もう一人の自分

月浦影ノ介

もう一人の自分




 ・・・・僕の友人の話をしたいと思います。

 

 あれは三年前、僕が大学二年の五月のことでした。同じサークルの友人が突然、姿を見せなくなったのです。聞いたところによると、講義にも顔を出さず、アパートの自室に引き籠もっているという話でした。


 その友人の名前を、仮にKとしておきましょう。

 Kの性格は明るくて冗談好きで、サークルのムードメーカー的な存在です。そんなKが部屋に引き籠もっているというのは、何か余程のことがあったに違いない。

 とりあえず携帯でメッセージを送ってみると、すぐに返事が来ました。どうやら引き籠もっているのは本当のようです。

 「何か悩みでもあるのか? 自分で良ければ相談に乗るぞ」と再び送ってみると、メッセージのやり取りで説明するのは難しいから、出来れば直接会って話がしたいと言います。それでその日の夕方、僕はKを訪ねることにしました。


 Kは大学近くのアパートに住んでいて、以前にも何度か訪れたことがあります。彼とは出身が同郷だったのもあり、わりと親しい間柄でした。

 僕を出迎えたKは、顔色が悪く、ゲッソリとやつれていて、まるで病人のようでした。電気も付けず、部屋の中は真っ暗です。玄関を上がると、腐った生ゴミの臭いがしました。閉め切った窓はカーテンで覆われ、陽の光を遮っています。

 僕は部屋に上がると、勝手に窓を開けて部屋の空気を入れ替えました。傾き始めた陽の光が射し込み、室内を照らします。露わになった部屋の様子に、僕は思わず絶句しました。

 床中にゴミが散乱し、台所のシンクにはカップ麺やレトルト食品の空の容器が放置され、その周りを蝿が羽音を立てて飛び回っているのです。

 Kは掃除豆で綺麗好きな奴なので、部屋をこんなふうに散らかしたままにしているなど、あり得ないことでした。なのでそれを見ただけで、Kの精神がかなり危うい状態にあるのが察せられました。

 

 ガサゴソと音がして、そちらを振り向くとKがビニール袋を漁っています。僕がここに来る途中のコンビニで、差し入れにと買ってきたスナック菓子やジュースのペットボトルを入れた袋です。

 「助かった。もう三日も何も食べてないんだ」

 彼はそう言うと、僕の了承も得ずスナック菓子の袋を開けて中身を貪り食い、ジュースでそれを流し込みました。

 「・・・・いったい何があったんだ?」

 僕は床のゴミを手で除けながら腰を下ろし、Kにそう尋ねました。

 彼はしばらく黙っていましたが、やがてポツリと呟くようにこう言ったのです。


 「なあ、ドッペルゲンガーって知ってるか?」


 影の病、離魂病、二重身等々、呼び方は幾つもありますが、要するに“もう一人の自分”というやつで、洋の東西を問わず数多くの文学作品や怪談などで扱われる定番のテーマです。ゲーテや芥川龍之介が遭遇したとされ、それに出遭った者は命を落とすとも伝えられる、怖ろしい怪異とでも言いましょうか。しかしそんなものが現実に存在するはずがない。ある種の精神疾患による幻覚のようなものだと、そのときは思っていました。

 

 彼の問いに一応は頷きましたが、僕が知っているのはその程度です。が、Kは話が通じるなら良いとばかりに首肯すると、こう言ったのです。


 ―――俺は、“もう一人の自分”に出遭ってしまったんだ、と。



 Kの話によると、始まりは三ヶ月ほど前のことでした。

 行きつけの美容院で髪を切ってもらっていたところ、毎回担当してもらう女性スタッフからこんなことを言われたそうです。

 「そういえば昨日、〇〇の辺りを歩いてましたね」

 そこは地元の商店街で、その美容師さんが買い物をしていると、すぐ側をKが通り掛かったので挨拶をした。しかしKは気付かなかったのか、振り返りもせずに通り過ぎてしまった、という話でした。

 しかしKに心当たりはありません。何故ならその時間帯、Kは大学で講義を受けていたからです。 

 結局は他人のそら似だろうということで落ち着きましたが、美容師さんは「本当にそっくりだったんですよねぇ・・・」と、しきりに首を傾げていました。

 「まぁ世の中には、自分によく似た人が三人はいるっていいますから。でもそんなにそっくりなら、一度会ってみたいなぁ」

 Kはそう言って笑いましたが、その数日後、今度はバイト先の店長からまた同じようなことを言われました。

 「昨日の夕方頃、〇〇にいたでしょ。買い物でもしてたの?」

 店長によると地元のドラッグストアの駐車場で、Kの姿を見掛けたそうです。声を掛けたが気付かなかったのか、そのまま通り過ぎて行ってしまったというのも、美容師さんの話と共通していました。

 しかしやはりKに心当たりはありません。何故ならその時間帯、Kは別の場所で友人たちと遊んでいたからです。


 そんなことが、この三ヶ月の間に何度も続きました。街の通りや、駅のホーム、商業施設、公園、大学の構内など、Kにそっくりな人物の目撃証言が相次ぎます。

 最初は単なる人違いだと思っていたKも、さすがに気味が悪くなって来ました。しかも目撃される範囲が、自分の身近に徐々に迫っているように思われるのです。

 その頃になって、“ドッペルゲンガー”という言葉が、初めてKの脳裏に浮かんだそうです。実際に遭遇すれば死を迎えるという、自分にそっくりな影が、明確な意思を持ってすぐ背後に迫っている。そんな風に思えてなりませんでした。


