最終話 二人で一つ

 世界は、悲しい涙で構築されている。


 治療を止めたぼくの身体は皮肉なことに回復している。

 死へ繋がる階段の一歩を踏み締める。


◇◇


 ――あいしてるよ。


 ――はい、わかってます。


◇◇


 帰ってからの蛍は、ひたすらぼくの話を聞きたがった。


 ぼくには結構な量の秘密があったんだけど、それはもうどうでもよかった。

 だから、全てを蛍に話してしまう。ぼくの全てを蛍に渡して、それから行ってしまおうと思った。


 生まれたときのこと。


 生まれたときの体重は2350グラム。少し小さかったぼくは、保育器に三週間ほど入っていたらしい。

 そのとき、ぼくの握り拳はお医者さんの親指と同じ大きさだったみたい。


 目尻を下げた蛍は少し腰を浮かせ、目を左右に泳がせた。


「だ、大丈夫なのか? そんなに小さい人間が、ちゃんと生きて行けるのか?」


 ――少し、イラッとした。


 ちなみに、蛍が生まれたときの体重は5730グラム。ぼくの倍以上ある。


「巨大児」


 ぼくが言うと、蛍は額に青筋を浮かべて笑った。


「大きいことはいいことなんだ。大は小を兼ねる」


「……そう。気のせいかも……」


 青筋を立て、ぼくら二人は睨み合う。


「あはは」


「うふふ」


 これまで、蛍とは沢山の数喧嘩してきた。そして同じ数だけの仲直りをした。


 そんなぼくらは凹と凸。ぴったり填まるように出来ている。


◇◇


 ――あいしてるよ。


 ――はい、わかってます。


◇◇


 何をして育ったか。


 八歳より前の記憶は朧気。酷く曖昧で断片的な思い出しかない。覚えていることだけをかいつまんで話した。


 家の斜向かいが教会になっていて、大勢の人たちが唱和する祈りの言葉が聞こえたこと。


 キリエ・エレイソン(祈りの言葉)。


 Joy to the World(諸人こぞりて)。


 蝉の鳴き声。


 そして、神様はこの世界の何処にもいないこと。


 全てを話し終えたとき、蛍は俯き、身体を震わせていた。


◇◇


 ――あいしてるよ。


 ――はい、わかってます。


◇◇


 何が好きか。


 お肉、エビ、カニ、苺の載ったショートケーキ。チーズババロア、タルト、おまんじゅう。美味しいもの、甘いものならなんでも。


 蛍が呆れたように肩を竦めた。


「食べるものばかりだな……」


 そんなことはない。とっておきは――


「お父さん」


「わ、私は……?」


「…………」


「よし、敵が決まったな……!」


 今、ぼくが誰と居ることを選んだか。それが答えにならないだろうか。


◇◇


 ――あいしてるよ。


 ――はい、わかってます。


◇◇


 何が嫌いか。


 ブロッコリー、カリフラワー、七味唐辛子、にんにく、生姜、セロリ、香りの強いもの。


 蛍は天を仰いで嘆息した。


「食べるものばかりで世界を測るのはやめてくれ……」


 そんなことはない。とっておきは――


「お母さん」


「……」


 飢え渇き、奴隷のポーズで這いつくばる庭先で、母さんの歪んだ欲望を満たすだけじゃ終われない。反逆の狼煙を上げたあの日。


 絶対に諦めない。


 生き残ってやる。


 もう一度母さんに出遭えたら、例えそれがぼくのする最期のことになったとしても、ぼくは必ず復讐するだろう。ぼくの中にある最も強い感情は復讐心なのかも。


「…………」


 全てを話したとき、蛍は強い眼差しでぼくを見つめていた。


 ぼくが、やられっぱなしで終わるような性格なら、彼女はぼくを選ばない。


 蛍は、にっこり笑って頷いた。この日一番の笑顔で――


◇◇


 ――あいしてるよ。


 ――うん、わかってる。


◇◇


 家族構成。


 お父さん、叔父さん、お祖父さん。

 叔父さんは小料理屋の店主。座席が九つしかない小さいお店で必死に働いていた。八歳から十一歳になるまでの間、ぼくと父さん、それから父さんの弟である叔父さんの三人で暮らした。


