第2話 ただ、恋をしているんだ。

 五月を過ぎ、六月を迎えた頃になって、ぼくは身体の不調を覚えるようになった。

 その頃になると、ぼくは毎日のように蛍のマンションに泊まるようになっていて殆ど家には帰らないようになっていた。

 毎朝、だるい。

 何だか風邪っぽくて、ずっと微熱が続いている。休んでも疲れが抜けない。それから、蛍はぼくの作った物しか食べないようになった。

 基本的に寡黙な蛍は、見え透いたお世辞なんて言わない。ぼくの作った食事を褒めてくれることはないけど、必ず残さず食べる。

 そんな蛍は初心が抜けなくて。


「悠希……その、最近少し、色っぽいな……」


 鏡の中のぼくは微熱のせいか頬が少し赤く染まっていて、目が少し潤んでいる。ちょっとしんどそうだ。


「……恋、してるからかも」


 ぼくがそう言って誤魔化すと、蛍は物凄く真っ赤な顔になって目を逸らしてしまう。


 父さんは仕事が大変で、会社ではお荷物だって嘆いている。でも、手応えは感じているみたい。いずれ、会社にとって必要な人間になって見せると息巻いていた。


 僅かな時間を縫うようにして家に帰ると、父さんはいつもぐったりして眠っている。


 ……父さんにとって、今は大切なとき。仕事に集中してほしい。


 ぼくは不調を隠すことにした。


 だるい毎日が続く。微熱は一向に治まる気配がなく、ぼくの体調は下り坂。それでもハードスケジュールの勉強は続くし、蛍はぼくの作った物しか食べてくれない。たまに家に帰ったときは、溜まっている父さんの洗濯物をやっつける。受験勉強と家事の両輪。そんな生活が長続きするはずがなく……


 ぼくは寝坊するようになった。


「まぁ、そんな日もある」


 最初は笑って許してくれた蛍だったけど、そういう日が続くうち、徐々に怒りっぽくなって行った。


「何をしているんだ。朝、起きることもできないのか?」


「ごめんなさい……」


 怒りっぽくなった蛍だけど、ぼくのお腹を擦る癖は抜けない。むしろ酷くなった。


「可愛いだけじゃ世の中生きて行けない。そんなものが通用するのは私だけだ。分かっているのか?」


「……はい、分かってます」


 しゅん、とするぼくに蛍は困り顔で説教する。


「最近、成績が下がって来ているな。どうした?」


「…………」


 どうしても身体から怠さが抜けない。休んでも疲れが抜けない。微熱のお陰で、いつもぼうっとする。勉強どころじゃない。


「そんなことじゃ駄目だ。もう少し気合いを入れろ」


「……はい」


 ぼくは頷くだけだった。


◇◇


 その夜。

 蛍は恐ろしく不機嫌だった。

 ぼくらは殆ど同棲していて、同じものを食べ、同じベッドで眠る。でも身体の関係はなく、お風呂も別々。未だ決定的な意味で結ばれてない現状に、蛍は酷く苛立っていた。


「なあ、悠希」


 尖った声でぼくを呼ぶ蛍は、短パンにランニングのラフな格好で胡座(あぐら)をかいていた。下着は着けてないので、チラチラと見えちゃいけない場所が見えている。


「……私は、そんなに魅力がないか?」


「…………」


 ぼくは蛍の剣幕を見て、これ以上の隠し事は無理だと思った。やむを得ず、パジャマのボタンに手を掛けたところで――


「もういいッ!」


 激昂して蛍が叫んだ。


「なぜそんなに嫌そうにする! 私を抱くのがそんなに嫌か! ならしなければいい!!」


 この夜から、ぼくはソファで寝るように命令された。

 

