第5話 make up Kir(仲直りキール)

今夜もカウンターに並んで座り、無言で携帯をいじりながら飲んでいる若い常連カップルは、初めて来た時から違和感満載のゲストだった。仕事を定時で終え開店準備をしていた私の耳に、店の外で何やら話す神谷さんの声が聞こえてきた。途切れ途切れに聞こえるその会話は、どうやらこの店の説明をしているようであり、相手はどうも複数の人間らしい。


以前から神谷さんが人を連れてきたことはある。このビルの2階で会計事務所を営んでいる毛利さん、近所の老舗酒屋の社長の日下部さんも神谷さんが連れてきて以来、何度も足を運んでくれる様になった。面白かったのは、ドアの入り口までは神谷さん達の話し声が聞こえていても、店に入った途端話すのをやめてそれぞれの席(神谷さんは専用のテーブル席、連れてきた方はカウンター席)に分かれて座り、帰るまで一言も口を聞かない事だ。神谷さんが帰る際、そのことについて触れたところ


「私は自分から進んでこの店の宣伝をしたり、誰かを招待したりはしない。けど向こうから(この店の事を知って)行きたいと言われれば案内するよ。おしゃべりは厳禁だけどそれでも良いって人だけね」


と言っていた。なのでその日も、神谷さんの後から物珍しそうに周りを見ながら入ってきた男性と、下を向いて少し不機嫌そうな女性を見ても神谷さんの息子さんの友達か何かかな、と、特に気にする事無く注文を聞いた。男性がビールをお願いしますとよく通る声で答えるのとは逆に、女性は「カクテルを」と下を向いたままぶっきらぼうに言った。私が「ここはカクテル置いていないんです」と言おうと口を開こうとした時、神谷さんが手を挙げながらこちらに歩いて来るのが見えた。


そのまま彼はカウンターに入り、ワインセラーから1本のワインを取り出し、慣れた手つきで栓を開けワイングラスに注いだ後、冷蔵庫からリキュールの瓶を出してきて白ワインの上から注ぎ、マドラーでステアした後


「この店はカクテルは出さないんだけど、ちょっと珍しいアリゴテが手に入ったので、自分で作って飲もうと思ってカシス・リキュールを用意しておいたんだ。今夜飲むつもりはなかったので、グラスまで冷やしていなくて申し訳ないが、特別に君にごちそうするよ。『キール』というカクテルだ」


と、ちょっと気取った仕草で女性の前にグラスを置いた。女性は少しだけ笑みを見せて神谷さんに頭を下げ、また下を向いてしまった。神谷さんにはいつものワインセットを、男性にビールとグラスを出してしまうと、当面私の仕事は無くなる。そこで私はキッチンスペースからカーミットの椅子を少し移動させ、2人の事を観察することにした。


大学生と言ってもおかしくない若いカップルと神谷さんの関係も知りたかったが、なによりこの2人がどういう関係で、この店で何がしたいのかが分からなかった。そもそも付き合っているのかも・・・・


男性はグラスのビールを一息で飲み干して少し長めのため息を漏らした後、なにか言いたそうに女性の横顔を見ていた。私は彼が本当に何か言い出したらどうすればいいのかとヒヤヒヤしながら彼を見ていた。神谷さんと私の間で決めたルールでは、思わず出てしまった独り言などはやんわり注意するか無視してもいいが、誰かに話しかけたりした場合は、その時点で帰っていただく(お代は頂かず、その後は出禁となる)というものだったので、彼が口を開いて彼女に話しかけた時点で出て行っていただくことになるが、私はもう少し彼らを見ていたかったので、彼が口を開こうとした時になにかの方法で口を閉じさせようと思っていた。


