第4話 いいや、分からないな。
父さんが去り、病室はぼくと蛍、それに武田さんの三人だけになった。
泣いている二人を見て、この世界は悲しい涙で構築されているのかも。なんてことを考える。
黙って涙を流し続ける蛍に、ぼくは言った。
「黙ってて、ごめんなさい……」
ぼくには八歳より前の記憶が殆どない。母さんに受けた長期の虐待が原因。父さんの献身的な介護で奇跡的に回復することができたけど、身体には無数の傷痕が残っている。
「……怖くて、知られたくありませんでした……」
「……」
蛍が黙って首を振ると、頬に流れる涙が、ぱらりと散った。
「ぼくを嫌いにならないで下さい」
「……ああ」
目元を赤くした蛍が強く頷く。
それだけで充分。ホッとしたぼくだけど、視界の端で小さく首を振る武田さんの姿が見えた。
「悠希、お前の病気は深刻だ。治療は長く辛いものになる……」
蛍は暫く考え、都内の大学病院にぼくを移送するよう武田さんに言った。
「こんな地方の病院じゃ駄目だ。いい薬、いい医者、もっと設備が充実した場所で病気の治療に専念するんだ」
「……お金、ないです」
ぼくがそう言うと、蛍はとても苦しそうな表情になって言葉に詰まった。
ぼくの家は貧乏。とてもじゃないけど、蛍が勧めるような病院での治療は望めない。
「……」
ぽろりぽろりと蛍の目から新しい涙が溢れる。
沈黙。
蛍は何か言おうとして――
「私が払う」
壁際で、ずっとぼくらを見守っていた武田さんが言った。
「みぃちゃんは、そんなことを気にしなくていいんだ」
「でも……」
ぼくは困惑した。
いつだって優しい武田さんは、すごくいい人だ。でも、そこまでしてもらう義理はない。そんな迷惑は掛けられない。
「私は独身で、結婚の予定はないし、交際している異性もいない。少し財布が重いと思ってたんだ」
そう嘯く武田さんのサングラスの下から、涙の筋が伝って落ちた。
この人は優しすぎる。
困ったぼくが視線を向けると、蛍は嗚咽を殺して泣いていた。
溢れる涙を袖で拭って、拭って、拭って。それでも涙は止まらない。苦しそうに言った。
「……セツ、いや悠希。いいんだ。お前は何も心配する必要はない。私にとって、それは些細な問題なんだ」
「……」
武田さんは小さく舌打ちした。
ぼくにしか聞き取れないくらいの声で呟いた。
「……その言葉を、なんでもっと早く言ってやれないんだ……」
武田さんは、つっと前に出て、ベッドの横で膝を折り、ぼくと視線を揃えて言った。
「……みぃちゃん、この病気の治療はとても苦しい。嫌になったら、諦めて構わないよ」
「セツ!」
蛍が叫んだ。
「お前は何を言っている! このままじゃ、悠希は死んでしまう! 死んでしまうんだ! 分かっているのか!?」
「うるさいッ!!」
もぎ取るようにサングラスを投げ捨てて、武田さんが立ち上がった。眦を釣り上げ、スーツ姿の全身に怒りを漲らせ、蛍に怒鳴り返した。
「私はこの子が苦しむ姿は見たくない! どうせ助からないんだ! 最期くらい――」
「よせ! 悠希の前で言うな!」
二人は大声で怒鳴り合っていて、それは今にも沈みそうな客船の行く末を連想させた。
◇◇
八月。
体調が整うのを待って、ぼくは都内の大学病院に入院する手筈になった。
「蛍は、受験頑張って下さい」
秋月蛍は特別な人だ。現財務大臣、秋月和修の後継者。彼の政治的地盤を引き継ぎ、行く行くはこの国のフィクサーの一人になる。その彼女が、ぼくなんかの為に、ここで躓くなんてことがあっちゃいけない。
「……すまない」
蛍は両目に涙を溜めて、悔しそうに唇を噛んでいた。
ぼくの治療費は秋月家から出る。蛍が学業を優先させることは、ある意味当然だった。
「……セツ、後を頼む」
武田さんは小さく頷き、口に出してはこう言った。
「今さら何を勉強するのか知らないけど、まぁ頑張れ」
「……」
蛍は唇を噛み締め、その皮肉には何も答えなかった。
