『本多先輩へ 三分以内に三-三へ来てください』
木の傘
ダッシュ、全力ダッシュ
いや、正確にはたった今できたのだ。本を読み終えたあと、彼はメモに気付いて走り出した。
本多は走りながら、掴んだメモにもう一度視線を落とす。
『本多先輩へ 三分以内に三-三へ来てください』
読書に熱中していた本多は、いつ誰がこのメモを置いたかまるで見当がつかなかった。どうして三年三組に呼び出されたのかもわからない。
わかるのは、このメモを残した人間が今も三年生の教室で待っているかもしれないという事だけだった。
「くっ誰だか知らんが、なぜ口で言わない?」
本多は頼まれたらノーと言えない性格だった。それは正体を明かさず抽象的なメモだけを残して消えるような人物が相手でも同じだった。時間指定に焦り過ぎて読み終えた辞書のように重い本までメモと一緒に持ってきてしまった。とっても走りづらい。
「三分とは、何時何分から数えての三分なのだ?」
瓶底眼鏡をかけ直しながら、やや芝居がかった口調で呟く本多は演劇部ではなく文芸部の二年生。来年は部長として部を引っ張っていくことが決まっている。
「私が部室で本を読み始めたのは午後三時三十分からだ。今はもう午後六時五十五分。メモがいつ置かれたのか全くわからないが、かなり待たせてしまっているのでは? 我が校の最終下校時刻は午後八時だが、それまで私を待つつもりだったりしないだろうか……」
正体不明の差出人を気遣えるくらいには、本多はいい奴だった。いい奴過ぎて、自分が指定の時間に現れなかった事で差出人が損をしていないか心配になった。
「まだ間に合えばいいのだが……」
本多はメモを見つつ、ある事に気付いた。
「もし三-三に私が来る時刻を指定したいのなら、もっと具体的な時刻を書くはず。もしや、差出人は最初から私に時間を守らせるつもりがなかったのでは?」
本多が好むジャンルはミステリーだった。書くのはともかく、本を読みながら主人公と一緒に推理をするのが好きだった。
そんなミステリー好きの血が疼いた本多は走りながらメモを凝視した。
メモは定規を用いて書かれたらしく、文字はカクカクとしている。
「3をわざわざ漢数字で書いたのは、定規だと書きにくいからだろう。差出人は筆跡を隠そうとしている。筆跡で正体が私にバレると思っているのだ。なぜバレたくないのかはわからないが……」
始まりには『本多先輩へ』という文字。
「私の苗字の後ろに『先輩』と付けている。招集場所は三年生の教室だが、先輩が私を先輩と呼ぶ事はないだろう。私は二年生だから、このメモを残したのは一年生」
そこから本多が導き出した答え。
「私が筆跡をよく知る一年生ということは、差出人は文芸部の一年生。ふむ、これで差出人を十人にまで絞り込めたな」
そう呟いた後、本多は思った「これ全然絞り込めてないな」と。
今年文芸部に入った一年生は過去最多らしい。しかも、一人を除いて他は男子だった。文芸部は女子ばかりで肩身の狭い思いをしていたため、突然の男子部員の増員には驚きつつも喜びが勝った。
しかし、七月まで活動を続けたところ、残ったのは女子一人に男子二人だけだった。その男子二人が言うには、
「他の奴ら読書や創作には微塵も興味ないのに、棚倉さんにつられて入部しちゃったんですよ」
「棚倉さんは学年一の、いや、学校一の美少女って噂ですからね。ちなみに、僕らはそういう不純な動機で入部したんじゃなくて、本当に本の読み書きがしたかっただけですからね」
とのことだった。
その情報を思い出した本多は、今日の部活を思い出してみることにした。部室にいた一年生は、
直前まで残っていたのは三年生の部長だけだ。そうすると彼女がメモに気付かないのはおかしい気がする。しかも彼女がメモを残したとすると先程の推理と矛盾が発生する。
「部長は一年生の誰かに頼まれたのだろうか? 部長は真面目な御方だ。もしこれがいたずらだったとすれば、協力したりしないだろう」
そういえば、と本多は思い出した。部長が帰った後、本多は一度だけトイレに行った。が、それはほんの僅かな時間だ。定規で書いたメモなんてそうすぐには作れない。差出人があらかじめ作っておいたメモをこの時間に置いたとしても、部室に戻ったときに本多はメモに気付いたはずだ。
「メモはいったい、いつ現れたのだ……。トイレに行ったのは一時間ほど前で、五分くらいで部室に戻っている。その後、誰も部室に来ていない。そもそも、差出人が私を呼び出す目的は何なのだ――」
階段の踊り場であるものを見つけた本多は足を止めた。
『花火大会 七月十四日 午後七時から』
掲示されたポスターを見た本多の脳裏にある質問が蘇る。
「本多先輩、花火大会にはもう誰か誘いましたか?」
本多は現在の日時を確認した——七月十四日 時刻は午後六時五十七分。
