されるのも嫌だし」

 ぽそりと巧は口の中で呟いた。




「あ、はち!」


 保育園からほど近い駐車場に車を停め、巧が園の門をくぐると同時に、こちらに走ってくる小さな男の子が見えた。


「おかえり!」


 ぎゅうと足元に抱きつかれ、巧は緩みそうになる頬を懸命に抑える。


「……ただいま。姫は? 一緒じゃないのか?」


 わしわしと巧は男の子──翼の頭を撫でる。

 自分よりもやや猫っ毛のある黒髪は、どこか瞬に似ていた。


「ひめかはね、おへやにいるよ。ひなもいっしょ!」


 そう言うと翼は巧の足から離れ、こちらに向けて手を伸ばした。


「ん!」


 丸く、やや青くも見える黒い瞳は『早くしろ』と言っている。


「……本当にしょうがないな」


 今度こそ巧は破顔する。

 キラキラとした瞳で見つめられると弱い、というのは翼に知られているらしい。


「でもすぐに降ろすから──」

「やだ!」


 間髪入れず翼が遮り、抱き上げようとした巧の腕から逃れる。


「もも組に戻って服着ないとだろ、寒いし」


 冬とはいえ長袖一枚に短パン、というのは見ているこちらが寒くなる。

 車で来たが、巧が停めた駐車場までは幼児の脚では少し距離があるのだ。


 時折冷たい風も吹いており、いくら元気だからと言って風邪を引いてからでは遅い。


「やーだー!」

「ええ……」


 翼はぶんぶんと先程よりも強く首を振り、地団駄を踏む。

 こうなっては機嫌を取るのは難しく、困惑してしまう。


「──遅くなって美優に怒られても知らんぞ、俺は」


 しゃがんでいた巧の背後から影が差し込み、呆れた声が耳に届いた。


「よ、来た」


 巧が振り向くと、一人の長身の男がこちらに向けて軽く手を上げていた。


 うなじまで伸びた黒髪をハーフアップにし、服装は黒を基調としたパンツスタイル。

 やや大きめのサングラスを掛けているため、顔色はあまり分からない。


 保育園にはおよそ似つかわしくない出で立ちだが、確かに瞬──美優の夫がいた。


「瞬」

「なぁ、翼」


 瞬は巧に目配せすると、翼に目線を合わせるようにしゃがむとサングラスを外し、困ったような笑みを向けた。


「遅くなって美優に怒られるのは嫌だろ?」


 もう一度同じ言葉をゆっくりと繰り返し、翼に問い掛ける。


「でもお前が、翼が熱を出したら心配するんだぞ。俺も、お前が大好きなはちだって」


 どう思う、と瞬は続けた。


「……はちも、おこる?」


 そう長くない時間を置いて、恐る恐る翼は巧に問うた。

 小さな頭で一生懸命何を考えていたのか、巧は理解しているつもりだ。


「そう、だな」


 小さく答えた途端、翼は見る間に瞳を潤ませた。

 巧とて叱りたいわけではないが、泣かせたいわけでもない。


 ただ、物心付いたばかりの幼子の相手は難儀してしまうのだ。

 こちらが気にかけてないとどこかへ行ってしまいそうな、守るべき命。


 それと同時に、大切に育んでいかねばならない宝物。

 何より美優が腹を痛めて産んだ子供だ。


 二年ほど前から自分も育児に加わっているが、時として本当にこのままでいいのか困惑してしまう。


(そんな……そんな顔をするな)