◇◇
九月。
都内の大学病院に移ったぼくの、長く苦しい治療が始まった。
治療は嫌いだ。あれをすると、ご飯が凄く不味くなる。味のない毛糸を食べているみたい。でも、ぼくが苦しむと、蛍も武田さんも悲しむ。だから、ぼくは平気なふりをした。
向こうに残って受験勉強をしている蛍の代わりに、武田さんがぼくの世話をしてくれている。
「おかしいね。蛍は一日に十時間以上勉強しているのに、どんどん頭が悪くなっている気がする」
武田さんは蛍を憎むようになっていた。
その蛍からは、毎日のように電話が掛かってくる。
『……今、帰った』
「お帰りなさい。今日はどうでしたか?」
帰宅を告げる蛍の声は暗く、いつも疲れているように聞こえてぼくは心配だ。
『……なあ、もう限界なんだ。そっちに行っていいか?』
「それは……」
『なあ、お前の居ない家に、私はなんで帰っているんだ?』
「……」
どう答えていいか分からず、ぼくはひたすら蛍の不満を聞いていた。
『受験しなかった場合、お前に対する援助を打ち切ると言われた』
「…………」
秋月和修はリアリスト。死にかけたぼくより、家名存続の為、次期当主である蛍の身を案じるのは当然のこと。分かっていた。
『……すまない。我儘を言ってることは分かっているんだ。でも……』
――耐えきれない。
蛍がその言葉を飲み込んだことは、痛いくらいよく分かった。
『でも、週末は一緒に過ごせる。そこは安心してほしい』
「うん、待ってる」
『ああ、私も週末が待ち遠しい』
そう言った蛍の声は覇気が欠けている。
『……本当は、受験や秋月の家のことはどうだっていいんだ。そんなものは、お前の代わりにはならないからな』
「……はい」
ぼくも蛍も、お互いの為に戦っていた。
◇◇
十月。
夏は過ぎ、寂しげな秋風が吹くようになった頃、治療のせいで髪が抜けたぼくの頭は、つんつるてんになった。
眉毛も睫毛も、全部抜け落ちてしまった。
「大変だ……」
こんなみっともない姿は蛍に見せられない。
困り果てたぼくが、マジックで眉毛を描いてくれって頼んだら、武田さんは発作を起こしたように激しく泣いた。
「……私にそんなことはできない。できないよ……」
土曜日になると蛍がやって来る。それまでに何とかしなきゃいけない。
「……そうだね。帽子を買ってこよう。うんと可愛い帽子を……」
最近の武田さんは、普通でいるより泣いている時間の方が長いくらい。そのせいで目元が爛れていて、とても痛そうに見える。
「痛くないよ。こんなことはなんでもない」
武田さんはそう言って、やっぱり泣いた。
◇◇
金曜日の夜、消灯時間を過ぎた頃になって、武田さんが、ぼくの病室にこっそりやって来た。
「……みぃちゃん、起きてる?」
「なに?」
「退院しよう。私の故郷に行くんだ。空気も綺麗だし、ご飯も美味しいよ。髪の毛だって生えてくる」
それはとても魅力的な提案だ。でも……
「蛍は?」
「知らないよ、あんなヤツ」
武田さんは蛍を憎んでいる。世界中で起きる災厄の全てが蛍の仕業だと言ったら、迷わずそれを信用するだろう。
ぼくは答えを迷った。
行けない。それは決定している。でも、武田さんは誠心誠意ぼくの為に言ってくれている。
「えっと……それは……」
ぼくが困っていると、武田さんは悲しそうに微笑った。
「……冗談だよ。そんな顔しないで……」
「……ごめんなさい……」
「いいんだよ」
武田さんは笑いながら泣いていた。本当に優しいひと。
「……キスしていいかい?」
笑いながら、泣きながら、赤く爛れた目元を擦り、武田さんがキスをせがんで来る。
「え……?」
「……」
困惑して目で問い直しても、武田さんは小さく頷くだけで何も言わない。
ぼくは悩みに悩み……
「一度だけなら……」
「やったね。言ってみるもんだ」
そして、ぼくは武田さんとキスをした。
蛍を裏切ることに葛藤がなかった訳じゃない。でも、優しい武田さんが言った初めての我儘だ。この瞬間だけは見逃してほしい。