「もし、関係があるとしても……私を三-三に呼ぶ理由は何だろうか?」
頭を捻りながら、本多は階段を駆け上がる。
「それに、どうして三分以内という指定を? 七時までに、と指定すれば済む話では? いや、それよりもなぜ私がこの時間までに本を読み終わるとわかったんだろうか」
またメモに視線を向けると同時に、一緒に持ってきてしまった分厚い本が目に入った。その本に挟まっている緑の紐を見た時、謎が解けた気がした。
薄暗い三-三の教室を開け放つと、中で誰かが動く気配がした。
「ぜぇぜぇ……。まだ、いるかね、棚倉くん……」
窓ぎわの席に座っていた影、棚倉音は立ち上がると壁にかけられた時計を見上げた。時刻は午後六時五十八分。
「早かったですね、本多先輩」
「やっぱり、このメモは君が?」
薄暗闇の中で棚倉がいたずらっ子っぽく笑った気がした。
「よく私だってわかりましたね」
「最初は文芸部に残った一年生のうちの誰かだと思ったのだ。でも、今日君が言っていたことを思い出した。あの時、棚倉くんは私を花火大会に誘ってくれようとしていたのだな」
「そうですよ。でも先輩は『誰も誘ってない。今は花火大会に行くよりもこの本を読みたいのだ』って言うんですもん」
「それは、すまなかった」
本多は苦笑した。
「しかし、私は後輩の誘いを突っぱねてまで本を読むような冷たい先輩ではないぞ」
「わかってます。でも、もし誘って断られたら寂しいじゃないですか……。だから、賭けてみたんです」
棚倉はそう言いながら本多が持ってきたメモに視線を向けた。
「本を読み終わるのが花火に間に合わなくても、メモを無視されても、誘ってフラれたのが匿名の誰かだと思われていれば、私は惨めな気持ちにならなくて済むと思ったんです」
溜め息混じりに、棚倉は続けた。
「それなのに、ここに来る前からバレちゃうなんて……。さすが本多先輩、伊達にミステリー読んでませんね」
「君はこの本に挟まっていた
緑の紐を指で遊ばせながら、本多は推理を口にする。
「メモは、私がトイレに行っている間に本の下に置いたのだろう?
この本は厚く、読んでいるときも机の上に置いたままにしていた。帰ろうと思った私が本を持ち上げたから、メモが突然現れたように見えたのだ」
「何でもお見通しですね」
「そうでもない。部室に誰もいなくなるタイミングなんて、いったいどこで見張っていたのだ?」
「部長が教えてくれたんですよ、今なら本多先輩しか部室にいないよって。
私が部室に戻ったら、ちょうど先輩が部室を出ていくのが見えました。メモを置く場所は決めていたので、その隙に」
「なぜ時刻ではなく、三分以内という指定にしたのだ?」
「もし本を読み終わるのがメモに書いた時間を過ぎてしまったら、先輩は時間に遅れたことを気にしそうだなって……。
だから、敢えてアバウトな時間にしたんです。花火に間に合っても間に合わなくても、来てくれたら間に合った事にしようと思ってました」
実際三分以内の指定に間に合うかどうか気にしていた本多は苦笑いした。
「最後にもう一つ、わからないことがあるのだ。どうして棚倉くんは三-三を指定したんだろうか?」
「これも部長が教えてくれたんです。去年、部長は一個上の先輩とここで……」
言いかけて、何かに気づいたように棚倉は外を見た。
「あ、始まりましたよ」
夜空に大きなオレンジの花が咲くと、教室の中が仄かに明るくなった。少し遅れて独特な爆発音が聞こえてくる。
「お、おおっこれは凄い! 特等席だな!」
花火に気付いた本多は窓辺に駆け寄って歓声を上げた。
「部長は、去年ここで恋人と花火を見たそうです。私が本多先輩を誘おうとしてるって気付いて、こっそりメッセージアプリで教えてくれたんですよ」
棚倉は、窓枠に手をついて夢中で花火を見上げる本多にそっと近づいた。あどけない少年のように目を輝かせる本多を見ていると、自分の頬が熱くなるのを感じる。
(部屋を暗くしておいて正解でした……)
頬に片手を添え、棚倉は恥ずかしそうに微笑んだ。
「ところで棚倉くん」
急に本多が振り向いたので、棚倉は跳ねるようにして身構えた。
「な、なんです? 私の顔、何かおかしいですか?」
「いや、そうではなく、部長からこんな素晴らしい特等席を教えてもらったのに、呼ぶのは私だけでよかったのか?」
「……本多先輩、たまには恋愛ジャンルの本も読んでくださいね」
首を傾げる本多に棚倉は苦笑した。
「鈍いところも好きなんですけど……」
棚倉の小さな呟きは、花火の音に紛れて本多の耳には届かなかった。
『本多先輩へ 三分以内に三-三へ来てください』 木の傘 @nihatiroku
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