「……叔父さんがいたのか……挨拶に行かないとな……」


「ヘタレなんだ。照れ屋だし、会ってくれないよ」


 お祖父さんはお金持ち。でも、父さんも叔父さんも嫌ってる。守銭奴ってやつ。ぼくも、そんなに好きじゃない。小さい頃、何回か会ってそれきり。叔父さん曰く、


「お祖父さんは寂しい人なんだ。孤独死待ったなし」


「い、意外と毒を吐くな……」


 ぼくは人間だ。天使じゃないから、好き嫌いはハッキリしてる方。


 父さんのこと。


 それはすごく長い話になる。

 虐待を受け、壊れたぼくと父さんの二人三脚。叔父さんが手伝ってくれて、途中からは三人四脚。


 ――悠ちゃん、頑張れっ。


 二人はぼくの応援団。男の癖に、とびきり泣き虫の応援団。


 夏の暑い日。陽炎が燃え立つ道を海に向けて歩いた。

 父さんも叔父さんも泣いていた。


 ――ほら、悠くん頑張れっ。


 ――兄ちゃん、もういい、もうやめよう。見てらんねえ……。


 夏の日差しに焼けたアスファルトの上で、ぼくは這っていた。萎縮してしまった筋肉が引き攣って、全身が猛烈に痛い。


 ――まだだっ、悠くん頑張れっ!!