消灯後の夜の病室で、武田さんと交わしたキスは、涙の味がする悲しい大人のキスだった。
◇◇
土曜日になり、朝一番の飛行機で蛍がやって来た。
髪はボサボサ。目元に、びっしりと紫の隈を貼り付け、頬はげっそりと痩せている。
まるで幽鬼のような有り様になった蛍を見て、武田さんが朗らかに笑った。
「やあ、ケイ。今日も綺麗だね。いつもより決まってる」
「……悠希は元気か?」
武田さんは幾分悲しそうに言った。
「……ケイ。勉強し過ぎで却って頭が悪くなっているような気がするのは気のせいかい?」
「…………」
「元気な訳があるか」
低い声でそう吐き捨て、武田さんは病室から飛び出して行った。
「なんだ、アイツ……」
武田さんが走って行った方を、蛍は血走った目で睨み付けていたけれど、ふんと鼻を鳴らして、それからぼくに向き直った。
「おはよう」
「おはようございます」
「ああ……」
蛍は疲れたように溜息を吐き出して、手に持った荷物を投げ出すとそのままぼくに歩み寄り、ベッドの端に腰掛けた。
「愛してるよ」
「はい、分かってます」
そこで空気が緩んだ。表情から険が消え、蛍の目尻がとろりと下がった。
「上手く眠れないんだ」
「……」
「何を食べても味気なく感じる」
「……」
「全部、お前のせいだ。少し腹に触らせ……なんだ、その暑苦しい帽子は」
ぼくが慌てて武田さんに貰った毛糸の帽子を目深に被り直すと、蛍は不愉快そうにまた鼻を鳴らした。
「セツに買って貰ったのか? ダサいな。後で替わりの帽子を買ってやる」
「はい」
「…………うん、分かってるなら、いい」
釣り上げかけた眉を下げ、蛍はまた大きな溜息を吐き出して、それからぼくを抱き寄せた。
「もう帰らない。お前の希望通り、父とは喧嘩しなかった。穏便な話し合いの帰結というやつだ」
それはどうだろう。ぼくは、和修さんを気の毒に思った。
「ちなみに、お前の留年が決まった」
「えぇ……」
蛍は吹き出した。
少し涙の浮いた目尻は武田さんと同じように赤く腫れていて痛々しい。ぼくが居ない所で泣き腫らしたのは明白だった。
「……リンゴ、食べますか?」
「ああ、食べる。気を付けろよ。今のお前は出血しやすくなっている……いや、私がやろう」
蛍は棚から果物ナイフを取り、盛り沢山になっているフルーツの籠からリンゴを取り出す。
「……セツはよくしてくれるか?」
「すごく」
蛍は料理なんてしない。果物ナイフの持ち方はおかしかったけど、それでも器用にリンゴの皮を剥いていく。
「悠希、お前も半分食べるんだ。うん、これからは毎日私が食べさせてやる」
それはちょっと怖い。武田さんは無茶しなかったけど、蛍は無理にでもぼくの口に押し込みそうだ。
「……痩せたな」
苦笑いするぼくの横で、ぽつりと蛍が呟いた。
「お前の居ない家は寂しい。帰る意味を感じない」
八等分されたうちの一片を、そっとぼくの口元に運び、蛍はくしゃくしゃになった笑みを浮かべた。
「病院での治療は辛いか?」
「……少し」
ぼくが強がりを言うと、蛍は泣き笑いの表情になって、すんと鼻を啜ったあと、頑なに視線を背けた。
「……古来より、秋月の家には不思議な力がある。知っているな」
最適解。恐ろしいほどの勘の冴え渡り。未来予知のようなもの。天才的な閃き。
「私は優秀で、他人(ひと)より強く頑丈に出来ている。特に勘の鋭さは誰にも負けない。父は高齢だが、この国のフィクサーの一人だ」
でも、ぼくに取り憑いた夜を振り払えずにいる。
「その力を全て使い潰してでも、私はお前の死を認めない」
蛍がまたぼくの口にリンゴを押し込んでくる。ついでに舌に触るのはやめてほしい。
ぼくの舌を弄ぶ蛍は、うっすらと頬を上気させている。
「夜になると、お前のことが恋しい。分かるか?」
「……っ、はい」
そこで来訪者を告げるノック音があり、蛍は小さく舌打ちした。