◇◇


 蛍は殆ど口をきいてくれなくなった。

 物凄く怒っているけど、出ていけとは言わない。ご飯は残さず食べてくれるし、部屋では相変わらず露出の多い格好をしている。

 ぼくは謝るべきだった。


「蛍、ちょっとお話があります」

「……私にはない!」


 ぼくの言い方が不味かったのか、蛍は益々意固地に、そして無口になった。

 運転手の武田さんは困り顔。

 蛍の居ない場所に呼び出されたぼくは、幾つかの質問をされた。


「みぃちゃん、ケイのことが嫌いなのかい?」

「……」


 これは、ぼくと蛍の問題。ぼくは黙っていた。


「ケイに話は聞いてるから、隠さなくていいよ」

「…………」


 武田さんは24歳。蛍とは遠縁の親戚になるらしい。切れ長の瞳を持つ面差しは何処か蛍に似ている。でもずっと大人で――


「みぃちゃん、黙らないで」

「ごめんなさい……」

「謝らなきゃ、いけないことをしているのかい?」


 ぼくが頷くと、武田さんは眉をハの字にして、ますます困り顔になった。


「……何か理由があるんだよね。それは、ケイにも私にも言えない。言いたくない。そういうこと?」

「……」


 ぼくが黙って頷くと、武田さんも一つ頷いた。


「……分かった。今は、みぃちゃんに任せる」


 武田さんは大人の女性。このときは、その優しさが有り難かった。


「……それより、みぃちゃん。その……最近、ちょっと具合が悪そうに見える。気のせいかい?」


「少し風邪気味なんだ」


 武田さんは大人。

 ともすれば甘えてしまいそうになる自分を内心で叱咤して、ぼくは踵を返した。


◇◇


 七月も半ばを過ぎ、茹だるような毎日が続くある日、蛍の住居であるワンルームマンションのソファで目を覚ましたとき、ぼくは一人きりだった。


「…………」


 時刻は午前十時をとうに過ぎていて学校には大遅刻。蛍の姿がないことから、どうやらぼくは置いてきぼりを食った。

 テーブルの上にあるメモ帳には一言――


 ――気合いが足りない。


 と描いてある。

 この頃のぼくたちの関係は冷えきっていて、顔を合わせても口をきかない。必要なことは筆談で済ませることが多くなっていた。


 この日は最高のバッドステータス。怠い身体を引き摺り、部屋を出た時にはもう十一時を過ぎていた。

 武田さんは優しい。頼めば学校まで送ってくれるかも。そんな下心から地下駐車場に向かうと、エレベーターを降りた所で待っていた武田さんに通せんぼされた。


「……みぃちゃん、ちょっと待って」


「なあに……?」


 ぼくの微熱は続いている。夏の暑さも相俟って気もそぞろ。


「顔が真っ赤だよ。涙目になってるし、ふらふらしてる。凄く具合が悪そうだ」


 ぼくは言った。


「気合いが足りないんだ」


 眉間に皺を寄せた武田さんは、睨み付けるような厳しい表情だった。


「……ケイがそう言ったのかい?」


「うん、ぼくは気合いが足りないんだ」


「そういう問題じゃない」


 白い蛍光灯が照らす真昼の地下駐車場。むん、と夏の熱気が漂うそこで、ぼくは武田さんに抱き上げられた。


「病院に行こう」


「蛍が学校で待ってるから、行かなきゃ……」


「いつまでだって待たせておけばいいんだ」


 ぼくは首を振った。


「父さん、すごく頑張ってるんだ。ぼくもまだ頑張りたい」


 ぼくが言うと、武田さんは、ぐっと息を詰まらせた。


「……分かってる。分かってるよ。その頑張りを無駄にはしない」


「……シンゲン、泣いてるの?」


「暑いからね。涙は心の汗なんだ」


 そんなことを言って、武田さんはサングラスを掛けて切れ長の瞳を隠してしまった。


「……久し振りに、シンゲンって呼んでくれたね」


「あ……ごめんなさい。蛍には言わないで……」


 蛍曰く、人には名前がある。勝手に渾名を付けては行けない。仲良く……馴れ馴れしく振る舞っては行けない。


「ああ、二人の秘密だ」


 その言葉に安心してしまったぼくは、武田さんに全て任せることにした。


「ちょっと、見るよ」


 武田さんはそう言って、リアシートに寝転がるぼくの瞼の裏を覗き込んだり、額に手を当てて熱を計ったり。

 続いて脈を計ろうとぼくの左の手首を掴んだところで――

 ギクリとして、固まった。

 ぼくの左手の袖を肘の部分まで捲り上げ『それ』を確認したあと、更にシャツのボタンを外し、胸元を見た武田さんは恐ろしい秘密を発見した人のように口元に手を当てた。


「蛍には言わないで……」


 武田さんが鼻声で言った。


「そうか……そういうことだったのか……」


「……昔のことなんだ……」


 武田さんが黙って頷く度に、サングラスの下を伝う涙の筋が太くなる。


「なぁ、みぃちゃんは……どんな気持ちでケイと一緒にいたんだ……?」


「……」


「なぁ、みぃちゃん。それは、どれだけ苦しいことなんだ?」


 真っ黒なサングラスのレンズの下から、大量の涙の筋が伝っている。


