後篇

 

 やがて、「遅れて申し訳ありません」とパパとママがホテルに現れた。わたしたち一家と公示さんはホテルの中の鮨屋に移動した。兄もいるのだが、就職して遠方にいるので今回はパス。

「祖父の洸士がご迷惑をおかけして……」

「いえ。そんな話では」

 通された鮨屋の個室はテーブル席だった。正座が苦手なわたしはほっとした。ママがコース料理を予約していると云って、仲居さんに飲み物を通した。

「百年近い昔のことですし、騙したとかそういうことではないとぼくは考えています。それに、ぼくの人生には何の影響もありません」

 パパがわたしに「やっぱり真帆は帰りなさい」と促したが、ママが「いいじゃないの。真帆はもう高校生よ。大人の話が分からない歳じゃないわ」とそれを跳ね返した。

 水兵リーベぼくの船。これは周期表の横方向の語呂合わせ。

 縦方向に族元素を語呂合わせしたものを検索して調べてみた時には、教室中に悲鳴が上がった。オスの性器は鉄砲だ、ふっくらブラジャー愛のあと。何よこれ。

「ね、真帆」

「うん。もちろん」

 迫りくる化学の小テストに向けて頭がやや引きずられていたわたしは急いでママに頷いた。他にも周期表の語呂合わせには色々なバージョンがあるのだが、露骨な下ネタが席捲している。そのお蔭で大昔から男子学生が一発で覚えて生涯忘れないというのだから、呆れた話だ。

「これ、公示さんに書いてもらった家系図」

 ノートを卓上に広げたが、同じものを先にメールで頂いているということで、また鞄に戻した。

 先付のあと、最初の鮨がはこばれてきた。わたしは食事に専念することにして、大人たちの話には聞き耳だけを立てておいた。白木の柾目に並んでいるのは特上鮨だ。

「ぼくにとっても、神成洸士は曾祖父です。梨辺さんの血脈が健在であることは知っていました。上京するついでに、お逢いしてみたかったのです」

「何も知らず、申し訳ない」

 洸士の孫のパパにも言葉がないだろう。ロシアを離れた洸士は念願の赴任地ドイツに着任すると、また同じことをしたのだ。


 

 あの時代に渡航し、長期滞在する日本人は、宮さまか政府高官か軍の武官か大金持ちと決まっていた。国費留学生であっても母国の体面を穢さぬだけの金は懐に持たされていた。ゆえに、女の方から日本人に寄って来たそうだ。お茶の一杯でも奢れば歓んでぞろぞろ付いてきたという。

「祖母から聴いた話ですが、洸士さんは雛に餌でも与えるようにして、群がる女たちをあしらっていたそうです」

「……」

 何してるの曾祖父。

 沈黙しているパパとわたしに代わり、職場で主任を務めているママがてきぱきと座を取り持った。

「家系図を拝見しました。ドイツに渡った神成洸士がドイツのお嬢さんと恋仲になり、それで生まれた女性がドイツで育ち、ドイツ人男性と結婚、生まれた娘さんがドイツの大学に留学中の日本人男性と出逢い結婚、お生まれになったのが公示さん。そういうことですね」

「はい」

「ビールよりも日本酒の方がよかったかしら」

「いえ、ビールで」

「それで、公示というお名前はやはり」

「はい。ぼくが生まれた時には、洸士さんと曾祖母の間に生まれた祖母がまだ存命でした。ぼくの母が結婚した日本人の苗字が『かみじょう』だと知ると、ひじょうに愕き、家名が違うと知ってからも、何かやはり深い縁があるのだろうと、生まれたぼくに洸士さんと同じ響きを持つ名をつけるようにと両親に勧めたのです」

「奇縁ですね。感慨深いわ」

 蒸し物の後、二の鮨がはこばれてきた。ママはわたしと公示さんを交互に見比べた。

「公示さんと、ここにいる真帆は遡れば洸士さんに辿り着き、薄くとも血が繋がっているのね」

 ママにとっては好奇心の刺激される感動秘話のようだったが、パパは終始、居心地が悪そうだった。無理もない。結局、曾祖父の神成洸士はロシアとドイツと日本に、それぞれ子どもをもうけていたということになるのだから。

「ベルリンの曾祖母は裕福な家の娘でした。神成洸士さんは、お腹に子がいることを知らずに帰国したようです」

「そこは、ロシアの方とは違いますね」

 親戚の話から、ママも大方は知っているようだった。

「二人いた男の子たちの学費も含め、かなりの額をロシアのカリーナさんに渡して別れたそうですよ」

 出張で上京した上条公示さんはこのホテルに宿をとっていた。私たちを見送り、彼はタクシーに手を振った。

「見た目はドイツ人ね」

「あちらは日本人の父親以外は、ほとんどドイツ人だからな」

 ドイツに滞在中、洸士は、祖国から送られてくる梨辺の写真をドイツの愛人に見せていた。ドイツの愛人はかわいい少女の写真を銀の写真立てに入れて飾っておいた。帰国する際、そのうちの数枚を洸士は荷物に入れるのを忘れてしまった。