「……セツか? キスする間もない……」
蛍は大分、溜まってるみたい。ちょっぴり怖い、けど……こんなになってしまったぼくを、まだ求めてくれるのは素直に嬉しい。
不機嫌を露に扉を睨み付ける蛍の耳元で囁いた。
「……夜なら、いいですよ……」
「……!!」
ぼんっ、と蛍の顔に朱色が散った。
扉が開いて眉間に皺の武田さんが顔を出しても、蛍は真っ赤になった驚きの表情でぼくを見つめていて、何ていうか、すごくマヌケに見える。
「そ、そうか。けど無理しなくていいんだ。ちょっと触ってくれれば、私はそれだけで満足できる自信が……」
口の中でモゴモゴ言う蛍は苛立ちも何処へやら。赤くなった顔を逸らし、警戒するように、ぴったりと膝を閉じてしまった。
「…………」
仏頂面の武田さんが、大人しくなった蛍を、ジトッとした目で見つめていた。
◇◇
十一月。
今日は検査の日。点滴が外れた今のうちにということで、セツがぼくを連れ出したのは見晴らしのいい入院病棟の屋上だった。
「冷えるから少しだけ。久し振りの外の空気は、すっきりするだろう?」
「ありがとう、セツ」
蛍が買ってくれたストールを肩に掛け、ぼくは鈍色の空を見つめていた。
数日後に放射線治療を控え、振り返るのは思い出の日々。蛍と出会ってからのこと。
蛍はお医者さんとお話し中。難しい表情だったから、ぼくの具合はきっと良くないんだと思う。
冷たい風の中に、微かに雨の匂い。
「セツ」
キスした辺りから名前で呼ぶようにせがまれ、そう呼ぶようにした。
「……なんだい?」
蛍がやって来て、殆どの仕事を取られたセツはご機嫌斜め。定時で帰れるようになったのは、彼女にとって良いことではないようだ。それでも、このときのセツは名前を呼ばれて嬉しそう。
今にも泣き出しそうな空を見つめたまま、言った。
「ぼく、もうすぐ死ぬと思う」
「……っ」
自分のことだ。ぼくにだって、それくらい分かる。何より、蛍に最適解がない。そろそろ潮時だった。
副作用を伴う強い薬。悪い細胞と共に健常な細胞を破壊する特殊な治療。そもそも体力がある方じゃない。頑張った方だ。ぼくは自分でも納得していた。
「今まで、ありがとう」
「……」
ぼくを病院に連れて行ってくれたのはセツだ。その後も蛍が来るまでの間、随分世話になった。
吐瀉物の始末や排泄物の処理。セツは嫌な顔一つせず、献身的に尽くしてくれた。渾名で呼んでしまっていいほど、彼女は気軽な存在じゃない。キスだってしてることを考えると、武田節子という女性は蛍に次いで親密な関係。
「セツが居なかったら、ぼくはもう死んでたと思う」
「……」
セツは顔を歪ませて、怒っているのか泣いているのかよく分からない表情。吐き出す息は震えていて。
「みぃちゃん……」
鬼の居ぬ間の僅かな逢瀬。
セツは真剣にぼくを好いていてくれる。きっと、ぼくが求めれば、彼女は何だってしてくれるんだと思う。
「セツに一つお願いがあるんだ」
「……なに?」
「蛍のこと。ぼくが居なくなったら、きっとおかしくなっちゃうから」
ぼくを好いてくれているセツには残酷なお願い。でも、こんなことは彼女にしか頼めない。
「……」
蛍の名前が出てきた途端、セツはムスッとした表情になった。そのとき――
――ぽつり、
と一雫の雨が降ってきて、ぼくを濡らした。
「……!」
ハッとしたセツが駆け寄ってきてぼくを抱き締めた。
「……蛍に見つかるよ?」
「君を濡らす訳に行かない。ケイも分かってくれるさ」
掠れた声で囁く唇が、ぼくの唇と重なるその寸前で――
「――いいや、分からないな」
屋上の半開きになった扉に凭れ掛かるようにして、半目の厳しい表情でぼくらを見つめるのは、秋月蛍。
言った。
「セツ、お前はクビだ」
霙混じりの、冷たい雨が降っていた。
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