「……私には分からない。分からないんだ……」


 ぼくの右の手の甲に、熱い涙が落ちて弾けた。


「……もう、見ていられないよ……」


 ぼくを強く抱き締め、武田さんは短い嗚咽を吐き出したあと、ぐんと胸を張った。


「……私だって、結構凄いんだぜ。いざとなれば、君を連れてどこまでだって逃げてやる」


 覚悟の言葉。


 ぼくは答えず、静かに目を閉じた。

 眠くて眠くてしょうがない。


 ――限界だった。


◇◇


「こんなになるまで、何で息子を放っておいたんだ!!」


 父さんの怒鳴り声で目を覚ましたとき、ぼくは病院のベッドの上にいた。


「あんた、ずっと息子と一緒に居たんだろ!? 何も気付かなかったのか!!」


 父さんは物凄い剣幕で蛍の襟首を引っ掴み、今にも殴りかかりそうな勢いだった。


「…………」


 何故かぼんやりしているように見える蛍は黙っていて、父さんにされるがままにされていた。


 僅かに鼻に衝く消毒薬の匂い。ぼくは何だかぼうっとして、薄目を開けたまま天井を見つめていた。

 左腕に点滴の針が刺さっていて、バッグの中の薬剤が雫を打っている。視線を下げると、サングラスを掛けたまま壁際に立つ武田さんの姿が見えた。


 ――ウソつき。


 その努力を無駄にしない、そう言った武田さんが父さんを呼んだということだけは理解できた。


「…………」


 ぼくと目が合っても、蛍は無表情。視線はぼくに釘付けで、襟首を掴まれたまま黙って父さんの批判を受け止めている。


「ウチの息子が何をしたんだ! こんなになるまで何も分からなかったのか!!」


「…………」


 ぼくが微笑んで見せると、無表情だった蛍の視線が揺れた。


「悠くん!」


 目を覚ましたぼくに気が付いた父さんが、蛍の襟首を突き飛ばして駆け寄って来る。


「悠くん……ごめん……!」


 ぼくの右手を両手で掴み、まるで祈るような格好になって父さんは泣き崩れた。


「おお……何でだ……何でこんなことに……」


「…………」


 そのぼくのお父さんの後ろで、蛍は静かに膝を着き、額を床に押し付け、謝罪の姿勢になった。


 父さんはそちらに視線をやらず、蛍も謝罪の姿勢のまま動かない。


「和修さんには悪いが、会社は辞めさせてもらう。息子も連れて帰る」


「……!」


 頭を下げたままの肩がびくんと震え、その瞬間、蛍はとても小さくなったように見えた。

 蚊の鳴くような声で言った。


「……それは、それだけは、赦して下さい……」


「どの口が言ってるんだ」


 父さんは赦さず、強情に首を振った。


「……異変に気が付かなかったのか……?」


「……」


 蛍は動かない。でも、内心で激しく動揺し、酷く困惑しているのが手に取るように分かった。


 沈黙。


 言葉はない。

 でも、死刑宣告を受けた人のように蛍の身体は震えている。何とか弁解の言葉を押し出そうと、全身が震えている。やがて――


「恋を、していました……」


「……」


 額を床に押し付けたままの姿勢で、蛍は泣いていた。


「……私が『愛してる』と言うと、いつも『分かってます』と言ってくれました……」


「……」


「頬を染めて、鈴の鳴るような声で微笑って言ってくれました……」


 ぼくは分かっていた。


「私は照れ臭くて、とても気恥ずかしくて、目を、逸らしました……」


 頭を上げた蛍の顔は、後悔と夥しい量の涙に塗れ、歪んでいた。


「申し訳ありません」


 この人は、恋をしていた。

 長い時間ずっと一緒に居て、それでも慣れることは一瞬もなかった。まともにぼくの顔を見ることもできないくらい、この人は、ずっとずっとぼくに恋をしていた。


「お願いします……私から悠希を取らないで下さい」


 蛍は、どうしてもぼくが欲しかった。


 ぼくだけは、そんな蛍のことを理解していた。だから――


「蛍、もう、帰ろう……?」


「……」


 父さんにもう一度頭を下げ、蛍は激しく咽び泣いた。


 時間は戻らない。


 女子剣道部主将。修めた武道の段数は全て合わせれば二十と一。生粋の女豪傑。秋月蛍。

 ぼくを、深く愛していた。

 彼女の愛は不器用で、それに負けないくらい、ぼくも不器用だった。


「蛍、もういい。もういいんだ……」


 蛍はこの場を凌ぐ術を持たず、身体の中身全てを吐き出してしまうかのような嗚咽を洩らし、ひたすら涙を流した。


「お父さん、ぼく、蛍と結婚するんだ……」


 誰も裁かれるべきじゃない。

 ぼくを見つめ、父さんは苦しそうに、とても悲しそうに――

 小さく、見えないくらい、ほんの少しだけ、頷いた。


 この場の誰もが泣いていた。

 父さんも蛍も、壁際に立ち尽くし、見守るだけの武田さんも、肩を震わせて泣いていた。

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