君と触れ合う三分前
藤咲 沙久
優しい時間
そんな後悔と反省を重ねに重ね、トータルすれば八時間にもなる。目標を遂げるため宏太に残されたリミットが残り三分なのだ。とはいえ、それも丸々活用できるわけではない。実質、二分あるかどうかだ。
「映画も面白かったし、志摩くんと一日過ごせて嬉しかったよ」
「うん、俺も、楽しかった。ありがとう
初々しく、どこかぎこちない会話は改札内で交わされていた。志摩は右の階段から、南野は左の階段から、それぞれ逆方向の電車に乗るべくホームへ降りねばならない。時刻は十八時。二人の初デートが今、穏やかに終わろうとしている。
中学生に叶えられる範囲のスケジュールは滞りなく進んだ。映画館で南野が“怪獣と野生動物の激闘モノ”をチョイスしたことだけが唯一の想定外ではあったものの、まあそのくらいだ。それも意外と胸が熱くなる展開だった。地上波放送が今から待ち遠しい。
しかし今日は、どうしてもこのまま終わるわけにはいかなかった。そう、志摩には目標がある。
「志摩くんは電車大丈夫?」
「俺は、まだしばらくあるから」
「そっか……私はもう来ちゃう。じゃあね、志摩くん」
「あ……っ南野さん!」
背を向けようとした南野へ咄嗟に手を伸ばす。咄嗟に、などと言うと軽く聞こえるが、そこには今日八時間分の──正確にはデートの約束をした一週間前からの決意が込められた──重い重い「ようやく」の咄嗟である。その手が彼女の指先に……届いた。
──南野
告白をしたのは南野からだった。一年続いた両片想いを経て誕生した奥手カップルに、友人勢は手を取り合って喜んだという。それが先月末のことである。
今回のデートは志摩からの提案だ。付き合ってからの二人といえば、何度か帰路を共にした程度。なにか恋人らしい思い出をつくって、南野を笑顔にしたい一心であった。そして、そのタイミングで進展出来るとしたらどんなことだろうとも考えた。
(ちゅ……ちゅう? 南野さんと……? したい、でも、緊張し過ぎて無理どんな顔したらいい、抱きしめ……方がわからない! 絶対柔らかいじゃん、いや柔らかいってなに?! ダメダメダメ嫌われることしたくない)
そうして悩める十四歳が出した結論が「まず手を繋ぐ」というものだ。映画館、公園、ショッピングモール、チャンスはいくらでもあった。ただ残念ながら意気地がない。それだけが足りない。制限時間を使い果たしそうなところまで粘った志摩が今、どれほどの勇気を振り絞ったことか。
ここまでの背景を背負う右手が触れた。南野の、右手に。
「えっ?」
「あっ」
そもそも帰ろうとしている相手と「手を繋ぐ」とは、という話でもあるが、志摩から近かったのは身を翻しかけた南野の右手だったので、とにかくそちらを掴んでしまったのだ。
互いに同じ側の手を握ること。人はそれを握手と呼ぶ。つまり、思っていたのと大分違う。失態を理解した瞬間に頭の中は白くなり、取り繕う言葉も思い付かない。
ただ、南野は一瞬驚いたのちに笑った。あまりに必死な表情の志摩から何を感じ取ったのか、ふわりと微笑んだ。
「……これからもよろしくね、志摩くん」
ぎゅっと力を返され、それは本当の握手となった。ほんの少し大きさの違う手のひらから熱が伝わり、そして名残惜しそうに離れていく。
「わ、わ、電車来ちゃう来ちゃう来てる! 志摩くん、また来週ね!」
「あ、うん、来週、気をつけて!」
階段の下へ南野が慌ただしく消えた後も、志摩は動けないでいた。降車してきた人の波に揉まれ、されさえも過ぎ去り、再び静寂が訪れた頃に志摩の呼吸も戻ってきた。少なくとも、本人にはそのように感じられた。
「…………や、わらか、かった」
白くて、温かくて、優しい手。初めて触れた。
噛み締めるように拳を作れば、塞き止めていたものが流れるように身体中を熱が駆け巡る。血が沸騰する。幸福感に満たされた心臓は激しく脈打ち、あまりの強さに志摩は今日観た映画のワンシーンを思い出した。全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れ、まさにあれくらいの勢いだ。地響きそのものだ。
自身に課したミッションは実現出来たと言い難い。しかしあれは“失敗した結果の握手”に終わらなかった。志摩の心を知ってか知らずか、南野によってちゃんと意味が与えられたのだから。
(よろしく、か。うん……こちらこそ)
南野と過ごした初デートは、八時間丸々すべてとても楽しかった。そしてこの最後の三分もまた、大切な思い出として記憶に残るのだろうと志摩は思った。
願わくば、それが南野にとっても同じでありますように。
君と触れ合う三分前 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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