06 さよならを覆す最高の方法

 熱月テルミドールのクーデターは成った。

 タリアンは早速に、愛するテレーズ・カバリュスを釈放した。


「やったぞ! さよならオールヴォワールを覆したぞ!」


 クーデターの先陣を切ったタリアンのこのような言動を知り、民衆はテレーズを称揚した。


「テレーズこそ、自由の女神マリアンヌ……否、熱月テルミドールの聖母だ!」


 と。

 かくしてタリアンはすぐにテレーズに結婚を申し込み、二人の間には娘が生まれた。

 そして。



「テレーズ、ちょっといい?」


 しばらくして。

 テレーズ・カバリュスはバラスの邸宅にいた。

 つまりは、愛人になった。

 ローズと共に。

 ローズの「獄中の愛人」だったオッシュは、熱月テルミドール反動により釈放された。これがフーシェのローズへの見返りだったが、オッシュはあっさりと十六歳の新妻とを戻し、そしてすべてを有耶無耶にするかのように、戦争へと向かっていった──ヴァンデという地方に。

 そしてローズとの縁は切れた。

 だからローズは、テレーズと共に、バラスの愛人をしている。

 そしてテレーズの「元」良人おっとたるタリアンはというと、クーデター以降、せず、ブルジョワの子弟をつどって「金ぴか青年隊ジュネス・ドレ」なる組織を作り、もはや残党のみのジャコバン・クラブを襲撃したりしていた。

 そのうちに地方に派遣させられ、一年足らずで、タリアンは凋落ちょうらくした。

 やがて葡萄月ヴァンデミエールの叛乱という事件が起こり、タリアンは完全に世間から忘れ去られた。


さよならオールヴォワール


 零落したタリアンには、テレーズの二度目のさよならオールヴォワールを覆す方法はなかった。

 しかし悔しさのあまり、ローズに手紙を書いて、何とかテレーズを翻心させてくれないかと懇願した。

 それをローズがテレーズに言うと、テレーズは「え、誰が?」と返した。

 ローズがタリアンだと再度口にすると、テレーズは微笑んだ。


「ああ、あの人……さよならオールヴォワールを覆して欲しいって? なら、最高の方法を教えるわ。ローズ、貴女も知っておいた方がいいわよ。そうね、さよならオールヴォワールと言われたら……こうするといいわ、


 そこでテレーズはわざとらしく衣服をはだけながら、バラスのいる寝室に向かった。

 こう言い残しながら。


「──忘れることよ」


 ローズは肩をすくめながら、苦笑で応じた。

 最近のテレーズはバラスに夢中だ。

 バラスは金銭かねを持っており、テレーズはそんなバラスに夢中という寸法だ。

 バラスもまんざらではないらしく、最近はテレーズとのが増え、その分、を食ったのはローズだ。


「……ふぅ」


  ローズは、ではバラスから飽きられ、その寵愛を失ったら、それを忘れるためにどうするかと考えた。


「そういえば……」


 最近、バラスの邸宅に出入りするようになった、貧乏な将官がいた。

 その将官はローズにご執心らしく、頻繁に手紙を渡して寄越した。


「……この恋文の主にでも乗り換えようかしら。たしか……ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテって言ったっけ?」


 そのブオナパルテなる将官が、名をフランス風の読みに変えていたことをローズは失念していた。

 ただ、彼が例の葡萄月ヴァンデミエールの叛乱で、大いに名を上げていたことは覚えていた。


「オッシュとちがって彼は未婚。そして未来がある。バラスも一目置いている。そういう手もあるか」


 ローズよりも若いテレーズに夢中なバラス。彼に飽きられるより前にさよならオールヴォワールをして、ブオナパルテなる男と一緒になった方が、まだましではないか。


「……フフ、ひょっとしたら、そのさよならオールヴォワールを覆すくらい、この男が最高に出世したりして」


 ローズは、幼い頃に占い師から予言されたことがある。


「最初の結婚は不幸になるが、そのあとで女王以上の存在になる」


 と。

 それならば、今がその時ではないかと、奇妙な予感を感ずるのだ。

 ……ちなみにローズこと、マリー・・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリは、のちにそのブオナパルテと再婚する。そしてその再婚相手から、こう呼ばれる。


「ジョゼフィーヌ」


と。



 ……タリアンがテレーズを解放し、手に手を取り合って出ていった監獄に。

 まるでテレーズと入れ替わるように、ひとりの男が、その監獄に叩き込まれた。

 男は六十がらみで、何かにおびえるように、ぶるぶると震えていた。


「……どうしたシモン、さっさと言わないか」


 六十がらみの男はアントワーヌ・シモン。

 彼は、ロベスピエールの党与だったが、この熱月テルミドール反動クーデターにより捕らえられ、監獄に叩き込まれたというわけだ。

 ……気がつくと、シモンの独房の前に、痩せぎすで貧相な男が立っていた。

 シモンは狼狽うろたえ、知らない知らないと、何度も叫んだ。


「し、知らない。ほ、本当だあ。お、おれはただの靴屋だ、たまたまパリ・コミューンの委員に」


「御託はいい」


 痩せぎすで貧相な男――フーシェは容赦なく、さっさと言えとシモンをうながした。


「死にたいのか」


「い、いや」


 あえぐようにシモンは、ただ「あのオーストリア女マリー・アントワネットの息子、『愛のキャベツルイ十七世』を腐らせてやれ」と言われただけ、と答えた。

 そして、言った相手の名は知らない──と。


「ふむ」


 それを聞いたフーシェは、納得したようにうなずいた。

 シモンは喜色を浮かべた。

 どうやらフーシェの興味を満たすことに成功したようだ。

 なら。


「……いや、君は釈放せんよ。予定通り裁判を受けて、そして死ぬんだ」


「そ、そんな。た、助け……」


「そう言った王太子ドーファン、否、国王ルイ十七世を君は助けたかね?」


「…………」


 シモンはルイ十七世の獄吏をしていた。

 そして不幸な少年王を虐待していた。

 その最たるものが。


「母親とさよならオールヴォワールをして悲歎に暮れる子どもに……君は、そのさよならオールヴォワールを覆す、だとして」


 娼婦を抱かせた。

 結果、ルイ十七世は心身ともに損なわれ、熱月テルミドール反動クーデターにより待遇は改善したものの、死は免れないという。


「……そうするように、シモン、君に命じた人物は誰かと追っていたが、どうやら、これ以上君から知れることはないようだ。さよならオールヴォワールだ、シモン」


「そ、そんな……」


 絶叫するシモンを背に、フーシェは歩き出す。

 誰にも言わなかったが、彼は不幸な少年王と出会い、そしてさよならオールヴォワールを告げられていた。

 その時から、彼はルイ十七世を追い詰めたを追っていた。


さよならオールヴォワールを覆す、その最高の方法は……忘れないことだ」


 その聞こえるか聞こえないぐらいの呟きを残し、フーシェは監獄を去る。

 やがて彼はその宿願をかなえるが、それはまた別の話である……。


 


【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよならを覆す最高の方法 〜熱月(テルミドール)九日のクーデター、その裏側に〜 四谷軒 @gyro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