東屋 あずまや

雨世界

1 君のことが好きです。

 東屋 あずまや

 

 君のことが好きです。


 僕の暮らしている田舎の街には、古い時代に作られた、とても立派な石造りの橋があった。

 綺麗な小川の上にかかっている短い橋。

 でも、そのとても綺麗な橋の造りと、その周囲に広がっている美しい自然の風景のおかげで、この古い橋はこの辺りに住んでいる地元の人たちなら、誰もが知っている隠れた名所であり、また、縁結びの力があるという噂もあって、知っている人なら知っている若い恋人たちの出会いや告白の場所でもあり、また近くに住んでいる人たちの憩いの場でもあった。

 橋の周囲には緑色の木々が植えられていて、小川の水はその川の中を泳いでいる魚の姿が見えるほどに、澄んでいて清らかだった。

 夜になると街灯の灯りによって照らされる橋は、とても美しくて、綺麗で、本当にずっとその景色を眺めていたくなるような、そんな素敵な風景の見られる場所だった。

 中学三年生の夏の終わりごろ、僕が東屋睦に呼び出されて、家から自転車を漕いで、そんな橋に行ったのは、ある夜の時間のことだった。

 その日の夜風はとても穏やかで、その風に橋の周囲にある木々の緑色の葉が小さな音を立てながら揺れていた。

「急に会いたいなんて、どうかしたの?」

 橋の上から、小川の中を泳いでいる小さな魚の姿を見て、僕は言った。

 よく見ると、小川の中には魚が二匹、泳いでいて、その姿は暗い夜の中でも、街灯の灯りの中で、橋の上からでもぼんやりとだけど見ることができた。

「うん。あのね、ちょっと話があるの」

 風の音の聞こえる夜の中で、小川の静かな水の流れを見ながら睦は言った。


 僕は睦の次の言葉を待った。

 でも、なぜか睦は僕に話があるの、と言ったのに、そのあと話をすることもなく、ずっと黙ったまま小川の水の中れる様子を、橋の上からじっと眺め続けていた。

 しばらくして、小川の中で魚がぽちゃんと音を立てて跳ねた。

 その魚の跳ねる音を聞いて、睦は僕を見ると、それから僕に向かってなにかを言いかけて、でもなにも言わずに、そのまま口をつぐんでしまった。

 それから睦はまた、暗い水面を見た。

 二人のいる古い橋の周囲に、涼しい夏の風が吹いた。

 僕は睦の言葉を待ちながら、ぼんやりと橋の周囲の風景に目を向けた。いつの間にか、小川の中を泳いでいた魚たちはどこかに泳いで行ってしまって、どこにもその姿は見えなくなっていた。

 僕が小川の流れる上流のほうに目を向けると、そこには綺麗な光が、夏の夜の中に、たくさん浮かんでいる場所があった。

 ……それは、蛍の光だった。(とても綺麗な光だ)

 僕は睦の言葉を待ちながら、じっと、そのぼんやりと光る淡い薄緑色をした、たくさんの蛍の光に目を向けた。


 そうやってしばらくの間、僕がぼんやりと蛍の光を眺めていると、「……なんの話かって聞かないの?」と睦は言った。

 僕が睦の声を聞いて、睦のほうを見ると、睦はいつの間にか、じっと僕のことを見つめていた。

 僕を見て、睦は、……その大きな目から、透明な涙をぽろぽろと流していた。

「……こんな夜中に突然なんだよって、早く家に帰りたいから、用事があるなら、早く話せよって、言わないの? ……迷惑だって、夜中に呼び出されて、それでいてずっと黙っていて、おまけに突然泣き出して、……迷惑だって言わないの?」

 僕を見て、睦は言った。

「そんなこと言わないよ」

 泣いている睦を見て、僕は言った。

「……どうして?」

「どうしてって、だって僕はちっとも迷惑だなんて思ってないから」

 にっこりと笑って僕は睦にそう言った。

 自分でも、我ながらよくこんな恥ずかしい台詞が言えたものだなと思う。でも、言えた。君にちゃんと言えた。

 泣いている君に。

 迷惑じゃないって、ちゃんと伝えることができた。(それが僕は嬉しかった)

 睦は泣きながら、じっと僕のことを見ている。

 僕も、じっと、そんな睦のことを見つめていた。

 二人は無言。

 そこには、ただ静かな二人の時間だけが流れていた。

 ……どこかで、ぽちゃんと魚が跳ねる音が聞こえた。

「……馬鹿」

 しばらくして、にっこりと笑って睦は言った。


 突然、雨が降り出した。

 今日は朝からずっと曇っていたから、雨が降るかもしれないと思っていたけど、雨は突然真っ暗な夜の空からぽつぽつと降り出した。

 降り出した雨はすぐに強い雨に変わった。

 橋を照らす街灯の光の中にはたくさんの空か降り続ける雨粒が見えた。

 橋の上は雨に濡れて、小川の水面にも雨はたくさん降り注いだ。

 蛍の光は、強い雨の中で、あんまりよく見えなくなった。

 睦は傘を持ってきていなかった。

 僕はちゃんと家から傘を持ってきていた。

 僕は睦と一緒に雨の中を走って移動をして、自分の橋の入り口のとこに止めておいた自転車のところまで行くと、そこで透明なビニールの傘をさして、睦と二人で、雨をしのいだ。

「雨。降ってきたね」僕は言った。

「うん。降ってきた。……ごめんね」と睦は言った。

「どうして謝るの?」

「……まあ、いろいろと」と僕を見て二人だけの傘の下で、睦は言った。

 僕と睦は雨が降ってきてから、その雨が強い雨に変わるまで、しばらくの間、雨の中に佇んでいた。

 雨が強くなってからは急いで移動を始めたのだけど、それでも二人は結構雨に濡れてしまった。

 僕の服も、睦の服も、それなりにびしょ濡れだった。

「……あのさ、帰ろうか。もちろん、家まで送ってくれるんでしょ?」

 にっこりと笑って睦は言った。

「話はもういいの?」

 晴は言う。

「うん。もういい」幸せそうな顔で睦は言った。


 その二人だけの雨の夜の帰り道で、僕と睦はたくさんの話をした。

 それはほとんどがあまり内容のない、たわいもない話ばかりだった。

 ……でも、すごく楽しかった。

 自転車を押しながら、二人で傘の柄を持って、歩き慣れた雨降りの道を歩きながら、僕と睦は、透明なビニールの傘の下でずっと、笑顔だった。

 それから二人は睦の家の前でさよならをした。

「ばいばい。今日はありがとう」ビニールの傘の下で睦は言った。

「うん。どういたしまして。じゃあ、またね。ばいばい」僕は言う。

 僕は笑顔で睦にそう言って、ビニールの傘をさしながら自転車を押して、さっき僕が睦が二人で歩いてきた道を今度は一人で歩いて、自分の家まで帰ろうとした。

 すると、その途中で、「あの!」と少しだけ大きな声で、睦が言った。

 僕は後ろを振り返ると、「……? なに?」と睦に言った。

「あのさ、言い忘れたことがあって……、あの、また明日ね」と睦は僕に手を振って、雨に濡れながら、そう言った。

「うん。また明日」僕は睦に手を振りながらそう言った。

 すると睦は本当に嬉しそうな顔で笑った。


 東屋 あずまや 終わり

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