K.618
ケッヘル六百十八番。すなわち、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが最期の年に作曲した、四十六小節からなる『アヴェ・ヴェルム・コルプス』と言う、天上の音楽である。
外から
中学校で、合唱コンクールの練習をしているのだろう。最近では、学校のチャイムにも、騒音として苦情が入るらしい。世知辛い世の中だ。
僕は
大学中退。いや、ほとんど行っていない。高卒だな。障害者手帳は七級で…………単独の障害で、最軽度等級の七級に該当する場合、法的に身体障害者として認定されず、身体障害者手帳を交付されることはない。
僕は、左足に軽い障害がある。身体にも、顔にも火傷の痕があって、あまり人の居るところへ行きたくない。
日没。
外が完全に真っ暗になる頃、僕は買い物へ行く。平日の真ん中に入れられた公休。昼間のうちに洗濯や掃除を済ませて、昼寝を挟んで、風呂も済ませる。外へ出る買い物は、いちばん最後。閉店間際のスーパーマーケットには、最終の割引シールが貼られた惣菜やパンが残っている。おかずに出来そうな惣菜と安くなった食パン、小さい紙パックの野菜ジュースを一掴み、買う。
遅い夕飯。ご飯だけ炊いて、インスタントのお味噌汁。おかずはかき揚げ、ご飯に載せて麺つゆを少々。ベランダ越しの月を見ながら、もそもそ食べる。
夜勤の良いところは、狂った時間感覚の所為で、昼と夜の区別がなくなること。いつもなら夜通しゲームをしたり、本を読んだりするが…………今夜は満月か。散歩に行こう。
夏という季節が、こんなにも暴挙を振るうようになって、どれくらい経つのだろう?
夏が…………嫌いだ。嫌いに、なってしまった。昔は、いちばん好きだったのに。気持ちの良い早朝も、市民プールが娯楽になる暑さも、通り雨や夕立の涼しさも、今は何もなくなってしまった。ただ本当に、焼かれるように暑いだけ。
秋が、見つけられない。
僕らは、
住宅地を抜けて、川沿いへ出た。川っぺりへ下りて、海の方へ歩いて行く。海風の潮の匂いは、海の近くに住んでいると平常の、日常の匂いだ。きっと僕は、海まで歩いて行けないところには住めないし、もし山の近くに住んでいたら、地平に山のシルエットが見えないところは物寂しく思える。そういうものじゃない?
僕は歩く時に、左足を少し引きずる。歩くのも遅い。痛くはないけど、正座して
僕は……僕の左足が、なんとか歩いたり、自転車を漕いだり、階段を上り下りできるうちに、働いて、家のローンを完済して、貯金もしないといけない。
親は……両親は亡くなってしまった。不慮の事故と後追い自殺。僕だけ生きている。今の僕なら、『未亡人』と言う言葉の意味が、実感で理解出来る。
どうして……人生には、どうしようもならないことが起きるのか。僕はどうすれば、よかったのか。…………いつまでも、答えが出せない。…………いつも、ここで止まってしまう。僕は歩きながら、上を向いた。お父さんもお母さんも、居なくなって随分経つのに。不思議だ。
二人に置いていかれて……小さい頃なら、二人は僕に振り返ってくれた。僕は歩いて、走って、二人に追いつけばよかった。今は二人とも居ない。どうしていいかわからない。僕は結局、どれだけ年数が経っても、二人がこの世に居ないことをわかりたくないんだ。
真っ暗で、誰も居ない道。もし前から誰か来ても、そっぽを向けばいいだけ。今はいっそう、誰にも顔を見られたくない。
海。
道路を渡って、低い石塀を越えて、古びた木の階段を下りる。砂浜だ。
満月で、少し明るい。砂浜に、誰か居る。この辺は、楽器の練習をする学生が来たりする。………………歌声だ。
♪Ave……ave verum Corpus natum de Maria virgine.(アーヴェー…… アーヴェ ヴェールム コルプス ナートゥム デー マリア ヴィールジネ)
♪Vere passum immolatum in cruce pro homine(ヴェーレー パッスム イーンモラートゥム イン クルーチェ プロー オーミネ)
♪Cujus latus perforatum unda fluxit et sanguine:(クーユス ラトゥス ペールフォラートゥム ウンダー フルーシット エト サングゥィネ)
♪Esto nobis praegustatum in mortis examine.(エスト ノービス プレグスタートゥム イン モールティス エグザーミネ)
