05 ふたたび熱月(テルミドール)九日へ

「……君にとっては、そんなものはではないだろう、タリアン」


「…………」


 再度の沈黙は、確認するまでもなく肯定だった。

 テレーズの胸中はどうあれ、彼女はタリアンの希望だった。未来だった。

 今それを喪うということは、耐えがたいことだった。


「そこで取引だ、タリアン」


 悪魔フーシェささやく。

 まことしやかに。


「何、難しいことではない。明日、国民公会コンヴァンスィヨン・ナシオナーレでサン・ジュストが演説する予定だ。それを邪魔すればいい」


 サン・ジュスト。

 革命の大天使。

 その、革命に傾倒する誰よりも激しい姿勢から、そう言われる。

 特に国王裁判における演説は有名で、国王どころか王政を弾劾し、王政の存在そのものが罪と言い切ったと伝えられる。


「そのサン・ジュストの演説の邪魔をしろと」


「そうだ」


「…………」


 そんなことをしたら、まず間違いなく粛清されるに決まっているではないか。

 だが、フーシェは大丈夫だという。


「私や、たとえばバラスは警戒されている……けれどタリアン、君なら……君なら警戒されていない。君は私やバラスのように、いないからね」


 フーシェもバラスも、任地で多くの人を殺した。

 タリアンは、むしろその逆だ。

 しかしそれはまるで、タリアンは柔弱で、物の数ではないと言っているようだ。

 フーシェは、そんなタリアンの胸中などおかまいなく、次なる台詞を述べる。


「タリアン、君がそう、たとえばナイフを振りかざして暴君を糾弾するならば、われわれもとう。って、ロベスピエールを弾劾しようではないか、逆に」


 すでに、国民公会の軍への根回しは済んでいると言う。

 ロベスピエールに味方する、パリ・コミューンの国民衛兵についても、を打ってある。


「あとは国民公会の議場で、を作るだけだ……それにはタリアン、君のようなヒロイックでロマンチストな、激情家こそふさわしい」


 そこでフーシェは動議を出すという。

 ロベスピエールを国家の敵プロスクリプティオにするという動議を。


「……それはまるで」


 やはり、自分の感じたことは当たっていた。

 何か、とてつもない陰謀に巻き込まれると感じたことは、当たっていた。


「国家転覆ではないか」


「そうだ。だがそれ以外に、君の愛しのテレーズ・カバリュス女史を救う方法はあるのかね?」


「…………」


さよならオールヴォワールを覆したいのだろう? 私はそのを提案している」


 フーシェは語る。

 バラスもまた、この企みの首謀者であると。

 バラスは任地で捕虜を殺してその所持金を得ていた。大金を。 

 その潤沢な資金を投じて、国民公会内に、密かに賛同者を集めていた。

 それでもまだ、どっちつかずの輩がいる。


「それをタリアン、君が煽るのだ。君のような、われわれとはあまり縁がない、それでいてロベスピエールに頭の上がらないとされる君が煽れば」


「わかった」


 タリアンに否やはなかった。

 というか、よく考えたら、自分こそがこの「戦い」の先陣を切るのだ。

 これこそ、テレーズ・カバリュスを救う、そう、わが自由の女神マリアンヌからのさよならオールヴォワールを覆す、最高の方法なのだと感じた。



 ……そして、時と場は、熱月テルミドール九日、国民公会へと戻る。


「暗幕を切り裂け!」


 サン・ジュストの演説中、タリアンはナイフを振りかざし、口角から泡を飛ばしながら叫んだ。

 タリアンは今、狂っていた。

 狂っていないと、やりきれないから、狂っていた。


「暴君を打倒せよ!」


 議場はこの声に圧倒される。

 このタイミングで、フーシェはロベスピエールとその党与を国家の敵プロスクリプティオとする動議を出した。



 ……それからはあっという間だった。

 国家の敵プロスクリプティオの動議は、全会一致で可決された。

 これにパリ・コミューンは抗議し、ロベスピエールらもパリ市庁舎へと逃げた。

 逃げたが、パリ・コミューンの国民衛兵の司令官、フランソワ・アンリオは。


 なぜか泥酔していた。


「だって市民シトワイヤンロベスピエール、貴方の名で酒が……」


 そうアンリオは抗弁した。

 ロベスピエールが国民公会で「うまくいった」から、パリ・コミューンの方でもぜひ祝って欲しいと酒が届いたという。

 そして大の酒好きのアンリオは、真っ先に酒を……。


「飲んだというのかッ! おのれッ、これは……フーシェ、君の仕業かッ!」


 ロベスピエールは激昂した。

 その後、バラス率いる国民公会軍は、大した抵抗もなくパリ市庁舎を占領、ロベスピエールは捕らえられ、翌日、彼らは断頭台の露と消えた。


 ……世にいう熱月テルミドール九日のクーデターという動乱は、こうして幕を閉じた。

 

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