欲しがりません生えるまで

目々

やればできるだけの才能

 差し出されたカップに注がれた緑茶は盛大な湯気を立てている。


「何入れたの」

「緑茶です。ちょうどお湯沸かしてたんで、パックのやつですけど」

「眠剤とか入れた?」

「入れました。ちゃんと砕きましたよ」


 低いテーブルと薄っぺらいラグマット。壁際にはそれなりのサイズのテレビと本棚に、二年前の日付のまま放置されたカレンダー。

 一般的で平均的な一人暮らしのマンションらしい一室で、面白味も何もないフローリングの床に座り込んで、俺は部屋の主である豊島の顔を見もせずに茶碗をテーブルに置く。

 豊島はデスクの前に置かれたキャスター付きの椅子からこちらを見下ろして、不思議そうに問うた。


「飲まないんですか」

「飲まないよ。飲んだら寝ちゃうだろ、ヤバい感じで」

「朝までぐっすり眠れると思います」

「だろうね。で、そしたらお前俺の首切るじゃん」

「はい」


 ちゃんとノコギリとブルーシートも用意してありますと晴れやかに答える豊島の顔を眺める。浮かんだ笑顔には悪びれる様子も企みの影も何一つ見当たらない。屈託がない。

 保険のコマーシャルじみた爽やかかつ明るい表情のくせに、言っていることが完全にかっ飛んでいるのだからどうにもならない。


「そういうことすんなら帰るぞ」

「何でですか。ピザもうちょっとで来るんですよ。L一枚にサイドの二倍盛りポテトとナゲットミックスも」

「人に眠剤を盛るな。基本だろ、こう……人付き合いというか、そういうやつの」


 馬鹿の注文履歴の説明を遮れば、豊島はすいと目を逸らした。黙ったのを幸い、状況の確認を差し込む。


「そもそも俺がなんでここ来たか分かってんのか」

「見たかった映画が配信来たから観ようって話だったじゃないですか。映画館で二千円出して観るのは嫌だからって、俺んち元々サービス加入してるからって。先輩──安井さんも納得したでしょう」

「思い出したように名字で呼ぶな。どうせ面倒だからって先輩呼びしてるんだろお前は……ついでにそういう相手を初手で昏睡させようとするな」


 映画観て飯食うんだろと諭せば、分かりましたと豊島は頷いた。その声にうっすらと落胆の色が滲んでいるのを隠す気がないあたり、素直ではあるが本当にどうかしていると思う。

 一応、豊島が誰にでもそういうことをする類の人間ではないというのは分かっている。

 誰彼構わず薬を盛って動けなくしたところを首を切り落とすというような、そんな蛮行を日課にしているわけでもない。そんな人間だったらすぐに通報している。

 そうしないのは一応豊島が俺のバイト先の後輩であり、それなりに親しい友人であるという曖昧な理由と、これら凶行に及ぶ動機が『俺の首が欲しい』という一点であるというせいだ。


 俺以外に被害が出ないのが確定しているのならば、あとは俺の意思一つだろう。正直に言えばどう対応すべきなのかが分からない、というだけのことなのかもしれない。下手に刺激してどうなるかが見当がつかない。怖い。

 拗ねたように椅子の背を抱え込む豊島を見て、俺は口を開く。


「お前さあ。なんでそんな俺の首が欲しいの」

「先輩のこと尊敬してるからですけど」


 当然のことを聞かれたとでも言いたげに、豊島は真っ直ぐにこちらを見る。

 明らかに間違っていないのはこちらの方だろうに、俺はどうしてか目を伏せてしまう。こういう人間にも状況にも、これまでの人生では対応したことがない。ようやく生きて二十年を超えたような大学生にこの状況を捌き切らせるのは無茶ではないだろうか。


 バイト先の喫煙所でライターのガスを切らしているところに火を貸したのが、豊島との最初の接触だった気がする。夏の頃だったか、その辺りの記憶はどうにも曖昧だ。とにかくその程度の印象だったし、その時に何かしら特別なやりとりをした覚えもない。