彼は結局口を開かず、もう一度ため息をついた後に携帯を取り出し、猛烈な勢いで何かを打ち込み始めた。「最近の子は両手で文章打つんだな」と思ったのもつかの間、彼女の携帯が震え、何かの通知を告げた。はっとした彼女はしかし、すぐには携帯を見なかった。神谷さんの作ったキールをもったいなさそうに少し飲み、スワリングの様にグラスを回した後、意を決したように携帯の画面を見た。10秒、20秒、たっぷり時間をかけて画面を凝視した後、彼女もまた大変早いタッチで何かを入力し、長い時間をかけて画面を見て、恐る恐ると言った感じで人差し指で送信ボタンを押した。(画面を見ていないのでこれは私の想像だが、きっとそうだと思う。直後に今度は彼の携帯が震えたから)


彼はすぐに携帯の画面を凝視し、ハッとしたように彼女の方に顔を向け、先ほどと同じように素早く両手で文章を打って送信、受け取った彼女は時間をかけて彼の文章を読み、時間をかけて返事を打ち込み、そっと送信ボタンを押す。彼らはこの静かな空間で、言葉ではなく文字で会話しているのだ。彼らの表情や態度から推測すると、決して楽しい話題ではなさそうだが。


この異常なシチュエーションが味方したのか、彼(もしくは彼女)の作る文章が素晴らしかったのか分からないが、40分ほど携帯をいじっていた2人は明らかに表情が変わり、本来の恋人同士に戻っていった。現に彼女がびっくりした様に残ったキールを指さして、一気飲みした後で2人は笑い合い、そして彼女が短い文章を彼に打った。その文章を見るなり彼もハッとして、私に向かって口を開いた。


「すみません。LINEに夢中で全然飲まなくて。実は僕たちここに来るまで喧嘩していたんです。で、ビルの前であの方(神谷さんの方を見て)に声をかけていただいて1杯ご馳走するから中で飲んでいきなさいって誘っていただいて・・・でも、さっきやっとお互いの誤解が解けて仲直りしました。今から飲みますのでもう1杯ずつ」


そこまで聞いた後、わたしは手のひらを彼の前に出して言葉を制し、2人に向かって言った。


「この店は私語厳禁なんです。ため息とかつい出てしまった独り言はセーフなんですが、人に話しかけたらアウトです。」


彼は「えーそんなぁ、1杯目もご馳走して頂いたので、僕たちまだ自分のお金で何も飲んでいません。ちゃんとお金払わせてください。これからは一言もしゃべりませんから」


「そうは言ってもこの店のルールですので」


「じゃあ1杯目の分は払わせて下さい。お願いします」


と、かれは若者に似合わない深々と頭を下げるお辞儀をした。


「いえいえ、しゃべった方には元々お代はもらわずにお帰りいただいておりますので、今日のところはこれでお帰り下さい。で、今夜はたくさん話をして、いつかまた2人で来てご自分たちのお金で飲んでください」


私が言うと、今度は2人で頭を下げて、申し訳なさそうな顔をしながら店を出て行った。その後、帰り支度を始めた神谷さんに向かって私は頭を下げ言った。


「すみません。なんだかあの2人が好きになってしまって、出禁にするの忘れてしまいました」


すると神谷さんは


「彼らは私がご馳走したものだけ飲んで、自分たち(のお金では)注文していないんだから、正確には客ではない。なのでギリギリセーフって事で」


と笑いながら言って


「今日女性に出したキールってカクテルは、白ワインにカシス・リキュールを入れて作るんだけど、カシスの花言葉って知ってる?」


と聞いてきた。そういう類は全く疎い私は「さぁ、なんなんですか?」と神谷さんに尋ねた。


「カシスの花言葉は『あなたを喜ばせる』という意味と『あなたの不機嫌が私を苦しめる』なんだよ。今日の2人にぴったりじゃない?」


と、今まで見た事のないようないたずらっぽい笑顔で出て行った。1人になった私は先ほど神谷さんの作り方をまねてキールを1杯作って飲んだ。さわやかな酸味のそのカクテルは、若い恋人同士にぴったりの味だなとつくづく思った。

                              make up Kire 完

                          






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