第3話 トワイスアップ(泣くヒロイン)①

私と神谷さんは、まだ何一つ揃っていないバーのカウンターで何度も話し合った。彼の理想は「誰も一言も口を聞かないバー」ただそれはあまりにも無理がある。彼がタンジェでで見つけたバーの様に、リボルバーで強制的に客を黙らせることなんて出来はしないし、なにかにつけて多少は話さないと無理な場面も出てくるだろう。そこで彼が妥協できるギリギリのルールが出来上がった。


・「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」は口に出して良い

・店のドアに店のコンセプトを書いたタペストリー(かプレート)を目立つように付けるが、初見の客には入口のところでコンセプトを説明し、理解してもらうのも可

・1杯目のオーダーは口頭で聞き、2杯目からはコースターに書いてもらう(コースターは都度変える)


店内で口を聞くのは上記のみとし、守れない方や破った方にはお帰り願う。また、新規の客がたくさん来ると面倒なので、外に看板は出さず入口までの階段の電気は消しておく。客商売からしたら考えられない様な店はだんだんと形になっていった。L字型のカウンターに座席は6、そのうち1席だけがLの短い面にあり、そこはいつも予約席にしておくつもりらしい。素人目に見てももう2、3席は増やせそうに見えたが、隣との距離が近すぎて「お喋りでもされたら敵わん」と神谷さんは言った。


カウンターの後ろにはテーブル席が1つ。椅子は2脚置いてあるがここは神谷さん専用なので、彼が店にいなくても誰も座らせない。なので6人入れば満員という事になる。


初めは本当に私と神谷さんの2人だけで、彼はテーブル席に据え置きのPCで映画を観ながら1階のレストランから届けて貰った料理で食事をし、ワインを飲んで2時間ほどで部屋に戻る。(律儀に清算はきちんと済まして帰る)料金は1杯1,000円。何をどんな飲み方で飲んでも一律で、これはお釣りを用意するのが面倒というのと、料金を計算する電卓なりレジなりの音も煩わしいという神谷さんが決めた事で、私も楽で良いので大賛成だった。(しかし後になって分かったのだが、店内にある神谷さんが選んだアルコールは1杯1,000円ではお得な銘柄だという事だった)


私はと言えば、最初にワインボトルとグラスを出してしまった後は何もすることがなく、カウンターの予約席で本を読んで過ごした。酔ったら何か話しかけてしまいそうなので、酒は飲まなかった。私は、きっとこの店が満員になる事なんて、店が閉店するまで無いだろうと確信していたが「蓼食う虫も好き好き」とはよく言ったもので、開店から3か月もすると客が入り始めたのだ。


その女性は開店からもうすぐ3か月になる5月の連休明けから店に来るようになった。珍しく一日中雨の日の夜に店のドアを開け、私の説明を黙って聞いて頷いた彼女は迷わずカウンターの端の1席しかない「予約席」に座り、私が一度も飲んだ事のないシングルグレーンウイスキーの名を告げた。飲み方はトワイスアップ、ウイスキーと同量の天然水を常温で注いだもので、香りを楽しむには最適な飲み方だと言われている。(神谷さんからの受け売り)何も言わずひと口飲んで息をつき、唐突に彼女は泣き始めた。


私はカウンター越しに彼女が泣くのを眺めていた。声を出したりしゃくりあげたりするでもなく、しかしほろほろと流れ落ちる涙を拭こうともせず虚空を見つめているその顔は、私の見たことのないものだった。彼女はテレビをあまり観ない私でも知っている有名な女優で、「国民的ヒロイン」と言えばたいていの人が彼女の顔を思い出すだろうと私は思う。そしていつでも彼女は、目の覚めるような華やかな笑顔を浮かべている印象しかなかった。私はなにか見てはいけないものを見てしまった気がして、隠れるように厨房の奥へと引っ込んだ。あの様子ではすぐにはグラスが空かないだろうから、少ししてからカウンターに戻れば彼女は何事も無かった様にすました表情に戻っていると思ったからだ。


読みかけの本を10ページほど読んで15分弱でカンターへ戻ると、まだ彼女は泣いていた。グラスは空になっており、コースターには先ほどと同じ銘柄と「トワイスアップ」とやや右肩上がりの文字で書いてあり、私はもう一杯作って彼女の彼女の前にグラスを置き、また奥へ引っ込んだ。今度も15分ほど時間を潰して戻ると、果たして彼女はまだ泣き続けており、グラスは空いていた。その後2回、私はトワイスアップを作って、1時間ほどで彼女は店を出て行った。その後姿を神谷さんが見ていたので、彼が帰る時に私は


「彼女はどうしてずっと泣いていたんでしょうね?」


と、聞いてみた。彼は笑いながら私を見て


「そんなの私に分かるわけないだろ」


と言った後


「でもこの店の使い方を彼女は良く分かっているね」


と、独り言のように小さな声で呟いてから、背中を丸めて帰っていった。そして彼女は翌日も、ひっそりとドアを開けて入ってきた。



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