 喫煙所での遭遇以降、シフトが一緒だと気づいたり帰り道で見かけて使う駅が同じだと理解したりそれこそ喫煙所で頻繁に顔を合わせているということを再確認したりと、とにかく相手を認識するようになった。ミスを庇ったとか業務を手伝ったとかはまあ、常識的な範囲内ではやったこともあるだろう。正直そのあたりのことは記憶にない。俺はただの持て余した暇を小銭稼ぎに注ぎ込む大学生アルバイトとして、平凡かつ無難に労働していただけだ。


 交流とも言えないような接触をだらだらと積み重ねた結果、豊島とはそれなりに親しくはなっていた。

 同じ立場で年齢も近いならば、それほど不自然でもないだろう。喫煙所の件から何となく雑談をする回数も増えた。その益体もない会話の中で互いに大学生だとか俺が二つ上だとか実家が飛行機を使うくらいには遠いとかそんな具合の社交に最低限必要な情報を交換しつつ、オーソドックスな娯楽映画からちょっとアレなホラー映画まで好き嫌いなく見られるくらいには映画が好きだとかフェスには出てるけど一般の知名度はそんなにないバンドが贔屓だとか、そういう少々個人的で趣味的な情報を交換するぐらいにはなった。

 そこからも特別語るべきこともない。バイト上がりの時間が合えばそのままファミレスで飯を食いに行ったり、趣味の合いそうな映画を観に行ったり、家飲みしたり──その程度の、大学生の友達として平均的かつ凡庸な付き合いを重ねていただけだ。


 気の合う後輩で、親しい友人だろう。そこの認識は正常だと思いたい。

 それなりに大事な友人であるところの豊島が、去年の忘年会で酔い潰れた俺を自室に持ち帰り、俺が前後不覚の間に首を切断したのだからどうしようもない。


 溜息を吐きそうになり、誤魔化すように本棚に視線を向ける。

 上から二段目の棚に置かれた俺の生首がこちらを見て瞬きをした。


「あれもさあ、何を堂々と飾ってんの。人の首を。許可もなしに」

「大事なものは目の届く場所に置いておきたいじゃないですか。しまい込んで痛んだら悲しいですし」


 返事をする気にもなれず、生首──何度見ても間違いなく俺の首だ──を見上げる。

 自分の生首これがあるかどうかの確認、というのも豊島の部屋に来た動機の一つではある。切られた首がどうなっているのか、その持ち主としては気にせずにいるのはなかなかに難しい。

 我ながら特に面白くもない顔をしている。垂れ目で生白い肌の覇気のないツラだ。特徴らしいものとしては平均からすればやや垂れ目に分類されるであろう目つきと、右の目元に鉛筆で突いたような小さな黒子がある程度だ。総合して平凡な顔だ。今日の朝に洗面所で見た顔とあまり変わらないように見える。


 睨みつけるが、当然生首の表情は変わらない。口元に微かな笑みのようなものを浮かべて、こちらを見下ろしている。


 生きているかというと微妙だ。口はきかないし動かないが、ことあるごとになんらかの反応は見せる。置物よりかは生物に近く見えるが、静物というには動物の領域にいるような気もする。そもそも胴体から切り離されているのに痛まずにいる時点で理屈が何も分からない。視線が動く理由など想像もできない。


 あまり真面目に考えると気が狂いそうになるので、俺は豊島へと視線を戻す。

 会話に飽きたのか、それとも興味がないのだろうか。豊島は椅子の背もたれをぎしぎしと鳴らしている。退屈そうなその目が本棚の少し高い位置──つまり俺の首が置かれている場所を見ているのだと気づいてしまい、俺はまた溜息を吐きそうになるのを堪えた。


