偶然は存在するのか

ある日、二人の村人(伝承によっては猟師) が、別々の用事で町に来ていた。

ふだんは互いの村に住んでいて、会うことなどほとんど無いのだった。

ところがある日、町の市場でばったり再会 したのである。

二人は驚き、「こんな偶然があるものだなぁ!」と言いながら、

そのままブッダのいる精舎を訪れ、こう質問したのである。

「尊者よ、これは“偶然”というものでしょうか?」

するとブッダは、静かにこう答えた。


「世の中に“原因のない出来事”はない。お前たちがここで会ったのも、過去の行いと条件が集まった結果である。」

そして続けた。

「因なきところに結果は生じない。

いま起きたことには、必ず因と縁がある。

“偶然”と言われるものは、人がその因と縁を知らないだけなのだ。」

さらにブッダは、たとえ話として次のように説明したと言われている。

「種がまかれ、水と日光と土と風がそろえば芽が出る。

芽が出たからといって、それを“偶然”と言う人はいない。

人の出会いも、それと同じである。」

ブッダにとって、現実と必然の意味は同じだった。私はこのような考え方を「唯必然論」と呼んでいる。

人間にとって最大の疑問は「現実とは何か」である。

ブッダはこの疑問に答えられたと言えるのだろうか。唯必然論こそ正しいのだろうか。

もしも、現実と必然の意味が同じならば、計算によって未来を予知する事ができる。

いつかは天気予報が100パーセントの確立で当たるようになるし、自分がいつどこで死ぬのか、死因が何なのかさえもコンピューターの計算によって予知できてしまう。

しかし、私は偶然の存在を信じる。

それには理由がある。

正円形という絶対を有理数で割ろうとすると無理数が発生する。

必然と偶然の関係もこれと同じだ。

現実という絶対を必然という有理数で割ろうとしても割り切れない。偶然という無理数が発生する。

だから問題は、無理数が本当に存在するのかどうかだ。

たとえば円周率。

永遠に続くようだがそう見えるだけかもしれない。

しかし、古代ギリシャの数学者で、ヒッパソスという人物が無理数の実在を証明してしまった。

これは偶然の実在を証明したのと同じである。

それで偶然は確実に存在すると思うわけである。

すると仏教の根幹が崩れる。

仏教だけでは無い。共産主義も否定される。

カールマルクスは「存在するものには必然性がある」と言い、「計画経済」を考案した。唯物論者である前に唯必然論者だった。


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ガラスの日本を救え モリシュージ @maziro

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