うるおう年
清瀬 六朗
第1話 うるおう六月
「
と、
顔をまっ赤にしている。
立ち襟の黒いシャツの上に白いカーディガンを着て、髪の毛はいつものようなハーフアップではなく高い位置でぎゅっと結んでアップにしているのだが。
この子には、いまひとつ似合わないんだけどな。
杏樹はその声を震える寸前でとどめながら、続けた。
「さる、
「じゅん、って読みかたがないわけじゃないけど」
と、先生からすかさず訂正が飛ぶ。
「うるう、って読みなさい」
「はい」
「はい」とは答えたものの。
杏樹、わかってないな、という「手応え」は伝わって来た。
日本史史料読解入門という科目の授業で、参加しているのは、一年上の
イギリス文学か何かを専攻している莉音さんが中近世の日本語史料が読めることがわかって、担当の
シラバスには、「入門」にふさわしく、史料集に載っているような基本文献を読みながら日本史の史料の読みかたを身につける、ということが書いてある。その科目が、いきなり、先生が地方に調査に行って見つけてきた手書き文書を読む、という内容に切り替わった。
莉音さん以外の三人は日本史を専攻するのだから、読めて当然、という判断らしい。
手書き文書の文字は、先生自身が、活字、というか、フォントにしてくれたけど。
もともと日本史が第一志望ではなかった杏樹には気の毒な展開だ。
「此は」は、前の回で「
「天正」を「てんせい」と読まなかったのは、まあ、良いと思う。
でも、いまの段階で「杏樹、何かやるな」感がいっぱいだ。
「えっと」
その杏樹が、けなげに気を取り直して読み直す。
「此は、さる天正三年うるおう六月の
研究室を「はてな」な雰囲気が覆う。
杏樹、いま、天正三年何月って言った?
その疑問を感じていないのは、言った杏樹本人だけらしい。
その杏樹が続ける。
「
竹鷹は、漢風の「号」で「ちくよう」の可能性もあるが、「たけたか」と読もう、と前回に決めた。「大林城」は当時の読みで「たいりんじょう」だということも、前回、先生から説明があった。「拠り」を「より」と読んだのはよくやったと思う。
しかし。
「三年うるおう六月に
今度ははっきり「うるおう」って言った!
結生子さんがふふっと声を漏らした。
いつも上品な結生子さんが、目を細め、そのピンクの血色のよい唇を軽く開いて「ふふっ」。
それにつられるように、莉音さんも笑い出す。「ふふっ」よりもはっきり笑う。
結生子さんと莉音さんは知り合いらしい。その二人で共鳴するように、顔を見合わせて声を立てて笑い出す。
あ、いけない。
仁子も莉音さんに続けて笑った。
抑えたのがかえってよくなかった。
いや、杏樹を笑ってはいけない、と思って、止めようとする。ところが、その思いに反発するように、胸のなかから笑いが湧いてくる。次から次へと湧き上がってくる。
声を立てて笑う。
止められない。
止められないのは莉音さんも同じだ。最初は「ふふっ」だった三善さんもいまはピンクの唇を開けて笑っている。
先生も。
杏樹は、恥ずかしさにうつむいてしまった……。
……かというと、そうでもなく、右、左と首を振って、先生と結生子さんと、莉音さんと仁子をふしぎそうに見回している。
みんながなぜ笑っているのか、わからないらしい。
先生もいっしょに笑っていたが、先生としての責任感からか、笑うのを止めて、
「杏樹ちゃん、さっきの、此は、のところからもういちど読んでみて」
と指図する。
「あ、はい」
杏樹はとてもかしこまって返事した。
まだみんなの笑いが収まらないうちに読み始める。
「此は」
その力の入りまくった声の出しかたを聞いて、杏樹はやるんじゃないかと、仁子はさっきよりずっと強く確信した。
よりによって、さっきの笑いを増幅倍増させるような何かを。
そのとおりだった。
杏樹は、さっきより力を入れ、ゆっくりと、はっきりと読み上げた。
「さる、天正三年、うるおう、六月の」
今度こそ、先生も結生子さんも莉音さんも、それに仁子も、大声で笑った。
うるおう年 清瀬 六朗 @r_kiyose
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