 ――おお……こんな小さい子どもが何をしたってんだ……


 二人とも泣いていた。男の癖に、涙を流して泣いていた。ぼくの為に、泣いていた。

 そんな二人に応えたくて、ぼくは焼けたアスファルトの上を、必死になって進んだ。立ち上がっては転び、亀のように這ってでも、ひたすら前に。


 優しいだけが愛じゃない。


 まだ途中だったけど、蛍が激しく泣き出してしまったので、ぼくはお話しを止めて、泣き虫さんになった蛍の背中を優しく撫で続けた。

 暫くして、ぼくを見上げた蛍の顔は、涙と鼻水で大変なことになっていた。


「素敵な家族だ」


「それはどうだろう」


 叔父さんは結婚して、自分の家族を持つことになった。だから、ぼくと父さんは親子二人、二人三脚に戻らなきゃいけない。


 ぼくらは男だから、そういうところはきっちり線を引かなきゃいけない。


「そ、そんなものなのか?」


「男だからね。自分の大切なものの為に生きるんだ」


 例えば、今、ぼくが蛍との時間を選んだように。

 愛って、結構残酷な感情。

 一番大切なものの為に、他のものを切り捨てて行かなきゃいけないときがある。

 ぼくが微笑んで見せると、蛍の顔は火が点いたみたいに真っ赤になった。


「あ、あはは……そ、そうか……」


「ぼくの人生だから」


 ぼくは男で、いずれ自分の道に進む。一度決めてしまえば、父さんも男だから文句は言わない。

 蛍は、ポーッとしてぼくを見つめていた。


「……どうかした?」


「あ、いや……なんでもない。なんでもないんだ……」


 何やら口の中で呟いて、蛍は、よく分からないけどしおらしくなった。


◇◇


 ベッドの上で寝転がって、二人。ぼくと蛍。

 蛍は、ぼくの胸に顔を押し付けて、両手で身体のあちこちを撫で回してくる。


「手、痛くない?」


「……うん、大丈夫だ」


 蛍は感心したように言った。


「男と女って、すごいな……」


「何、藪から棒に……」


「……言葉遣いが戻ってる。気付いてるか?」


「駄目?」


「駄目じゃない。結局……」


 部屋の中はとても静か。暖房が少し効きすぎていて、ちょっと暑苦しい。蛍の身体は少し汗ばんでいて、触れ合った肌が吸い付いてくる。


「結局……私は悠希だったら何でもいいんだと思う」


「……そう」


 ぼくは少し眠たくなってきた。


「父に、お前と別れるように勧告された」


「……ぼくも、その方がいいと思う」


 いつも変わらなくていてこそ、本当の愛だ。


 例え、全てを与えられたとしても。


 例え、一切を拒絶されたとしても。


「老い先短い命なんだ。大事にしろと言ってやったよ」


「……」


 ぼくの心臓の辺りに耳を当てるようにして抱き着いていた蛍が、上目遣いに睨み付けてくる。


「蛍……甘えちゃって、ごめんね……」


「……どういう意味だ?」


 四肢を絡めるようにしてぼくにしがみついた蛍は、険しい表情で歯を噛み鳴らした。


「色々……」


 父さんの仕事。辛いばかりの看護の毎日。おそらく、途方もない金額になるだろうぼくの治療費。それでも治らないぼく。


「そんなこと言うな……」


 蛍は目尻を下げ、悲しそうな顔になった。


「私はまだ諦めてない。悠希、お前も諦めるな」


「……うん」


 蛍は右手の五枚目になる爪を噛む。


「日本人なんだ。解(こたえ)は分かっているのに……!」


 最適解。

 古来より秋月家の当主が持つ不思議な力。未来予測。恐ろしいほどの勘の冴え渡り。漫画みたいな話だけど、勘の鋭い人間っていうのは実際に存在する。

 蛍の場合、ぼくには殆ど一目惚れだったんだとか。


 秋月蛍という女性の最適解(ぼく)。


 長くお喋りして、ぼくはちょっと疲れてしまった。


「悠希、まだ寝るな。もう少し話をしよう」


 気が付くと、蛍はまた泣いていて。


「しかし……痩せたなぁ……」


「……」


「セツが毎日言ってた。お前を苦しめるな、もう楽にしてやれって……」


 泣いて泣いてまた泣いて。それでも、蛍の涙は止まらない。


「私は何も答えることができなくて……」


 ぐい、と袖で涙を拭う蛍だけど、拭った端から涙が溢れて頬を伝う。


「……私に、何かできることはあるか?」


「……おさんぽしたい………」


 今にも眠ってしまいそうなぼくの気配を察知したのか蛍は頷いた。


「分かった」


 ベッドを降り、中腰になって背を向ける蛍の身体にしなだれかかり、ぼくは小さく息を吐く。


「軽いなぁ、セツの言う通りだ……」


 新しい涙が床を打つ。


「なぁ、あいしてる……あいしているんだ……」


「…………」


「……お前の母親、殺していいか……?」


「…………」


「それくらいしか、してあげられないよ……」


 そう言って、蛍は激しい嗚咽を洩らした。


◇◇


 蛍の涙は止まらない。

 その蛍に背負われ、ぼくは夜の街を進む。


「……クリスマスの歌、嫌い……」


「そ、そうだったな。すまない……本当にすまない……」


 蛍は寂しい裏通りばかりを選んで歩いた。


「悠希、寝るな。お願いだから寝ないでくれ」


「…………うん、分かってる……」


 ぼくが頷くと、蛍は肩を震わせて静かに泣いた。


「……傲っていた。ここまでのことに、私はどうやって責任を取ればいいんだ……?」


 世界は悲しい涙で構築されている。その涙を全てかき集めたら、奇跡の一つくらい起こせるのかもしれない。


「旅行に行きたい……」


 そんなことを口にしたのは、この湿った雰囲気をなんとかしたかったから。でも――


「え?」


 その一言が、蛍に与えた影響は、ぼくが思っていたよりずっと大きかった。


「旅行……なるほど、旅行……」


 蛍がぼんやりと復唱する。


「日本、韓国、中国、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア……」


 世界の国々の名を呟く蛍の鋭い視線は、尖った月を見つめている。


 唇の端を釣り上げる蛍の顔に不敵な笑みが浮かぶ。


 言った。


「やっと最適解(こたえ)が出た。悠希、アメリカに行こう」


 彼女はいつだって傲慢で、なんだって力で捩じ伏せて来た。運命だけが、死だけが例外なんてことがあるんだろうか。


 地方の優秀な人材は首都圏に流れる。


 では、首都圏で優秀な人材は何処へ向かうのか。



 最適解(こたえ)――世界に羽ばたく。



 ぼくと蛍とは凹と凸。二人、ぴったり填まって一つになるようにできている。

 男と女。二人で一つが最適解。

 この日、最適解(こたえ)を掴んだ蛍が覚醒した。冬の寒気の中、真っ白な息を吐き出す口元は三日月の形に歪んでいる。ぼくという最適解(こたえ)を完全に掌握し、彼女は何処までも進む。


 ――死神だって逃げ出すよ。

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