第6話 最適解

 ――なぁ、ケイ。愛って知ってるか?


 八年間、家族のように共に過ごした者の言葉だ。


 愛。

 その対象をいとおしく思うこと。大切に思うこと。掛け替えのきかない何か。形而上の通念。


 ――あの子は、愛だけを頼りにお前の所にやって来たんだ。自分しか持たずにやって来たんだ。本当に分かっているのか?


 実は、よく分からない。

 それを向けられている自分のことが、よく分からなかった。


 ――お前は、あの子に全てを与える義務があるんだよ。


 分かっている。でも、簡単に与えてしまったら面白くない。有り難みが失せてしまう。


 だから、少しずつ与えようと思った。


 そうしたら、長く愛して貰える。


 ――なぁ、ケイ。あの子は不器用な子なんだよ。


 分かっている。その不器用で不格好な愛を、どうしようもなくいとおしく思う。誰にも渡したくない。いつでも一番に愛されたい。


 ――なぁ、ケイ。あの子は、お前を愛しているんだよ。


 いつでも一番。


 私が一番。


 とても、大事なことだ。


◇◇


 父が秋月家の所有する会社の一つで働くようになり、あいつは私の奴隷同然になった。

 以前は、しょっちゅう喧嘩していたが、それもなくなった。


「悠希、今日は私の家に泊まっていけ」


 率直に、セックスしたいと思った。私も年頃だし、そういうことに興味がないと言えば嘘になる。


「はい」


 打てば響く。肯定の返答は短く虚飾がない。それも好ましい。

 溺れるだろうな、と漠然と考える。でも、生涯の伴侶相手にそうなって何が悪い。


 その晩、私たちは結ばれなかった。


 その次の日もその次の日も。


 次第に私の自信は萎えて行った。私が一番。いつでも一番。そんな風に考えられなくなった。


 私は悠希に辛く当たるようになった。ベッドから出ていくように命じ、時にはきつい罵声を浴びせた。


 悠希が罵りの言葉に悲しそうにしている顔を見ると、私も苦しい。傷付けているはずなのに、何故か自分が傷付いているように思った。


 悠希が居なくなったベッドはやけに広く、冷たいように感じた。


◇◇


 悠希が病気になった。

 死病の一つに数えられるとても重い病気だ。でも――


 私の中の最適解は、治る病気だと告げていた。


 だから侮っていた。そんな不幸な物語は、可哀想な他の誰かの物語だと思った。

 私の物語は違う。

 これは二人の愛をより高める為の、ちょっと難度が高いだけのイベントに過ぎない。そんな風に考えた。二人の時間を濃くする為のものに過ぎないと。


 悠希の父は、ひたすら怖かった。私から悠希を取り上げることができる者は、彼以外にいない。悠希も彼の言葉なら容れる。


 悠希が、誰の為に奴隷同然になってまで私に尽くしたのか。


 そう思うと、どうしようもなく怖かった。恥も外聞も何もない。床に頭を擦り付け、必死で謝った。父、和修が知れば情けなく思うだろう。それすら、この時の私はどうでもよかった。


 ――なぁ、ケイ。愛って知ってるか?