♪In mortis examine.(イン モールティス エグザーミネ)
通しで歌い終えられた。近所の中学校から聞こえてきたのと同じ。
課題曲の練習なのだろう。僕は波打ち際まで歩いて、歌声とは反対側へ歩き始めた。僕もハミングで、アヴェ・ヴェルム・コルプスをなぞる。まだ覚えていた。
時折、波の音に混じって、歌声が聞こえてくる。届く。僕も、歌いながら歩いた。忘れて……いない。まだ、歌える。僕は少しだけうれしくなって、歌い続けた。
私は、合唱コンクールの課題曲を練習していた。ソプラノパートで歌いきる為に。途中で息が続かなかったり、
今夜は満月で、海岸は少し明るい。波打ち際の、足が濡れるくらい、ギリギリのところまで行って、海に向かって歌っていた。
「…………?」
一旦通しで歌い終えると、波音に混じってハミングが聞こえてくる。ような気がした。いや、する。私の他にも、アヴェ・ヴェルム・コルプスを歌いに来た人が、居るのだろうか?
確かに歌声はしていた。私がソプラノの、最もキーが高いところを歌ったら、続きが追いかけて歌われる。ピアノ伴奏はないけれど、波音が鳴っていて、歌声はいっしょに歌ってくれる。
次第に何者かの歌声は遠くなり、私が何度歌っても、もう返っては来なくなってしまった。誰かは、帰ったのだろう。私も帰ろう。
教室は、休み時間が少し、辛い。
「おはよう、
いや、朝からだった。
「おはよう、
陽葵は直ぐに別の子のところへ行ってしまった。サイレント無視。私にだけわかるように。陽葵は少し前から、私を無視し続けている。
教室の中で、私は独り。友だちも居て、その子は親友で、でも私は独りなの。
合唱コンクールの練習時間。
私はソプラノパート。体育館のピアノ前で歌う。ソプラノ、アルト、テノール、バス。パートごとに集まって、
昨日、海で聞こえた歌声は、男の人だったけど、綺麗なハイトーンだったな……
私はメゾソプラノで安定しないところや、息が続かないのを、なんとかしたくて…………陽葵も同じところ、苦しそう。本当は…………陽葵といっしょに練習出来たら、陽葵と二人きりで歌えたら…………いいのにな。
工場でも、仕事中に歌っているものが居る。僕とあの機械だ。機械音声で『故郷の空』を歌ってる。
♪ランラランラ、ランラランラ、ランラ・ランラ・ラー
♪ランラランラ、ランラランラ、ランラ・ランラ・ラー
♪ランラランラ、ランラランラ、ランラ・ランラ・ラー
♪ララン・ラ・ラン・ラ、ランラ・ランラ、ランラ・ランラ・ラー
山積みの段ボールを載せたパレットを、牽引して運んでいく。洗濯機くらい大きな、(うちの工場に居るのは)青い
僕は、工場内の隅に隔離された部屋で、延々汚れた
洗うと言っても、洗うのは機械だ。台車に積まれた使用済みの番重を、製造ラインから集めてきて、一枚ずつ洗浄機械に通して洗う。機械の中で熱湯と洗剤で洗われて、出てくる。そう、この機械は入れる人と取る人、二人居ないと使えない。
「今日は
簡単に言ってくれる。社員は僕に、二人一組の一人が、今日は居ないと告げた。
「ゆっくり流してて」
一人で番重を機械に五枚くらい入れて、反対側へ行って取る。出来なくはないけど、スピードは格段に落ちる。きっと数時間もしないうちに、洗浄室は汚れた番重の台車で溢れ返る。そんなところへ連れて来られたら、ベトナム人か中国人の実習生は、露骨に嫌な顔をするだろう。この前来てくれた実習生は、一時間休憩が終わっても戻ってこなかった。ラインリーダーは洗浄室の手伝いに、日本人の夜勤パートタイマーは寄越してくれない。
…………帰りたい。
想像だけでウンザリする。独りで洗う為に何往復もして、台車は山で、実習生は不機嫌になり、洗浄済みの番重が欲しい部署からせっつかれて、洗剤ボトル(※重い)も資材庫(※遠い)へ取りに行かないとならない。僕は必死に、夜勤の高い時給と有給の残数を思い出して、仕事を始めるしかない。
製造ラインから洗浄室へ、番重を積んだ台車を回収している時に、パレット運搬の邪魔をしてしまった。ブザー音は『どいて』と叫ぶ声。もう、ほんと……帰りたい。
僕は洗浄室へ戻ってから、ずっと歌いながら番重を流していた。洗浄機械の稼動音は大きくて、僕の歌声は誰にも届かない。反対側の実習生には聞こえていたかもしれないけど。
「
陽葵は少しずつ、私を傷つける。一晩眠ったら治るくらいの、小さな傷。それを毎日。
どうして私と帰らなくなったの?