 しかし不安を抱えながらも、忙しい日々は続きます。

 やがて“もう一人の自分”の目撃証言も途絶え、大学の講義やサークル活動、アルバイトと追われるように毎日を過ごすうちに、そんな不安は少しずつ薄れていきました。


 ですがそれは嵐の前の静けさに過ぎず、怖ろしい運命はKのすぐ傍らに、そっと忍び寄りつつあったのです。



 Kによると、それはつい二週間ほど前のことでした。

 彼は駅の近くにあるカラオケボックスで、アルバイトをしています。その日は日曜で、昼間のシフトを終えたKは、自宅アパートへの道を歩いていました。

 日没が迫る夕暮れ時。人通りの多い繁華街を抜け、道の両側に住宅の建ち並ぶ、細い路地を辿ります。辺りに人影はなく、ひっそりとした静けさのなかに自分の足音だけが響いていました。

 

 ふと、道の向こうから誰かがやって来るのが見えました。

 物陰から突然ぬっと現れたそれは、中肉中背の男性のようでした。その姿にどこか見覚えがあります。年頃は自分とそう変わらない。それが自分と歩調を合わせるように、真っ直ぐこちらへ向かって来る。

 最初は知り合いだろうか、と思いました。しかし何故か、妙な違和感がある。その違和感は徐々に膨らみ始め、Kは思わず立ち止まりました。道の向こうからやって来る、夕闇に現れたまるで影のような男。その姿から、いつの間にか目が離せなくなっていました。

 よく分からないけど、何かとても嫌な予感がする。そう思ったときには、しかし男はもうKの手前三メートルぐらいの位置にまで近付いていたのです。


 ―――それは、“もう一人の自分”でした。


 顔の造形も、髪型も、着ているや服や履いている靴さえ、まるで写真に写し撮ったかのようにKと瓜二つなのです。


 Kはその場に凍り付きました。遭遇した者に死をもたらすドッペルゲンガーという存在。怖れていたことが、とうとう実現してしまったと思いました。それは何の予告も前触れもなく、突如としてKの前に姿を現したのです。逃げよう。早く逃げなければ、と焦りながらも、しかし身体は金縛りに遭ったように動きません。

 “もう一人の自分”が、一歩、また一歩と近付いて来ました。そしてすぐ手前で立ち止まり、お辞儀するように上半身を腰から折り曲げてグルリと捻り、Kの顔を真下から覗き込みます。目と目が合い、“もう一人の自分”がニヤリと口角を歪めて笑いました。「とても嫌な、悪意ある笑い方だった」と、Kはそのときの様子を思い出したのか、語りながら身震いしていました。

 その歪な笑顔を見た瞬間、Kは弾かれたように身体の向きを変え、一目散に逃げ出しました。後ろを振り返る余裕もなく、ただただ怖ろしさに震え、途中で何度も転びそうになりながら、足が疲れて止まるまで、ひたすら逃げ続けたのです。


 アパートに何とか帰り着いたときには、辺りは真っ暗になっていました。そしてそれ以来、Kはただの一歩も部屋から出られなくなってしまったのです。


 「もしもまたアイツに遭遇したら、俺は間違いなく死ぬと思う」

 

 目に怯えの表情を浮かべて、Kは僕にそう訴えました。理屈ではなく、直感的にそれが分かるのだと言います。彼の表情は真剣そのもので、とても嘘を付いているようには見えません。

 僕は改めて部屋の惨状を見渡しました。俄には信じられない話ですが、しかし彼の精神状態がかなり追い詰められているのは事実です。何とかしなければと思いました。

 しかし単なる学生に過ぎない僕に、出来ることなど何もありません。それで翌日、彼の指導教員に相談することにしました。

 その結果、Kはしばらく大学を休み、実家に戻ることになりました。田舎から、彼の両親が迎えに来たといいます。見送りに行くことが出来ず、「元気になって必ず復学しろよ」と、メッセージを送りましたが、返事はありませんでした。


 そしてそれが、Kとの今生の別れになったのです。



 それから数ヶ月が過ぎた頃、人伝ひとづてにKが死んだと聞かされました。実家の物置で首を吊っている姿が見付かったそうです。

 遺書はなく、自殺の理由もハッキリしないとのこと。しかし僕は、こう思いました。


 Kは再び、あの“もう一人の自分”、ドッペルゲンガーと遭遇してしまったのではないか、と。



 あれから三年が過ぎ、今もときおりKのことを思い出します。友人としてもう少し、何か力になってやれなかったかと悔やむばかりです。


 そういえばつい最近、会社の先輩にこんなことを言われました。

 「お前、昨日、〇〇の辺りを歩いてたろ。声を掛けたのに無視して通り過ぎるから、感じ悪かったぞ」

 しかし僕にはまるで心当たりがありません。何故ならその時間帯、僕は友人と一緒に映画を観に行っていたからです。


 ふと、Kのことが脳裏に浮かびました。

 ドッペルゲンガー、影の病、離魂病、二重身等々・・・・。そう呼ばれるモノが、遂に僕の身の回りにも現れたのでしょうか。


 今のところ目撃証言はそれ一件のみですが、万が一にもKのように、“もう一人の自分”に出遭ってしまわないよう、ただそれを祈るばかりです。



                  (了)

 

 

 


 

 

 

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