いとしの藤

 それからひと月が立った。陽と静は学校に通うかたわら、毎日のように十緒子の元に通う日々が続いた。伯父にはその都度、十緒子の様子を聞かれたが、彼女の言いつけを守り、声が聞こえることは秘密にしていた。


 その日の十緒子は機嫌が良さそうに、文机の上に和紙を広げて筆を滑らせていた。静が蝋燭の灯りで宿題をするそばで、陽は早々に投げ出して畳の上でゴロゴロしている。建前上は電磁波が十緒子の身体にさわると、スマホや電子機器の類いは伯父に持ち込みを禁止されているが、なるべく外の情報を与えたくないのだろう。

 YouTubeが見たいとぼやく陽を見て、静かに笑った十緒子は、彼らにだけ聞こえる声で唄い始めた。


『若紫に十返とかえりの 花をあらわす松の藤浪』


「あ、それ、お父さんがうたってたね」


「うん。長唄っていうんでしょ?」


 陽はがばりと身を起こし、静の方を振り返る。双子は十緒子に近づいて、文机の上に散らばった紙を注意深く見つめる。遊びで書きつけた文字や絵であっても、持ち帰るよう伯父に言われているからだ。十緒子曰く『戯言ざれごと』らしいが、伯父はまさしく神託の如き扱いで大切に金庫に仕舞いこんでいた。

 

『何かは良く分からんが……これは妾が教えた。妾も何代か前の松枝の若者から聞いた。都で流行っているのであろ?』


「都っていつの時代だよ」


 よわいを重ねた老人のように物識りかと思えば、時の流れに取り残されたような十緒子の言動が可笑しくて、静はクスクスと笑う。


『さあ。今はなんと言うのだったか?町?とかい?』


「なんでもいいよ。続きうたって」


『陽はせっかちだのう……そんなことではおなごにもてぬぞ』


「べつにいいよ。女の子は苦手だもん」


「何書いてるの?」


 2人のやり取りを聞きながら、静は十緒子の手元を覗き込む。文字とも絵とも判別しがたいムカデのような落書きが、黒々と和紙を汚している。


『いとしと書いて藤の花』


 十緒子は唄いながら、薄墨で平仮名の「い」を縦に書き連ね、真ん中に長い「し」を書き込んだ。少し得意げに微笑んで、双子に向けてそれを見せる。


『どうだ?「い」を十書いて「いと」真ん中に「し」で「いとし」と読むのだそうだ』


「へえ」


『この形が藤の花に似ていると……誰かが……』


 十緒子は、双子たちに目を据えてはいたが、その紫の瞳は彼らではない遠い過去の人物を見るかのようにぼやけていた。懐かしむように閉じた白い瞼の先で、繭から紡ぎ出した絹糸のような白い睫毛がふるりと震える。


『あの子が……あの子らが妾に「十緒子」と名付けた。連なるいとしのとうの花と……』


 少し疲れたように文机に頬杖をついた十緒子は、それきり話を止めてしまった。長い髪のひと房がすずりに落ちて、白を墨色に染めていく。部屋にいくつか備えられた燭台の淡い灯りに照らされた姿は、墨の色に溶けて消えてしまいそうに見える。


「十緒子、髪が……」


 汚れる。人ならざるモノは汚れるのだろうか。静が言葉を言い終わらないうちに、廊下の向こうからバタバタと足音が近づいてきた。

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