私を嫌いになったの?
どうして私に仲良い振りを続けるの?
私をまだ好きなの?
どうして? 陽葵。
私……わからないよ。
私は、体育館へ向かって走った。渡り廊下を大股で走って行く。体育館へ入って、ピアノの前に行く。ピアノは…………弾けない。
私は、ピアノ伴奏を思い出しながら、歌った。アヴェ・ヴェルム・コルプス。ピアノが鳴っている想像。陽葵が…………隣に居て、歌っている想像。メゾソプラノの、苦しくなるところで陽葵を……見る…………見つめる想像。
陽葵となら…………美しく歌えている。
そんな、想像。
私の勝手な想像だった。陽葵は……陽葵が苦しそうに歌っている時、陽葵は、私なんて見ない。
私は夜、又波打ち際まで来ていた。私は沖に向かって、めちゃくちゃに叫んだ。自分の中に溜まったドス黒いものを全部吐き出しきらないと、歌えなかった。ついでに泣いていた。かなしいよ。
アヴェ・ヴェルム・コルプスは、どんな歌? かなしいまま歌っても、だいじょぶな歌? わからないよ。
たまに自分の汗で、視界が
洗浄室は熱湯を使っているから暑くて、冷房はほとんど効かない。スポットクーラーの送風口を自分に向けて作業を続けているけど、とにかく暑い。番重を取る側に居るけど、洗われて出てくる番重も熱くて、指先や手も熱くなっていく。
実習生は番重を、隙間を空けずに次々流してくる。取る側の忙しさたるや。投げ出して帰りたくなる。今、僕の精神を保っているのは、朗々と歌っているアヴェ・ヴェルム・コルプスだけ。
歌の分、余計に疲れると思う? それは違う。歌うのをやめたら、僕は怒鳴って、倒れて、早退してると思う。
神様、心無い賛美歌でごめんなさい。
美しいアヴェ・ヴェルム・コルプスは、海で歌っていた子のを聴いてください。僕のは、ただの労働歌です。
朝。
なのに私はショックで、授業中ウワノソラだった。教科書を目視しているのに、ノートをとっているのに、ヌケガラ。休み時間は机に項垂れてた。こんなにショックなのが、驚きだった。
給食の時間。口がモグモグしているだけで、何食べてるか、よくわからない。なんか、スプーン、落とした。…………拾わなきゃ。床、見てる。スプーン、どこ行った?
トンと、机の端っこにプリンと新しいスプーンが置かれた。何? 誰がと見上げたら…………去りゆく陽葵。
陽葵は私がボンヤリしてる間に、私の机に陽葵のプリンを置いて、行ってしまった。…………な、なんなの?! くれたの? 私に?
陽葵は本当に、行ってしまった。私は陽葵の置いていったプリンを開けて、食べた。
…………甘い。
陽葵が好きだ。大好きだ。でも、陽葵は多分、私を嫌いになってしまっていて。私は残さず食べた。今すぐ陽葵を追いかけて、私のプリンをあげたい。
陽葵、どうしてこんなことするの?
これが嫌いな人にすること?