 結局……私を許したのは悠希だ。

 悠希の父は、命が尽きるその日になっても私を許さないだろう。


 ――なぁ、ケイ。あの子は、お前を愛しているんだよ。


 何も分かってなかったことに気付き、私は子供のように泣くことしか出来なかった。


◇◇


 セツはいつも怒っていた。


「なぁ、ケイ。もっと一緒に居てやれないのか?」


 悠希を守る為には秋月家の権力や財力が必要。この時の私はそう考えた。

 でも、何処か違うように思ったのも事実だ。

 例えば、悠希に金や権力を与えたとしても、喜ぶ姿が想像できない。悠希が必要としているのは、秋月家の秋月蛍じゃない。私自身だ。それは胸を張って言える。


 ……秋月家の権力や財力を守る為に、私は掛け替えのない『何か』を犠牲にしている。


「今さら何を勉強するのか知らないけど、まぁ頑張れ」


 セツの嫌味に、私は何も答えることが出来なかった。


 でも悠希は分かってくれた。残って頑張れと言ってくれた。


 だから、間違ってないと思うことにした。


◇◇


 独りの時間は、想像していた以上に私の神経を削った。


 私の為だけに用意された食事がない。


 苛ついた時に触る柔らかいお腹がない。


 ないないないない何にもない。


 私の部屋には、私の為のものが何もない。


 週末病院に訪れる度に、悠希は小さくなって痩せて行く。みるみるうちに痩せ衰えて行く。

 私の大切な人は病んでいて、何よりも私を必要としているのに、私はそれ以外のもののために力を尽くしている。

 酷い冗談だった。

 漸くそれに気が付いたとき、私は全てを放り出して、悠希の下へ向かった。


「邪魔すれば殺す」


 父にはその一言で済んだから、喧嘩はしてない。穏便な話し合いの帰結。簡単なことだったから、セツが怒るのも無理ないように思った。


◇◇


 良かれと思ってしたことだが、私はとんでもない失敗をやらかした。


 なんだか、セツと悠希の距離が近くなっている気がする。


 悠希は気難しい質だが、割とチョロい所もある。知らない女に呼ばれたからといって、のこのこ付いていった事も一度や二度じゃない。実際、婚約するまでは気を揉んだ。


 私が一番じゃないと気が済まない。そして悠希に二番はいらない。


 近いうちに、必ずセツをクビにしようと思った。


 この時の私には、そんなつまらない事を考える余裕があった。私が居れば全て上手く行く。悠希の身体も必ず良くなる。直感だけを頼りにそう思い込んでいた。


◇◇


 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?


◇◇


 ――あの子は、愛だけを頼りにお前の所にやって来たんだ。自分しか持たずにやって来たんだ。本当に分かっているのか?


◇◇


 セツに代わり、付きっきりの看護をする事になった。この命ある限り、真心を尽くそうと思っていた。


 悠希の身体は傷だらけだった。


 セツに説明は受けていたから、私は平気だった。身体を拭いてやっている間、悠希は震えていた。


「……ごめんなさい……見ないでください……嫌いにならないでください……」


 私は平気だった。だから、悠希も平気なものだと――


◇◇


 ――ケイ、お前はあの子に全てを与える義務があるんだよ。


◇◇


 私は、他人より強く頑丈で優秀に出来ている。完璧、或いはそれに準ずる存在だと自負している。


「お願いします……今のぼくを見ないでください……」


 痩せ細った身体を震わせ、悠希は泣いていた。


 この世界で、愛のない者だけが唯一完全でいられる。


 その日、セツが言った。



「ケイ、お前にあの子は勿体ないよ」


「……私も、そう思う……」



 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?



 真心を尽くすことを誓いますか?



 私は愛されている。世界の全てにそれを誓ったっていい。


 真心を尽くすことを誓いますか?