「知らないんなら仕方がないけどさ、あんまり尊敬してるからって動機で首切らないんだよ、世間の人間」

「そうなんですか。奥ゆかしいんですね」


 とでも言いたげな顔で豊島は頷く。

 こいつの世界観だと誰も彼もが人の首を隙あらば欲しがっているということになっているのだろうか。


「まあ、確かに面倒ですよね。人って切ると汚れますし、疲れますし」

「だろ?」

「でも俺は機会に恵まれたんで。それなら生かさない方が馬鹿でしょう」


 豊島は視線をこちらに向ける。そのままその双眸がゆっくりと瞬きでもするように細くなる。

 その表情が笑顔であり好意──あるいは親しみらしいものを表現しているのだと理解するのに、少しだけ時間がかかった。


 機会、という言葉に俺は暗澹たる気分になる。何度も反芻して少しも消化されない記憶を思い出す。


 寒い朝だった。

 背中のがさつく感触とぼんやりと熱のこもった肌の不快感に目を開けると、目の前に生首があった。

 しかもその生首がどうやら自分の顔をしていると認識したときに一気に心臓が跳ねた。気の弱いやつならあそこで正気を失っていたんだろうなとは思うし、そうできなかったのが俺の不運だとも最近では思うようになっている。

 起き上がって周囲を見回せば、左側にだけ本が詰められた本棚とその横の壁に二年前の七月からめくられた様子のないカレンダーが掛かっていたので、豊島の部屋だとすぐに分かった。同時に自分の下に敷かれているのがブルーシートで、そこに黒ずんだ液体がところどころ乾いて張り付いているのだからどうにもならない。


『我慢できなかったのは俺が悪かったですけど、先輩やればできるじゃないですか』


 座り込んだ俺を見下ろしたままそんなことを言う豊島の手には鋸が握られていて、こいつが何を我慢できなかったのかも俺が何をされたのかも見当がついてしまったのが何より嫌だった。


 何度思い返して整理しても一向に筋が成立しない記憶を浚いながら、俺はこちらを嬉しげに見つめる豊島に問う。


「十二月から、っていうか今日もずっと聞いてるけどさ、何でお前そんなに首が欲しいの」

「答えてるじゃないですか。というか、正面から聞かれても困りますよそんなの」

「被害者だぞ俺は。答えろよ」

「だから、先輩のこと仕事できるし気配りもできるなって尊敬してますし、友達としても趣味とか合うから大切にしたいですし、あー……」


 よく分からない説明が途絶えて、豊島が頬に手をべたりと当てる。中途半端な頬杖のような恰好をしてから、呑気な声が続いた。


「あとは……先輩って足とかあるから、放っておくとどっか行っちゃうじゃないですか。首だけならそれがないなっていうのは、あります。おまけですけどね、こっち」


 気に入ってる相手を手近なところに確保したまんまにできるのって最高じゃないですかと供述した豊島の口の端から、やけに白い八重歯が覗いた。

 ピザの来る気配はまだない。頭を抱えそうになりながら、俺はもう一つの疑問を口にする。


「そういや薬どうやって調達したの」

「ちゃんと医者に行ってきました。合法ですよ」

「……仮病?」

「眠れなくて困ってますって言ったら心当たりとかありますかって聞かれて、あー生きててあんまり楽しくないですねーみたいに問診っぽいことやって、はい処方って感じです。次回予約も一か月後に入れて」


 寝るの下手なのは本当だしそんなに嘘言ってないんで大丈夫ですよと何一つ大丈夫ではないことを言いながら、豊島は座った椅子ごとぐるりと回った。


「なんか結構こだわりとかありますよね、先輩」

「は?」

「別にいいじゃないですか、寝てる間に首切るくらい。先輩首生える方なんですし、ちゃんと寝てる間なら痛くもないですよきっと」

「加害者側がそれを言うな。訴えるぞ」

「何についてですか」

「俺の首切ったろ。駄目だろ、そういうの」

「でも生えてきたじゃないですか」


 加害の痕跡はどこにあるんですかという豊島の問いに答えられず、俺は黙って自分の首筋に触れる。ただ肌と筋の感触だけがあるそこには、傷跡も何も残ってはいない。

 どういう仕組みか分からないが、豊島に首を切断されてからまた俺の首は生えたらしい。らしい、というのはそのときに俺は前後不覚の酩酊状態だった上に首まで切られていたので何一つ確認も認識もできていなかったからだ。すべては豊島の証言と俺の現状によって証明されている。棚の上の生首についてもその証拠のひとつではあるのかもしれないが、万に一つの可能性で俺によく似た別人の首というのもある。それはそれで別の問題があることになってしまうので、一旦保留にしておきたい。