おかしいよ。
放課後は雨だった。
傘は? 陽葵。
振り向いても誰も居ない。
私は濡れて帰った。
僕は駅の階段で、転んで落ちるかと思った。疲れて足が上がらなくて、つんのめりそうになった。始発の下り快速で帰る。降りる駅を危うく寝過ごしそうになった。もう駄目だ。眠い……
翌日も夜勤の
日本語が少しはわかるベトナムやフィリピンの実習生が来てくれたが、文句や何か、僕に表立って言いたくないことは、ベトナム語やタガログ語で言っているっぽい。別に日本語でグチったって、罵倒してくれたっていいさ。僕も大概似たようなものだから。
夜勤のデメリットは、休日の朝まで仕事で削れること。
僕は、やらかした。降りる駅で目が覚めて、ドアが閉まって電車は走り出した。帰宅して、シャワーを浴びて、横になってスマホを見ていた。目が覚めると夕方だった。気絶したように寝落ちして、何もしていない。
慌てて、とっくに終わっている洗濯物を干して、床をワイパーで
僕は、なんとかお休みを取り戻そうと、散歩に出た。せめて気分くらい、持ち直したい。
頭が痛い。まだ微熱があるけど、もう寝ているのは飽きた。私は風邪で欠席していた。家を抜け出して、夜、海へ来る。
いつもみたいに波打ち際で、海へ向かってアヴェ・ヴェルム・コルプスを歌ってみる。少しは、上達しているのだろうか? 熱がある所為か、耳の聞こえ方が、少し違う気がする。声がダブって聞こえ……違うな。誰か……歌ってる。
私は、歌声に向かって歩いた。
僕は、海に向かって、アヴェ・ヴェルム・コルプスを歌う。
仕事をしている時、疲れて、辛くて、酷いアヴェ・ヴェルム・コルプスをずっと歌っていた。気が紛れはしたけど、本来は賛美歌なんだ。
…………もう一度、ピアノを弾きたいな。
大学を辞めて、ピアノは手離したのに。なんで、こんなボロボロの時に思い出すんだ。ピアノがない防音室を掃除してたって、忘れていたのに。
…………アヴェ・ヴェルム・コルプスだ。
歌声を聴いた。聴いてしまった。昔の課題曲で、心が動かされるなんて……
いや…………あれ? 待って? 本当に誰か……こっち、来る! えっ………………
聴いたわ。聞かせてもらった! あの晩のアヴェ・ヴェルム・コルプスだわ…………間違いない。
今日こそ取っ捕まえてや……
「っ痛ーー……」
僕の脚は
「わぁ…………ご、ごめんなさいっ」
脅かすつもりではなかったのに、私は見知らぬ人を倒してしまった!
「あの……本当にごめんなさい。起きられます?」
「…………(どうしよう、どうしよう、どうしよう)」
「だいじょばない……感じですか?」
「いや、あの! …………このまま見なかった振りしてもらう訳には……いきませんか? 僕はどこも、何ともないので」
何言ってるんですかと、小柄な少女に起こされた。
「!? や……ガラスとかありました?! どうしよ……病院」
青年の顔を見て驚いた。暗いけど、顔の半分が傷ついているように見えた。
「待って。違うよ。これは火傷の痕。今怪我したとかじゃないから。よく見て」
僕は咄嗟に言ってしまったけど、瞬時に後悔して、顔を
「ごめん……怖いよね……てゆーか、あの!」
てっきり引かれると思ったのに、少女に尚も覗き込まれて、居た堪れなくなる。
「あなたでしょう? 歌ってくれたの」
「……ごめんなさい」
「なんで? 私、うれしかったのに。おにいさん、どうしてアヴェ・ヴェルム・コルプス、歌えるんですか?」
私はいっしょに歌ってくれて、うれしかった。学校で歌っている時も、思い出すくらい。
「卒業生だから。君も、そこの中学、でしょう?」
先輩だった。どうりで!
「どうして私を見てくれないの?」
少女は僕の顔にある傷痕なんて、見ていなかった。誰とも目を合わせなくなっていた僕は、久しぶりに誰かを見た。
青年はちゃんとこちらを向いてくれた。友だちの顔を久しく見ていなかった私は、学校の先輩に(卒業生だけど)悩み相談をしてみようと思った。
【終】
【短編小説】 連休 @ho1idays
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。【短編小説】の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
関連小説
読み専な私が執筆に挑戦する奮闘記/七瀬 莉々子
★543 エッセイ・ノンフィクション 連載中 39話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます