第3話 セツは、それを不快に思う
小さい頃から、大抵の事はできた。
勉強をすれば最低でもクラスで三番目くらいにはなれたし、運動をすれば男子にだって負けない。
だが、どれも一番にはなれなかった。
天才ではないが秀才ではある。節子をそう評したのは本家秋月家の当主である秋月和修だ。
節子は難しく考えることを嫌う。
例えば、節子の人生は生まれたときから色々と決まっていて、高校生になれば本家に召し上げられ、次代の当主に仕えるための特殊な教育を受けねばならないこと。
不満はなかった。
どうしても嫌なら本家に仕える必要はないと言われていたし、辞める自由も保証されていた。
本家に生まれればこうは行かない。交際相手は勿論、結婚も自由意思なんてものは存在しない。分刻みのスケジュールで動き、生涯本家の繁栄の為に尽くす人柱になる。勿論、辞めることはできない。それに比べれば、自分の人生は随分マシな方だと言えた。
バブルが終わり、経済成長の止まったこの国は今や就職難。一日八時間の労働さえ耐えきれば、後は自由。高給と週二回の休みが保証されていて、社会保障は公務員並みに充実している。親からは、絶対に辞めるなと言われていた。
難しいことは考えない。
長いものには巻かれろ。それが節子の信条だった。
◇◇
秋月和修には正妻との間に四人、愛人との間に三人の子供がいるが次代の当主として抜擢されたのは愛人との間にもうけた三人目の女児だった。
節子はツいていた。
男児なら、そのお目付け役になるだろう女性が性的なものを含め、色々と手解きせねばならないところだったが、女児である為その必要はない。普通に働いていればよかった。なまじ頭がよく、冷めているところもあった節子は、次代の女当主の登場を素直に喜んだ。
いずれ秋月和修の地位を引き継ぎ、本家繁栄の為の人柱になるだろう次代の女当主に引き合わされたのは、節子が十六歳の時だ。
十歳の女児。そう聞いていたが、節子の前に現れたその女児の身長は、十六歳の節子と比べても遜色のないものだった。
実際、黙っていれば、その女児を小学生だと思う者は誰もいなかっただろう。高身長もそうだが、特徴的なのはその目付きだ。
奥二重。目尻がやや釣り上がった白目がちの三白眼。目鼻立ちは整っていて美しいが、それ以上に威圧感がある。
一目見て、節子は理解した。
桁が違う。
生まれが特殊なら、育ちも特殊なのだろう。十歳にして、立ち振舞いは武道の練達者のそれだ。異様に隙がなく、静かだが堂々としている。彼女がランドセルを背負って学校に通っている、というのは、節子にとって酷いブラックユーモアにしか思えない。まあ要するに――
秋月蛍という人間は、既に完成していた。
◇◇
「蛍(けい)だ」
十歳とは思えない、低くハスキーな声は少し嗄(しゃが)れていて重味がある。
「武田節子。セツでいいよ」
節子が笑って答える事が出来たのは、六歳の年齢差から来るつまらない虚勢のお陰だ。
「セツか。……ふむ」
蛍は眼を細めて笑い、その場にいた秋月和修に言った。
「父上殿、彼女に決めた」
秋月和修はこの時七十歳。還暦は既に超えていたが矍鑠(かくしゃく)としており、眼には支配者としての強い輝きがあった。
「ビリッと来たか」
「うん、ビリッと来た。私のお目付け役は彼女以外に考えられない」
「そうか」
このやり取りで、その後予定されていた試験のようなものはなくなった。
武田節子は他の候補者と比べるまでもなく、次代の当主、秋月蛍のお目付け役に任命された。
◇◇
お目付け役。
普段の行動を監視し、取り締まる役柄。またはそういう役職。十六歳になるセツに与えられた役割がそれだった。
「なあ、セツ。お前は強いのか?」
「それなりにはね。試してみるかい?」
分家とはいえ、節子も秋月家に連なる者だ。高度な教育を受けており、そこには護身術も含まれる。しかし……
数分後、秋月家の敷地にある畳敷きの道場で、大の字になって転がる節子の姿があった。
「弱いなあ、セツは。私より弱いお前が、いったい誰を守るんだ?」
「…………」
「盾にするにしても、これじゃ使えない。もっと精進するんだな」
節子は努力しなければならなかった。
長いものには巻かれろ。生まれついての秀才肌と達観ぶりで楽に世の中を渡ってきた節子だったが、十六歳にして往年のツケを支払う時がやって来た。
武田節子はツいている。
なんの話だ?
そう思うようになった。
そこからの節子は大変だった。蛍との間の年齢差は六つあった為、武道以外の事は節子が上を行ったが、肝心の能力は向こうの方が随分上だった。
スポーツカーと軽自動車くらいのハンデがあった。
一を聞いて十を理解するタイプ。秋月蛍は本物の怪物だ。それに加えて『最適解』がある。
――最適解――
秋月家の当主が代々持つと言われている特殊能力。恐ろしい程の閃き、直感、未来予知と呼べるもの。
勘や閃きを必要とするゲームやスポーツで、節子が蛍を上回ることは一度としてなかった。
秋月蛍は全てを持っている。そんな人間の『お目付け役』で居続ける為、節子は本気で努力しなければならなかった。
鍛練の日々が続く。
礼儀作法に始まり、運動や勉強は勿論、資格取得。語学にも堪能でなければならない。それらの日々は、ぬるま湯の人生を送ってきた節子の精神を凄まじい速度で削って行った。
ある日のこと。
「――やってられるか!」
そう言って、我慢の限界を超えたのは蛍の方だった。
「ああ、ふざけている! つまらない! 実につまらない!」
その日の蛍はご立腹。合気道と柔術の師範をこてんぱに打ちのめしただけに飽き足らず、英語とフランス語の講師相手にネイティブの言語で討論し、遂にはこれを言い負かしてしまった。
「私以下のヤツに、私はいったい何を教わるんだ? セツ、答えろ!!」
節子は笑った。
「さぁ、生き方かな? 折り合いの付け方とか?」
「妥協を学べと言うのか!?」
秋月蛍は武断的。必要ないと断じたものには極めて厳しかった。この勘気の強さは現当主の和修も為す術がなく、以降の日々は人間性を配慮した穏やかなものになった。
付き合う形だった節子は内心で安堵の息を吐く。……そろそろ限界だった。
「私は人間だ! 鍛練や修養もいいが度を過ぎている!」
と言うのが蛍の言い分だ。
「しかし、ケイ。和修様の後を継ぐんだろう?」
「ふん、それなりの自由がなければやっていられるか」
そんな蛍は、市井(しせい)の高校に進むらしい。
「これまた何で? 新しい遊びか何かかい?」
「婿取りだ。ピンと来た。私の配偶者は一般人の中にいる」
「へえ……和修様がよく承知したね」
「戦後、財閥が解散されたお陰で父にその余裕はなかったらしいがな。本来はこれが通例だ」
『最適解』を持つ秋月家の当主は直感や閃きを尊ぶ。配偶者選びはその最たるもので、次代の当主になる蛍の判断が優先される。
「そうなんだ。知らなかったよ」
蛍は苛々と言った。
「金も権力も十分ある。感性以外の何で選ぶんだ?」
「ごもっとも」
全てを持った蛍らしい傲慢な答えだったが、その考え方は嫌いじゃない。どうせ仕えるなら人間の方がいい。
節子は笑った。
◇◇
節子が大学を卒業するのと前後して、蛍は自らの宣言した通り、市井の高校に特待生として進むことになった。
「特待生かい? 流石はケイ」
「セツもそうだろう」
「まあね」
節子は蛍がまともに高校に通うとは思っていなかった。飽きて投げ出すか、気に入らない教師か先輩辺りを半殺しにして放校処分にでもなるのが関の山だと真剣に考えていた。
善きにつけ、悪しきにつけ、秋月蛍は規格外だ。まともに勤まる訳がない。
しかし、一週間後。
「セツ、早くも見付けたぞ」
「…………本当?」
「うん。この手に抱いたとき、ビリッと来たんだ。間違いない」
「抱いたって……することが早すぎないかい?」
「馬鹿め、勘違いするな。そういう意味じゃない」
高校入学を期に購入したワンルームマンションの一室で、蛍は全くらしくなく頬を赤くしている。
「調べるかい?」
「まさか。ちゃんと段階を踏んで本人に教えてもらうさ。余計なことはするなよ」
そこからの秋月蛍は、実に人間らしくなった。
「セツ、ああ、セツ! 聞いてくれ!」
「また御影くんのことかい?」
「ヤツの事以外で、私がこんなに腹を立てた事があるか!?」
「ないね」
「あいつは凄く生意気なんだ! それだけじゃない! 偏屈で実に気難しい!」
蛍はかんかんに怒っていたが、節子の目には、その怒りすら楽しんでいるように見えた。
「でも、すごく可愛いんだろう?」
「相手の容姿を気に入るかどうかは、とても重要な要素だ」
「性格が気に入らないと」
「ああ、いつか調教してやる。言葉遣いから徹底的に仕付け直してやる」
「…………」
節子に恋愛の経験はない。しかし、大切に思う者が特別な事情で性質を変える事があったなら、例えそれが短所であったとしても、節子はそれを不快に思う。
「……まあ、ほどほどにするんだね」
この時の節子は、蛍が本当にそうしてしまうとは思わなかった。思わなかったのだ。
◇◇
十七歳の春、秋月蛍が深刻な表情で言った。
「……セツ、そろそろ御影に告白しようと思うんだが、どう思う」
「どう思うって……それを私に聞いてどうするのさ。ケイの問題だし、大体の勘は働くよね」
「……自信がないから恥を忍んで聞いているんだ。それから言っておくが、最適解は都合のいい超能力じゃない。てんで働かない時もある」
「知らないね。そもそも、私は御影くんに会った事がないんだ。無責任な事は言えないよ」
「分かった。じゃあ、会わせてやる」
そしてその翌日、節子は御影悠希に会う。
それまでの蛍は一般人に紛れて行動する為、自家用車での送迎は極力避けていたのだが、この日に限っては学校まで直接迎えに来るように命じられた。
「……ケイの最適解か……」
恋愛のことについて聞かれれば、節子は興味ないと答える。十六歳から二十二歳までの六年間、その青春の殆どを鍛練と勉強、資格取得に費やしたのだ。蛍と同じく、節子の感性も普通とは大きく違う。
そんな自分が、どんな異性を好むのか。この時の節子には想像も着かなかった。蛍のことも同様だ。全てを持っている彼女が、どんな異性を好み、どんな恋愛をするのか。まるで想像が着かなかった。
不意に思い出したのは、秋月和修の言葉だ。その日は正月の宴席で、ほろ酔いの和修がこう言った。
「節子と蛍はそっくりだ。本当によく似ている」
あんな怪物と一緒にされたら困る。その時の節子は苦笑いを浮かべるだけに留めたが、内心では舌を突き出してやりたい思いだった。
御影悠希の第一印象は――
その少年を見たとき、節子はとにかく焦った。
「ケイ! ケイ……! 無理が有りすぎるよ!」
節子の目に、御影悠希は小学生にしか見えなかった。
「詰襟着せたってこれは無理だよ! 犯罪だ!!」
蛍にまさか小児性愛の趣向があったとは思わなかった。お目付け役として、これを見抜けなかったのは手落ちとしか言いようがない。
「た、大変だ……!」
慌てる節子を見て、蛍は腹を抱えて笑った。
「御影、言っただろう? 賭けは私の勝ちだ。剣道部のマネージャーになってもらうぞ」
「むう……」
長めの髪は陽の光を受けて煌めいて見えた。白い肌。長めの睫毛。強く幼さの残る風貌は節子の目に酷く儚げに映った。
肩を落とし、少年は落胆して言った。
「ぼくは十七歳だ」
「は?」
「耳が遠いの? パンチ入れていい?」
「いいよ」
答えたのは蛍だ。笑いの発作が治まらないようで、腹を抱えたままでいる。
「御影、鳩尾を狙うんだ。下から突き上げるように打つといい」
「……冗談だよ」
「そうなのか? 私が代わりにやってあげようか?」
「……」
まさかの合法ショタに絶句する節子だったが、流石にだんまりはよくない。
何とか言葉を押し出した。
「か、可愛いね。お人形さんみたいだ……」
対する御影悠希は口をへの字に曲げた。
「蛍と似たようなこと言ってる……」
愛らしく小さい鼻の頭に皺を寄せて言った。
「その手の趣味の人は嫌いなんだ。もう帰っていいよ」
いよいよ耐えきれなくなったのか、蛍は手を打って笑い倒した。
「…………」
節子はまた絶句した。蛍がこんなに笑う所はプライベートでも見たことがない。
改めて少年を見る。
容姿はずば抜けているように思う。瞳は生意気そうにも見えるが知性の輝きも感じる。だが言ってしまえばそれだけだ。あの秋月蛍が選ぶ異性に相応しいとは思えない。特別な人間には見えなかった。
だが、秋月家の伝家の宝刀である『最適解』がこの少年を選んだ。だとすると明確な意味がある。それが分からなくて、節子は内心で首を傾げた。
これが武田節子と御影悠希の出会いだ。
◇◇
それからというもの、蛍に遠慮はなくなった。登校の送迎は勿論のこと、休日時の外出にも、節子は容赦なく振り回されることになった。
「ちょ、ケイ。学校の皆にバレてもいいのかい?」
たとえ素性は分からずとも、高校生の身の上で運転手付きの自家用車を所持する以上、ただ者ではないことは一目瞭然だ。
「ああ、それならもういいんだ。御影は何とも思ってないようだし、特に問題はない」
「そうなんだ」
婿取りが主な目的の蛍にとって、それはごく当然の主張でもあった為、節子はその判断を是とした。
そして、蛍の小さい同伴者はかなりの頻度で節子の前に現れた。
「おはよう、シンゲン」
「……シンゲン? ああ、武田……」
偶々同じ姓なだけで、勿論、戦国武将、武田信玄と節子の間には何の関係もない。
(子供のすることだ)
節子は咎めることをせず、悠希の呼びたいようにさせた。
「……シンゲンの持ってるチョコバーって、何処で売ってるの?」
「ひみつ」
少し気難しいところもあるが、甘いものには滅法弱いということを知っているのは節子だけだ。
(子供だ)
だが、最適解がこの少年を選んだ。
秋月家の伝家の宝刀『最適解』は、三階建ての古い木造アパートに父と二人で暮らすこの少年を、秋月蛍の配偶者として選んだのだ。
だとすると、少年と蛍は二人で一つ。それが最適解になる。この世の殆ど、全てを持っていると言っても過言ではない秋月蛍と、自分だけしか持たない少年。ある意味、完結しているようには思う。しかし……
御影悠希が、全てを持つと言っても過言ではない秋月蛍に差し出せるものはなんだ?
何もないような気がした。
◇◇
月日は流れ、蛍は高校三年生になった。
その日、蛍が宣言した。
「セツ、時は満ちたように思う。私は御影を手に入れる」
「……そう。いいんじゃない?」
大したもんだと節子は思った。
天才だが破天荒を地で行く蛍が高校三年間を勤め上げようとしている。いずれ飽きて投げ出すだろうが、それだけでも御影悠希には存在の意味があるように思った。
この時は。
そして蛍は自ら宣言した通り、悠希との交際を開始した。
「……おはようございます。武田さん」
「武田、さん?」
悠希が変わった。
慣れ親しんだ呼称は敬称に変わり、子供だった態度は礼節を踏まえたよそよそしいものになった。
戦国武将の名で呼ばれることはなくなった。チョコバーをたかられることもない。
節子はそれを、不快に思う。
この変節に、蛍は笑ってこう言った。
「あいつは父親が弱点なんだ。ウチの所有する会社に勤めることになっただろう? ころりと変わったよ」
「……それは、いいのかい?」
「ああ、とてもやり易くなった。今のあいつは私の奴隷同然だ」
「…………」
節子はそれを、不快に思う。
御影悠希が、全てを持つと言っても過言ではない秋月蛍に差し出せるものはなんだ?
「なぁ、みぃちゃん。ケイのこと、本当に好きなのか?」
「うん」
節子はそれを、不快に思う。
「ぼく、何も持ってないから。だから頑張るんだ」
「…………」
節子はそれを、不快に思う。
「なぁ、ケイ。愛って知ってるか?」
「唐突だな、セツ。悠希とのことを言ってるのか? 心配しなくても、私たちは上手くやっている」
「あの子は、愛だけを頼りにお前の所にやって来たんだ。自分しか持たずにやって来たんだ。本当に分かっているのか?」
節子はそれを、不快に思う。
「ケイ、お前はあの子に全てを与える義務があるんだよ」
なんで出し惜しみするんだ?
愛について聞かれれば、節子は知らないと答える。だが人間として生きてきたつもりだ。目には見えないが、それが確実に存在することを知っている。
「なぁ、ケイ。あの子は不器用な子なんだよ」
秋月蛍は、この世の殆ど全てのものを持っている。だが唯一、蛍が持たないそれを、少年は小さい身体に携えてやって来た。
御影悠希と秋月蛍は、二人で一つが最適解。当たっている。
だが、節子はそれを不快に思う。
「なぁ、ケイ。あの子は、お前を愛しているんだよ」
なんで、分かってやらないんだ?
この世界で、愛のない者だけが唯一完全でいられる。
節子は、その事を知っていた。
「ケイ、お前にあの子は勿体ないよ」
節子は蛍を不快に思う。
「なぁ、みぃちゃん。辛いときは私を呼んでほしいんだ」
もし、その名を呼ばれたならば、哀れな召し使いは己の殻を突き破り、空を飛ぶ魔法使いにだってなるだろう。
愛だけがそれを可能にするのだ。
武田節子は難しく考えない。理屈ではなく、肌でその事を知っていた。
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