 首を切られた、つまり脳を失ったのだ。それなのに記憶の混濁や自己認識の齟齬も起きてはいない。日常生活も大学のレポート作成もバイトも問題なく行えている。何も影響がないというのが、かえって恐ろしい。

 そもそも人体としてはあり得ないことがおきているのだ。首どころかほんの指先だって怪我の状況によっては再生しないし復元もできないのが常識だろう。どうして何の後遺症もなく頭が生えてきたのかが分からない。


「生えてきたってのも……分かんないだろ色んなことがさ……」

「先輩才能あるんですよ、誰にでもできることじゃないですよ、きっと」

「そりゃあ基本的には発揮する機会がないだろうからな、そういう才能」


 意外と同じようなことができるやつはいるのかもしれない。ただ、そんなことを試すやつは基本的には存在しない。普通の人間は首を切られたら死ぬのだから、失敗した場合のリスクが大きすぎる。そもそもそんな馬鹿を思いつくやつもいないだろう。

 才能ではあるのかもしれないが、そんなものが何になるというのだろう。『首を切られても生やすことができます』なんて才能をこの現代でどう生かせばいいのか。履歴書にも書けないのだから、漢字検定の三級の方がまだマシだろう。何なら簿記の方が役に立つ。運転免許証には確実に負ける。


「ところで先輩って腕とかどうなんですか」

「何が」

「首いけたんなら腕もいけると思うんですよね、俺」


 豊島の言葉の意味を理解して、背筋が冷えた。


「やめろ。生えてこなかった場合、困る」

「でも頭と違って死にませんよ。ちゃんと救急車呼びますし」

「呼ぶのかよ。……死なないからだよ。不便だろ」


 豊島は納得したような顔をして、溜息と相槌の中間のような音を出した。

 僅かな沈黙を挟んで、ぐるりと椅子を回してから、


「一応聞きますけど、幾ら出したら許可してくれるみたいなのってあります?」


 一瞬吹っ掛けてやろうかと思って、止めた。

 金額を口に出したら本当にこいつは持ってくる。ついでに腕も持っていかれる。下手をすれば手足では済まなくなる。一度値段という合意を見せてしまえば、最終的に負けるのは俺の方だ。そんな直感じみた確信があった。


「本当にやめろ。……やめてくれ。頼むから」

「分かりました。我慢します」


 殊勝に頷くその顔にはうっすらとした笑みが浮かんでいるばかりで、露骨な落胆も不満も読み取る事はできなかった。俺の主張など何とも思っていないのだろう。あるいはここで分かりやすく逆らって、俺が帰るのを避けたかっただけかもしれない。もうすぐ配達員が到着するはずだ。Lのピザとその他サイドメニューの諸々を一人で食べ切るのは、豊島でもつらいだろう。


 そう遠くないうちに豊島は許可の有無などに頓着しなくなるだろう。俺が酔い潰れただけであっけなく我慢の限界を迎えたやつの理性に期待をしてはいけない。夜逃げってどうやるんだろうなと俺は考える。でもこいつは絶対に追ってくるだろうし、逃げ切れるほどの気力も技量も俺にはない。

 ──捕まったら、本当にひどいことになるんだろうな。

 首以外にも意外な才能を発見する羽目になるんだろうかと思いながら、俺は本棚へと視線を向ける。


 生首は真っ黒な目でこちらを見てから、左右に視線を往復させ、そのままゆっくり目を伏せた。

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欲しがりません生えるまで 目々 @meme2mason

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