「それで、ぼくの家には代々、ロシアで生まれて日本に渡った梨辺さんの写真が残されていたんだよ」と公示さんはわたしに教えてくれた。

 名刺をくれたお礼に、わたしも公示さんに名刺を渡しておいた。名刺といっても付箋にSNSのIDを書いたものだけど。

 家路を辿るタクシーの中でわたしは隣りにいるママに文句をつけた。

「パパの気持ちにわたしも同感。なんだか綺麗な話になってるけど、子どもまで無責任に作っておいて後はほったらかしなんて、日本人の恥よ。ひいおじいちゃんは酷い男だったのね」

「そんなことないわよ真帆。『舞姫』の読みすぎよ」

 ママの意見は違うようだ。わたしは夜景に眼を向けた。都心ではあまり星が見えない。宇宙の中に離れ離れになって小さく落ちている。



 わたしの作るロシアの家庭料理をコウジは美味しいと云って残さず食べる。彼は云う。味噌や醤油を恋しがる者もいるがどうやらぼくはまったく平気なようだ。国家を超えたコスモポリタンが地球上に建国されても、ぼくは生きていけそうだ。

 その夢の中に、わたしはきっといないのだろう。

 コウジは窓辺で何かを書いている。電報を打ちに出かける。わたしは彼の為に襟巻を編んでいる。

「釣りに行こうよ、コウジ」

「よしきた」

 男の子には男親が必要というがそのとおりだ。街を貫いて流れる川から息を弾ませて戻ってきた彼らは三人の兄弟のように見える。

 或る日、グリッペンベルク大将の旗下にいて黒溝台会戦で戦死した息子を持つ老人が、息子の仇である憎き日本人がいると聴きつけ、我が家に押しかけてきた。コウジは何かを喚いている老人と応接室に入ると、ウォッカを散々に呑み明かし、出て来た時には肩を組んでいた。

 コウジは日本からやってきた。策略と陰謀を操るオデュッセイス。その冒険の船に、わたしはいない。

 わたしは日本のことを何も知らない。雑誌や絵本を指差して、これは日本かと訊いてみても、毎回のように「支那」と返事が戻る。

 サクラ、サクラ。

 でも少しは知っている。

 サンクトペテルブルクでエカチェリーナ二世に拝謁した日本人がいるわ。そんな昔からあなたたちはロシアにやって来た。この寒くて広い美しい国に。

 わたしはロシアのあなたのサクラ。

 

 帰路が途中まで同じだからと、毎日のように長子を家まで送り届けてくる。わざと外套の釦の糸を緩めている。あの頃から分かっていたわ。

 家にお入り下さい、その袖口の釦を縫いますから。夕食をご一緒にいかがですか。

 では、お言葉に甘えて。

 そんなやりとりも彼の計画どおり。

「おや、綺麗な花ですね」

「この白い花はわたしと同じ名です。カリーナです」

「日本ではガマズミというのです。遠目には小手毬に似ています。カリーナ、貴女は子どもの頃にはカリンカカリーナちゃんと呼ばれていたでしょう」

 彼はロシア語にとても詳しかった。詳しすぎるほどに。

 生まれた赤子は日本で、彼の両親が育てることになった。わたしは承知した。産後の肥立ちが悪く、下の子が猩紅熱にかかり、とても乳児の世話まで手が回らなかったのだ。領事館の日本人夫妻が乳母までつけて、日本の神成家まで送ってくれることになった。そのうち戦争が始まった。可笑しいのよ、今度はわたしがスパイだと云うの。それで、日本に手紙を送ることはもう出来なくなった。

 リーベ。赤子の名はわたしが決めた。

 私たちのリーベ。

 遠い日本に行ったら、桜の木の下であなたはきっと花びらを拾うわね。大きな木。その上にはロシアと同じ三日月が昇るでしょう。子どもの頃のわたしがそうしたように、夜空の金貨銀貨に手を伸ばしてみて。

 寂しさにはもう慣れている。幼馴染の夫が死んだ時からずっと。

 カリンカ。

 彼は席を立つ。随分と子どもっぽい呼び名ね。でも、いいわ。

 彼が来る前に、流しに立ったわたしは一歩ずれて横を空けていた。袖をまくり上げた彼がわたしのすぐ隣りに立つ。

 カリンカ、お皿を洗うのを手伝いましょう。

 台所の窓から見える庭。秋になると赤い実がなる白い花。諜報員のあなたが背負う旗と同じ色。



[了]

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カリンカの墓 朝吹 @asabuki

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