第6話 長いお別れ(Wonderful memories)

その客はいつ頃から来ていただろうか。週に1度かもう少し間の空く、私がなんとか顔を覚える程度には来店し白ワインのボトルを半分ほど飲んで帰る、私にとっては手間のかからないありがたい客だ。当店ではボトルワインも提供しており、白は6000円、赤は7000円と決まっている。


ここは飲み物すべて1杯1000円なので、白なら1本で6杯、赤は7杯くらいがちょうどよい量という事でオーナーの神谷さんが決めた。銘柄はいつも神谷さんチョイスなので、赤の方が白より上等なものなのかは私には分からない。ボトルキープも可能で、その際は私の趣味のゴルフで使用すマーカーを使っている。ラウンドの際、グリーン上で自分のボールがどこにあるのかをマークする物で、様々な形やデザインのものが売られている。その中に、0から9までの数字が入ったマーカーを見つけて、これをボトルキープホルダーにしようと思いついたのだ。同じものを2セット購入し、1つはボトルに付け、もう1つを客に渡す。次回来店の際はそのマーカーを出してもらえばどのワインなのか分かる仕組みだ。ここは喋らないバーなので、基本客の名前は覚えずともよい。こんな店に来るもの好きは何か訳があって来ているのだから、むしろ向こうも好都合だろうと神谷さんは言っていた。人の顔と名前を覚えるのが苦手な私にとっても有難い仕組みだった。


ただ、開封したワインを美味しく飲める期間は短い。当店ではCORAVIN Pivot(コラヴァン ピボット)という器具を使っているので、最大1カ月くらいは保存可能(メーカーからの受け売り)だが、神谷さんと相談し、キープする期間は2週間と決めた。その間来店しなければ、キープは終了という事になる。


その客はNo.1のマーカーを持っているので私は「1番さん」と心の中で呼んでいた。必要ないのだが、神谷さんはNo.0のマーカーを持っている。「そのアイデアは面白いので、私にも一枚マーカーを」と神谷さんは言い、今でも常に持っている状況だ。私は、もしこのルールに神谷さんが飽きてマーカーを返してきたとしても、0番はほかの客に出すのはよそうと思っていた。


1番さんはいつもカウンターの一番奥、昔よく来ていた泣く女優の座っていた席の隣(L字なので正確には隣ではない)に腰かけて、タブレットで何かを観ながら飲んでいた。イヤフォンをつけているので音は漏れない、カウンターの内側からは何を見ているのかは分からない。ただ、時々本当に楽しそうな優しい笑顔を見せるので、映画などではなくご家族(彼の年頃ならお孫さんだろう)の動画か何かかなと思っていた。愛しい人へ向ける笑顔はほかのそれとはまた違う、優しさと慈しみを持っているのですぐ分かる。例えば仕事の都合などで遠くで暮らすお孫さんの成長記録が定期的に送られてきて、それを静かな環境で楽しむ為にこの店に来店し、飲みながらその成長を愉しんでいるのだと、私は勝手に想像していた。


ある時神谷さんより前に1番さんが来店して、店の1番客になった事があった。いつものように彼のワインセットを出し、もう何度観たか覚えていない、2005年のマスターズ、最終日の16番ホールでのタイガー・ウッズ奇跡のチップイン動画を観ていると、神谷さんが背中を丸めて入ってきて1番さんにちょっと会釈をして席に着いた。1番さんも笑いながら会釈をしたので、私はこの2人が知り合いだと気づいた。神谷さんは知人と挨拶を交わすのが煩わしいからと、いつも誰よりも早く来店し、入り口に背を向けて座る。たまに知人と一緒に来ても、外で「帰る時に声かけたりしないでください」と頼んでいるようで、入店してからは神谷さんの肩をたたいたり、回り込んで挨拶をする人などはいない。そういう人しか連れてこないのだろう。


神谷さんの赤ワインの準備をしてカウンターに帰る時に、初めて1番さんの観ている画面を見ることができた。それは想像通り小さな子供を撮った動画で、そこには1番さんも映っていた。優しい笑顔は今と変わらないが、髪の色や肌つやは今よりも若く、少なくとも5、6年ほど前の動画であろうと私は思った。子供はまだよちよち歩きだったが、1番さんに懐いているのは一目で分かった。一生懸命歩いてきて、抱き着く子供に向ける彼の顔は「好々爺」というのはこういうものだというような顔だった。


