第4話 トワイスアップ(泣くヒロイン)②

その日も朝から雨が降っていた。週に一度か二度顔を出して薄い水割りを何杯か飲んだ後店の酒の在庫を見て帰る、街の中心近くにある酒屋(創業は寛永元年だそうだ)のご主人もこんな日は顔を出さないだろうから、今日はきっと早じまいだなと考えていたところに、昨日の女性がドアを開けた。スターは雨さえ避けていくのか、赤いワンピースには水滴一つ付いていない。そして最初から決まっていたかのように、1つしかない予約席に座り、右手だけカウンターに置いた。


「いらっしゃいませ」の言葉にうなずくでもなく、注文を言うでもなかったので、私は昨日と同じ銘柄を昨日と同じトワイスアップで作って彼女の前に出し、またもや厨房の奥に引っ込んだ。この店は以前、この辺りでも評判の良い洋食屋だったようで、カウンターの奥にはしっかりスペースを取った厨房があって、冷蔵庫や冷凍庫なども大型の業務用が置かれたまま居ぬきの状態になっていた。年配の夫婦が切り盛りしていたこの店は、4年前に店を閉じた。空前絶後のパンデミックが夫婦に店を続ける熱意を奪い、緊急事態宣言の何日か後にあっさりと引退を決意させた様だった。


本来なら原状回復(店を空にして返すこと)が契約解除の基本だが、先の見えない世の中でこれからのご夫婦の生活を考えたのと、いずれ自分が思うような酒場を開くかもという淡い期待も込めて、まさに居ぬきで契約を終了し、ご夫婦には大変感謝されたと聞いた。あの頃は閉店する飲食店が多く、厨房機器などお金を払っても引き取ってくれない状況だったらしい。


その広い調理スペースは(食事を一切出さない)今の状況では無用のものとなったので、私は昔かなり無理をして買ったカーミットのビンテージチェアを持ちこんで読書スペースとしていた。大型冷蔵庫には外国産の瓶ビールが数本と、店が終わった後に私が飲むクアーズが入っているのみで、ほとんどスペースが空いている。私も本当は日本のビールが良いのだが、神谷さんの趣味で外国の酒しか置かないとの事なので、昔学生時代に流行った漫画の主人公が必ず飲んでいたクアーズの缶ビールを、1本か2本仕事終わりに飲むのが習慣となった。


厨房(という名の休憩スペース)で携帯を取り出し、女性の今日の服装から思い出したチャンドラーの「赤いドレスの女」の冒頭部分を読んだりしていたら、コツコツとカウンターを叩く控えめな音が聞こえたので、私はカウンターへ戻った。そこには昨日と同じように涙で頬を濡らしたヒロインがおり、目の前のグラスは空になっていた。コースターは白いままで、女性はずっと下を向いているだけだったので、同じものを作って出し、今度は奥に行かずカウンターに残って仕事をしている振りをしながら女性を観察した。


ひとつところをずっと見つめながら、女性はさめざめと泣いてはグラスに口をつけ、また大粒の涙を流してはトワイスアップを飲むのだった。私は今朝のニュース番組で目の前にいる女性を見ていたので、信じられない思いでいっぱいだった。女性は来月からの主演舞台を控え稽古の真っ最中という事で、大変だけれども素敵な共演者とスタッフに囲まれて「毎日笑いが絶えない楽しい現場」で「充実した日々を送っている」と話していた。その笑顔はまさにこの世の全ての人を虜にするような眩しいもので、その何時間か後にこの世の終わりのような顔で涙を流しているなんて想像もできなかった。


仕事、人間関係、金銭関係や日々のストレス。考えられる要素はたくさんあるが、あれだけ長い時間、それも連日泣ける要因となるとどれも薄い気がした。どんなに辛いことや嫌なことがあったとしても、ああは泣けないんじゃないかと思った。そこで私が考えたのは「大切な人やもの(ペットなども含む)を失くした」という事だった。その日、女性が3杯のトワイスアップを飲んで帰った後、私はネットで彼女の事を調べてみた。だが、少なくともネット上では女性に悲しい出来事があった記録はなく、むしろ仕事も順調でSNSには華やかな日常がアップされている、庶民から見たら「うらやましい」の一言に尽きるような生活を送っている様だった。


それからは2日と空けず女性はこの店に来て、1時間ほど泣いて帰るのが常となった。予約席は女性の指定席となり、他の客の関心を引かないようにと神谷さんはカウンターの彼女の隣のスペースに、衝立代わりの観葉植物を置いた。私もいつしかこの「泣くヒロイン」が日常の一部となり、泣く理由なども気にならなくなった。何より毎日のように画面で見る女性が目の前で飲んでいるというのにも、非日常な感じで心地よかった。


女性が店に来るようになってそろそろ1ヶ月が経とうとする6月の初めに、彼女は突然の婚約発表をした。主演の舞台が終わる6月末に身内だけの結婚式を挙げ、少しづつ仕事をセーブし来年中には引退すると、たくさんのマイクの前で満面の笑みで話していた。その会見の前の晩にも彼女はカウンターに座って泣いていたというのに・・


信じられない思いでテレビ画面を眺め、私は本業である会社へ出勤した。朝からその話題で持ちきりで、それから何日も何日もその話題は続いた。それから女性はこの店に来ることはなくなり、また神谷さんと私だけの時間が増え、それにも慣れてきた6月の下旬の寒い雨の日に彼女はまたドアを開けて入ってきた。状況が整理できずに「いらっしゃいませ」も言えない私に大きな花束を見せ「千秋楽に貰ったんですけど、家まで持っていくのが面倒なので」と、以前自分が座っていたカウンターの席に置いてから「いままでどうもありがとう、助かりました」と言って出て行った。


「The nicest thing about the rain is that it always stops.Eventually」


神谷さんが女性が出て行ったドアに向かって声をかけた


「どういう意味ですか?」と私が聞くと


「雨の一番良いところっていうのは、最終的にはいつも降りやむところなんだ」


と言った。意味が分からなかったので「古い外国のことわざですか?」と、気のない質問をすると彼は「いや、クマのプーさんに出てくるイーヨーっていうロバのぬいぐるみの言葉だよ」と笑った。神谷さんとプーさんの組み合わせもおかしかったし、最後に見せた彼女の笑顔も大変に魅力的だったので、私もつられて少し笑った。 

                     トワイスアップ(泣くヒロイン) 完















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