 真心を尽くすことを…………


 私は、これほどの愛に、差し出す対価の持ち合わせがない。


◇◇


 セツをクビにした。


 悠希が居れば、他にもう何もいらない。せめて私は、私の愛に従順でいようと思う。それ以外のやり方は知らない。


「蛍、キスしたい、です……」


「うふふ……いいよ。しょうがないなあ、お前は」


 笑ってくれた悠希を見た私は堪らなくなって、いつもより長いキスをした。


 このまま、時間が止まればいい。


 そんなつまらない事を考えた。


◇◇


 悠希が治らない。

 考え得る限り、最高の医者、最高の薬、最高の治療方針。私の中の『最適解』は変わらず囁く。


 必ず治る、と。


 悠希は疲れやすくなり、極端に無口になった。一日の殆どを眠って過ごし、起きていても物事に関心を示さないようになった。

 日に日に、命が壊れていく。


「……すまない、本当にすまない……。お前に辛く当たったなぁ……私は、私ぐらい嫌な女を他に知らないよ……」


 私は泣いてばかりいて。


「なぁ……私は、どうしてお前に愛されているんだ? 本当は分からないんだ……」


 唇を重ねると、忍び寄る明確な死の味がする。


「……あいしてるよ」


「……」


 私はその日、己の無力に耐え兼ね、右手の爪を噛み千切った。


◇◇


 12月


 悠希が死んだ。

 深い溜息を吐き出し、ゆっくりと瞼を閉じたその一瞬、死神の手は確かに悠希を捕らえた。

 瞬間、強い稲妻が全身を打ち、私は悲鳴を上げた。


「ああああああああ!! 駄目だ! 悠希、寝るな!! 今眠ったら許さない!!」


 最適解が強く訴える。今この瞬間、全力で呼び掛けねば悠希は帰って来ない。

 形振り構わず叫び、呼び掛けると、悠希は面倒臭そうに瞼を上げ、消え入りそうな声で囁いた。


「あいしてる……」


 最期の言葉なんていらない。


 この日、一瞬だったが、確かに悠希は死んだ。


◇◇


 私の判断は、病より先に治療が悠希を殺すという皮肉な結論に達した。医師の強い勧めもあり、悠希の治療を断念した。

 頭の中はグシャグシャだった。


 ――なんでこうなったんだ?


 悠希の病気は治る病気だ。最適解を考慮せずとも、克服することができる病気だ。実際、六割から七割の者が快方に向かう。


 どうせ治らない、と言ったセツの言葉を思い出した。


 何故、治らないとされる三割から四割の間に、悠希が入ってしまう事を知っていたのだろう。


 弱気になり、セツに連絡した事は悠希には言いたくない。


「……セツか? 悠希が死にそうなんだ」


『……』


 電話で久し振りに話したセツは、クビにされた事を怒っているのか無言だった。


「なあ、セツはこうなるって分かってたんだろ? なんでだ?」


『……ケイ、まだ分からないのか?』


「分からないから、こうして電話しているんだ」


『……っ』


 電話の向こうから伝わってきたのは強い怒り。そして躊躇い。それから……苦悩。

 酷く冷淡に、セツが言った。


『もう手遅れだよ』


「……」


『お前のせいで、みぃちゃんは死ぬんだ』


「…………」


 セツは泣いていた。

 何度も嗚咽を吐き出し、苦しそうに呻いた。


『……難しい病気だ。必死で戦って、それでも半数近くが助からない。みぃちゃんは、ずっと一人で戦って……お前のことばかり楽しそうに話して……』


 ――私が一番。


『……お前は自分の都合を優先させて……』


 ――いつでも一番。


『……なぁ、みぃちゃんは、ずっとお前を必要としていたんだよ……』


「……だから、今はもう……一緒にいる。片時も離れない……」


 嗚咽を吐き出すセツは、悔しそうに言った。


『なぁ、ケイ。話を真面目に聞いてるか? 難しい病気なんだよ。ただでさえ発見が遅れたのに、手抜きしちゃ駄目だろう……?』


「わ、私は……そんな……」


『……お前が居て、みぃちゃんが居て、二人で精一杯戦って、それでもどうなるか分からない病気なんだよ……みぃちゃんだけに戦わせちゃ駄目だろう……?』


 血を吐くように、セツが言った。


『……なんでお前なんだ……?』


「……」


『お前、強いんだろう? 賢いんだろう? 何でもできるんだろう? なんで、本気を出さなかったんだ?』


「……」


 最初から最後まで二人で力を合わせ、油断せず戦い抜き、それで何とか勝利を拾う。これはそういう病気だ。治せる病気だ。


 治る病気だった……。


 漸く理解した。


 私は、最適解(こたえ)を見送った……。


 道理で、治らない訳だ……。

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