第4話 地上にて

 それから数日間、私は空を見上げるたびに、あの少女のことを思い出した。そしてそのたびに、天空の道を駆けていく後ろ姿を思い浮かべて、自分も走り出したい気持ちに駆られた。


 私も彼女みたいに黒壁と距離をとれば、次の分岐路では失敗しないかもしれない。そうすれば今度こそ、この単調な道のりからはおさらばだ。


 そう考えると、やる気がみなぎってきた。私はぎこちない足取りで走り出す。


 しかし五分もしないうちに、立ち止まってしまった。息が切れてきたのだ。脇腹も痛くて、休憩なしにはこれ以上、足を踏み出せそうにない。


 しかし荒い呼吸を整えている間にも、黒壁はぐんぐん迫ってくる。しまいには背中に当たりそうなほど、距離を詰められてしまった。


 こんなことを続けていては、身がもたない。

 だから結局、私は走るのをやめた。


 今は元のように、地上の道をトボトボと歩いている。

 そんな自分が悲しくなって、また空を見上げた。


 私が今いる単調な地上の道と、彼女が駆けた美しい天空の道。もしどちらかが迷宮の出口に通じているとしたら、それは後者に違いない。


「もし、もう一度、あの分岐路に戻れたら」


 呟いてみたけれど、それが叶わないことは分かっている。黒壁が追ってきているから、もうあそこには戻れないのだ。


 惨めな自分に嫌気がさしてきたところで、視線をおろす。すると道の先に人影があるのに気が付いた。人影といっても、歩いているわけではない。その人は、なぜか地面に寝そべっている。


「あの、そんなところで寝ていたら、黒壁に轢き潰されちゃいますよ・・・・・・あ!」


 私はその人影の正体に気づいて、息を呑んだ。それは先日、天空の道を歩いていたあの少女だったのだ。胸騒ぎを覚えながら、彼女のそばに駆け寄る。


 その姿は、すっかり様変わりしていた。


 出会ったときはシミひとつなかったワンピースが、今は泥にまみれている。それに手足の向きだって、なんだかおかしい方向にねじれているではないか。恐る恐る顔を覗き込むと、人形のように虚な瞳が、まばたきもせずにこちらを見返していた。


 私は思わず飛び退いた。


「もしかして、天空の道を踏み外したの?」


 尋ねても、返事はない。仕方がないので、手のひらを額に当てて、眩しい空を見上げた。すると何もない空中に、黒壁だけがポッカリと浮かんでいるのが見えた。きっとあれが、少女を追いかけていた黒壁だ。


 さらに観察していると、空中の黒壁の後方には、ガラスの道がうっすら光っているのが分かった。かつて少女が歩いた道だ。しかし黒壁の前方には、いくら目を凝らしても何も見えない。ただ足場のない虚空が広がっている。


 それを見た私は、少女に何が起こったのか察した。

 彼女のいた美しい天空の道は、途中で途切れていたのだ。


 道が途切れていると知ったとき、彼女は途方に暮れただろう。地上に飛び降りてくるには、あの道はあまりに高いところにある。しかし黒壁は、容赦無く彼女を追ってくるのだ。


 少女は逃げ場を失って、最後には轢き潰される前に、地上に身を投げた。


『急ぎ足で進み続ければ、その分、黒壁からの距離が遠くなる。そうすれば次の分岐路に差し掛かった時に、もっと考える時間を持てるかもしれないでしょ?』


 生前の彼女の言葉が、頭の中で虚しく響く。この少女は黒壁に追いつかれまいと、私なんかよりはるかに早足で歩き続けた。それなのに、結果はこれだ。


 彼女に同情したからかもしれない。涙で視界が曇って、しばらくその場から動けなくなった。しかし私自身も、あまり悠長にしているわけにはいかない。こうしている間にも、黒壁は刻一刻と迫ってきているのだ。


 私は手を合わせて冥福を祈ると、少女の元を去った。






 思うに、この迷宮は見かけほど単純なものではないのだろう。


 一本道が続くだけで、分岐路に出会うことなんて数年に一度。迷宮と呼ぶには、あまりに迷いどころが少ないこの場所。しかしだからこそ、一つ一つの分岐路が、とても大きな意味を持つ。


 そしてタチの悪いことに、自分の選んだ道が正解だったかどうかは、ずっと後になるまで分からないのだ。


 今この瞬間、私が歩いているこの道も同じ。これが迷宮の出口につながっているのか、行き止まりへ向かっているのか、それは誰にも分からない。


 もしも進んで行った先が、逃げ場のない行き止まりだったとしたら?

 それを考えるだけで、足がすくんでしまいそうだ。


 それでも無理やり足を動かしていると、不意に、チチッと鳴き声がした。声のした方を見ると、一羽の青い小鳥が床にちょこんと止まっていた。見覚えのある鳥だった。あの少女が連れていた子だ。


 その鳥は何かを訴えかけるように、つぶらな瞳でこちらを見つめている。


 私は独りごちた。


「どの道が正解かなんて、進んでみなければ分からない。だったら、自分に与えられた道を信じて、歩き続けるよりほかないよね」


 届かない天空の道に憧れるより、今歩いているこの道が自分を幸せに導いていると信じた方が、よっぽど建設的だ。


 それに、過ぎてしまった分岐路は取り戻せないけれど、幸せは自分で引き寄せることができる。


「君も一緒に来る?」


 尋ねると、小鳥は嬉しそうに羽ばたいて、私の肩に乗ってきた。その羽を優しく撫でて、また前を向く。


 そうして今日も私は、迷宮の道を一歩一歩、踏破していくのだ。

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分岐路の先にて world is snow@低浮上の極み @world_is_snow

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