あまり後ろにいるのも悪いので、私はカウンターの内側へ戻り、奇跡のチップインで息を吹き返したタイガーが、クリス・ディマルコをプレーオフで下すまでを楽しんだ。3年ぶり4度目のマスターズ制覇だ。やっぱりタイガーは最高のゴルファーだと改めて思った。


その日は1番さんと神谷さんだけだったので、1番さんが帰ると私はやることが無くなってしまった。今日はここで飲んでしまおうかと、冷蔵庫へビールを取に行こうとした私を、神谷さんが呼び止めた。


「今のお客さん、君はどう思う?」


「え?神谷さんのお知り合いの方ですよね?」


「そうだけど、何しにこの店に来てると思う?」


「いや、遠く離れてるお孫さんの動画を誰にも邪魔されずゆっくり見たいから来てくれているんじゃないんですか?」


そう言うと神谷さんは苦笑いを浮かべ


「君の推理はある意味当たっているけど、全然違っている」


と、きっぱりと言った。


私は彼の言っている意味が全く理解できず、まるで禅問答のようだなと思いながら質問した。


「当たってるけど違っているってどういう事ですか?私にはさっぱり分かりません」


神谷さんは椅子を引いて座り直し、すごく悲しそうな表情で話し始めた。


「彼は古い知り合いで、この赤坂でいくつも不動産を持っている金持ちだ。一人息子はたいそう良い大学を出て国家公務員、政治家の娘さんを娶って将来は議員さん、上手く立ち回れば大臣かその上も狙える可能性もあるらしい」


それはそれは凄い人なんだなと思って聞いていると、更に彼は続けた。


「結婚してすぐ男の子が生まれて、彼は本当に幸せそうだった、もう思い残すことはない、安心して老後を楽しむと、会うたびに私に言っていた」


「言っていた」という過去形の表現が、これから明かされる悪い事に繋がっていそうで、私はもう彼の話を聞きたくなくなっていた。でも彼は話し続けた。


「お孫さんに重大な病気が見つかったのは、その子が歩けるようになってすぐの事だった。彼も彼の息子もお金は持っていたから、考えられる最高の治療を受けさせたよ。国内、外を問わずとにかく治る可能性がある治療法は、ひと通りやったと思う」


もう分かったからそれ以上は言わないでと私は思ったが、今日の神谷さんは饒舌だった。


「でも、結局はだめだった。その子は息を引き取る前に、覚えたての言葉で『じいじ大好き』と言ったそうだ。そんな別れ、信じられるかい?」


私にも辛い別れは何度かある。母親が3年前に他界した時は、本当にこの世の終わりかとさえ思ったくらいだった。でも、自分より年上の親や親戚を失うのとはまた違う、子供や孫を失う気持ちは想像すらできない。私なら、生きていけないかもと思う。それは1番さんも同じだった様で、一時期は周りが見ても明らかにおかしいと思うほどの発言や奇行もあったという。その波をなんとか乗り越えた彼は、孫と過ごした過去に生きるようになり、常に昔の動画を観ながら過ごす毎日だったそうだ。


その頃久しぶりに再会した神谷さんからこのバーの話を聞き、自分と孫だけの時間を過ごすためにここに来ていると神谷さんは教えてくれた。私がもし店の外で1番さんと顔を合わせて「いつも観ていらっしゃるお孫さん本当にかわいいですね、おいくつですか?」などと無神経な質問をして彼を傷つけない為に。


その話を聞いた時初めて「こういった場所も必要なのかも」と思ったし、もしかしたら神谷さんも何かそういった痛みの様なものを持って生きているのかもと考えさせられた。初めて来た日から半年経った今でも1番さんはいつもの席に座り、あの頃の思い出に浸りながら長い長いお別れを待っているのだ。私も神谷さんから注意されているので、絶対に悲しそうな顔をせず、笑って彼に「いらっしゃいませ」「有難うございました」と言い続けている。赤坂は今日も賑やかな顔を見せている。






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赤坂サイレントバー 秋海英世 @syuumi0525

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