第5話 永眠りにつく前に……
冬の冷たい雨が降っている。
ぼくを抱き留めたまま、振り返るようにして蛍を睨み付けるセツは、激しい怒りに眦が釣り上がっていた。
「クビだって……?」
「ああ。悠希を離してこの場から消えろ。それで勘弁してやる」
肩に掛かったストールを深く被り直し、険しい表情を向ける蛍を見つめ続けるぼくを、セツが一段と強い力で抱き締める。
どうでも良さそうに言った。
「クビでいい。でも、みぃちゃんは連れて行く。ここにいて苦しみながら死ぬよりよっぽどいい」
「……」
「ケイ、愛って何だか分かるか? お前は何処までみぃちゃんを苦しめたら気が済むんだ?」
蛍は答えない。答える必要がない。秋月蛍の『愛』は、この世界でぼくだけが理解していればいいことだ。セツは全然関係ない。
ぼくは、セツの抱擁を振りほどいた。
「――!」
セツはぼくを好いてくれている。『死んでいく』ぼくを好いてくれている。だから――
――BYE-BYE、セツ。
ぼくは明確な自分の意志で、蛍に向かって歩き出した。
「みぃちゃん……!」
懇願するようなセツの呼び掛けには聞こえない振りをして、ぼくはただ、蛍の瞳だけを見つめ続けた。
これが当然。そう言わんばかりに蛍は鼻を鳴らし、歩み寄ったぼくを抱き締める。
「少し濡れてしまったな。早く病室に帰ろう。ここは……あまりに寒い」
蛍の傲慢とも思える、残酷で真っ直ぐな愛は、『生きた』ぼくとの明日を望んでいる。例えそれが、ぼくを苦しめることになろうとも。
優しいだけが愛じゃない。
「みぃちゃん……」
霙(みぞれ)の混じる冷たい雨の中、セツが伸ばした手が虚しく宙を掻く。
さようなら、優しい人。
あなたに会えて、本当によかった。
◇◇
セツをクビにしても、この日の夜の蛍はおかんむり。
「悠希、お前は少し隙がある。……待て! 寝たままでいい、そうだ。適当に聞いておけ」
説教されているのに、ベッドで寝転んだままのぼくは妙な気持ちになった。
「以前から思っていたが、お前はチョロいところがある」
蛍は泊まり込みでぼくの看病をしているけど、顔色はここに来る前よりずっといい。難しい表情で腕組みしたまま言った。
「セツがお前に気があることは知っていた」
そして蛍は、献身的だからという理由で、そういう女性をぼくの側に置き続けるほど寛容じゃない。
「でも、そうだな……」
次の瞬間、蛍は噛み付くようにしてぼくの唇にキスをした。
無遠慮に舌が口控内を這い回り、唾液を吸い上げて飲み下す。
「……んっ、ふ……ぅ……」
鼻息も荒く。味わい、確かめるような長いキス。五分ほどもそうして、漸く離れた蛍は、腰砕けになりながら背後の椅子に腰掛けた。
「……混ざり気なし。うん、赦そう……」
セーフ。内心で冷たい汗を流すぼくの横で、蛍は、ぼんやりと呟いた。
「……お前が少しでも、ほんの僅かでも振り返ったなら……」
――絶対に許さなかった。
「まぁ、いいさ……私は寛容な女なんだ」
セツがぼくを好きでいる限り、これはあり得ない話じゃない。こうなる予感はしていた。そしてぼくに残された時間は少ない。
愛って、結構残酷な感情。
優しいだけじゃこの気持ちを貫くことはできない。
ぼくは、セツのことを考えないようにした。
◇◇
ぼくと蛍だけになり、新しい生活が始まった。
以前より忙しくなる筈の蛍だけど、セツの後任は置かない方針。
「……漸く二人きりになれた。もっと早くこうしていれば……」
ぼくの青春と呼べるものがあったとして、その全てのページに秋月蛍が存在していた。
蛍の言うとおり、ぼくらは漸く二人になれた。
「蛍、キスしたい、です……」
「うふふ……いいよ。しょうがないなあ、お前は」
蛍は嬉しそうに笑って、うんと長めのキスをしてくれた。
◇◇
朝も昼も夜も、蛍と数え切れないぐらいのキスをしている。
「早く病気を治せ。お前の作った料理が食べたい」
「……がんばります……」
ぼくは段々と疲れやすくなり、長く話せなくなったけど、その分、蛍は饒舌になった。
「私の好きな人が、私を思って、私の為に料理を作るんだ。こんな贅沢は他にない」
「…………はい」
気が付くと、いつも蛍は泣いていて。
「……すまない、本当にすまない……。お前に辛く当たったなぁ……私は、私ぐらい嫌な女を他に知らないよ……」
「……」
「お義父さんが怒るのも当然だ。なぁ、悠希……」
蛍が何か言っているので、ぼくは小さく頷いておいた。
「なぁ……私は、どうしてお前に愛されているんだ? 本当は分からないんだ……」
「……?」
蛍が何か言っているけど、ぼくは疲れていて、話の内容は半分も頭に入って来ない。
「私はどうやって、お前に笑顔を与えていられたんだ……?」
蛍が何か言っている。ぼくはとにかく疲れていて……
「……なぁ、また眠ってしまったのか……?」
涙を流す蛍が唇を寄せて来て、この日はもう何度目になるか分からないキスを交わす。唇を割って入ってきた舌が宛もなく口の中をさ迷い、躊躇いがちに出て行った。
「……あいしてるよ」
「……」
意識に、眠りの帳が降りる。
◇◇
十二月。
ぼくの病状は芳しくなく、蛍は右手の爪を三枚噛み千切った。セツが消え、看護の負担が増えたことは関係ない。そのこと自体、蛍は喜ばしいことだと考えている。
「悠希、お前の病気は治る病気なんだ。なぜ……」
放射線による治療も投薬も、一定の効果はあるけどそれだけだ。快方に向かうことはない。ぼくの衰弱が進むにつれ、蛍の焦りと苛立ちは強くなった。
「蛍……こっち……」
自らの死を控え、ぼくの心は透き通る湖面のように澄み渡っている。四枚目の爪を噛み千切ろうとしていた蛍をベッドの上で抱き寄せ、お腹に触らせる。
「……どうしたの?」
左手でぼくのお腹を擦る蛍の目玉はギョロギョロと忙しなく動き回り、傷付いた野生の獣を連想させた。
「……物凄く痛い。でも、こうすると少しだけ気が紛れるんだ」
「……そう。もっと、ぼくに触っていいよ……」
「今にも壊れそうなものに、気安く触れない」
そう言ってまた爪を齧ろうとする蛍の口には、ぼくの指を突っ込んでやる。
「噛んでいいよ……」
「噛まない。私をなんだと思っているんだ」
話して少し気が紛れたのか、蛍は眉を下げ、困った表情になった。
「なあ、悠希。その……とてもしんどそうだ。大丈夫か?」
「…………何か、言った?」
「聞こえないのか……?」
「……ん、なに?」
ぼくを撫で回し、お腹に頬を押し付けても蛍は落ち着かないようで、頻りに目を動かし、唇を噛み締めている。
「ねえ、けい……」
ぼくが呼び掛けると、蛍はビクッと震えた。
「ぼく、そろそろ限界かも……」
「…………」
蛍の忙しなかった目の動きが止まり、たちまち大粒の涙が浮かんだ。
「ぼくが……」
最近のぼくは何をするのも億劫で、喋ることすら時間が掛かる。
「居なくなっても……」
深呼吸して、少し休んでから途切れがちな言葉を紡ぐ。
「妙な気は……起こさないでね……」
「そんなに弱くない。私は強くて頑丈なんだ」
「そう……よかった……」
蛍の目は洪水。蛇口を捻ったみたいに涙が溢れていて、人ってこんなに涙を流す生き物なんだって、少し感心してしまう。
もう……
ぼくは……
行ってしまっても……
目蓋が重い。今ならよく眠れそうだ。
ぼくは深く大きな溜息を吐き出す。眠りに落ちるその瞬間――
蛍が悲鳴を上げた。
「あああああ!! 寝るな! 寝るな悠希! 今眠ったら許さない!」
暗い場所に吸い込まれそうだった意識が急速に覚醒する。
「そうだ、いいぞ! 気をしっかり持て!」
ぼくの中には、まだ命が残っているみたい。もう少しだけなら頑張れそうだ。
あぁ、まだ言ってなかった。
「……あいしてる」
「馬鹿め! 今言うヤツがあるか!!」
今にも眠ってしまいそうなぼくに馬乗りになり、蛍が襟首を揺すぶる。
「気合いを入れろ! ああ、そうだ、お前はいつも気合いが足りないんだ!」
蛍はもう、本当にうるさいしつこい。優秀で強いのは認めるけど、脳みそが筋肉で出来てるのだけは頂けない。
――死神だって逃げ出すよ。
◇◇
命って不思議。
蛍は抱き枕にするみたいに全身でぼくに抱き着いて、ぎりぎりと歯を鳴らしている。
「どうだ、まだ眠たいか……!」
「降参……降参……」
命って不思議。むきになった蛍を見ていたら、何だか少し元気を分けて貰った気がする。
蛍の顔は、涙と鼻水でぐじゃぐじゃだった。
全力で死神からぼくをもぎ取った。そんな感じ。
「今、凄く嫌な予感がしたんだ……」
やっぱり蛍も泣き虫さん。
「お願いだ。何でもする。だから私を独りにしないでくれ……」
ぼくにすがり付き、蛍は泣きじゃくった。
ぼくはまだ大丈夫。
でも……状況が好転した訳じゃない。溜息を吐き出し、窓の外に視線を向けると、鉛色の空は雪がちらついていた。
◇◇
翌日、蛍は、ぼくの治療の中断を宣言した。
「薬も放射線ももうやめだ。これ以上は、お前の決定的な何かを破壊してしまう」
宿命のように貼り付いていた点滴が外され、毒に似た強い薬を飲むことはなくなった。せいせいする。しかし――
これよりタイムリミットあり。
ぼくの体調は僅かに回復するけど、その後は病状が進行するだけ。死神の足音が迫る。
「何故……どうしてだ……」
四枚目の爪に齧りつきながら、蛍は脂汗を流して焦っていた。
――最適解はない。
ここまで粘り、全神経を尖らせて解(こたえ)を探し続けた蛍だったけど、遂に時間を区切った。
この一週間後、お医者さんは、ぼくに退院していいと言った。
◇◇
十二月。
五ヶ月振りに蛍のワンルームマンションに帰った。
蛍は片時もぼくから離れない。
「その、お義父さんに会いに行かなくていいのか……?」
ぼくは男だ。自分でやってることに、一々父さんの許可はいらない。頷いて見せると、蛍はホッとしたのか、大きな溜息を吐き出した。
「そ、そうか。お義父さん、凄く怖いから……その、良かった……」
父さんとは連絡を取ってない訳じゃない。ただ、ぼくはもう、自分の道を選んだだけだ。
これより先、最期の時間。
余人は立ち入るべからず。
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