 本当の父親は瞬で、自分は赤の他人も同然なのだ。

 いずれしっかりと話さなければいけないが、こうして確かめるように聞かれては巧は弱かった。


「ま、そういうわけだし」


 ぱん、と短く手の平を打ち鳴らす音が響き、翼は小さく肩をすくめる。

 そんな翼を安心させるように、瞬はぽんぽんと頭を撫でた。


「帰る用意しないとな」


 瞬が言うと翼は頷き、ピンクのタイルが張ってある出入口に向かって行った。


「……助かった」


 はぁ、と巧は小さく息を吐いた。


「いいけどお前もいい加減慣れろよ。育児何年目だ」


 あと溜め息吐きたいのはこっちだ、と瞬は付け足した。


 やや呆れた声とともに放たれた言葉には少しの嫌味が混じっており、ぴくりと巧の頬が引き攣った。


「二年経ってないと思いますけど」


 巧はにこりと微笑み、立ち上がる。

 外したサングラスを指先でもてあそびながら瞬も続くと、小声で言う。


「……もっと言えば五年とかだろ」


 園庭には子供や教諭はいないが、誰の耳があったものではない。

 自分たちは俳優で、連日テレビに出ている。


 本来であれば、部外者も同然の自分がこうして保育園に迎えに行く事は有り得ないだろう。

 しかし、それを了承してくれたのは他でもない目の前の男だ。


 巧には昔の──前世の記憶がある。

 その時の巧は美優と恋人で、将来一緒になるはずだった。


(昔も今も、はお前にりんを取られてる)


 巧は小さく息を吐く。

 本来は信じ得ない事を、瞬は理解してくれた。そう分かっているから、世間に多少の罪悪感はあれどこうして凛──美優の傍に居られるのだ。


「けどあの顔はまずいぞ、俺でも怖い」


 わざとらしく口元に手を添え、瞬はちらちらと巧の方を見る。


「……よくもまぁ見え透いた嘘を」


 人が感傷に浸ってるのに、と巧は心の中で悪態を吐く。


 出会った時はあまり仲が良くなかったが、今ではふざけ合えるほどの仲だ。

 だから巧はあえてじとりとした視線を寄越す。


「たまに当たり強いのはなんなんだ、本当」


 人がせっかく助けてやったのに、と瞬は拗ねた口調で続ける。

 どうやらおふざけに乗る気はないらしく、打って変わって黒く美しい瞳は鬱陶しそうだった。


「元からこういう性格ですよ、僕は」


 ふいと巧はそっぽを向く。

 元来、熱しやすい性格というのは自覚している。


 普段は笑顔で敬語だからか、理想の王子様やら腹の底が見えないやら、様々言う人間も居るが本来の巧は面倒くさい。


「まぁいいけどな。そういうお前も好きだし」

「……気色悪いこと言わないでもらえます?」


 ぞわりと背筋に悪寒が走る。


 不意に放たれる瞬の言葉は、時として巧を困らせる。

 二人とも顔が整っているからか、一部のちまたでは自分達を題材にした創作があると言うから、人間とは分からないものだ。


「……美優に泣きついてやる」

「抜け駆けはするなって約束では」

「いいだろ、ちょっとくらい」

「二人で決めた事を破ろうとするのは君の悪い癖ですね」


 はぁ、と今度は巧が呆れる番だ。


 巧がこうして美優の傍に居られるようになったのは、ひとえにこの取り決めがあるからだった。


「よし、夜になったら決めてもらうか」


 くすりと瞬は頬に笑みを浮かべた。


「しゅん〜!」

「ただいま!」


 同時に翼と姫華の声が聞こえ、二人にそれぞれ抱き着く。

 後ろからは陽菜を抱いた女性教諭の姿があった。


「今日もありがとうございました」


 ぺこりと巧は頭を下げると微笑む。


「い、いえ……」


 すると見る間にほんのりと頬を染め、やや俯いてしまう。


「よし、帰るぞ陽菜」


 そんな教諭に気付くはずもなく、巧はそっと陽菜を腕に収めた。


「……美優もだけどこいつも天然たらしだよな」


 その笑みの破壊力に本人だけは気付いておらず、瞬の小さな呟きだけがむなしく消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迎えに行ったその後で 櫻葉月咲 @takaryou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説