第2話 静かな出会い

神谷さんと私はここ赤坂で知り合った訳ではない。(さほど大きな街ではないので、すれ違った事くらいはあるだろうが)日本橋三越前の大通りから2本くらい奥まった場所にある、賑やかな女性2人が仕切っているイタリアンレストランで、いつも彼はワインを飲んでいた。


日本橋で仕事が終了という事が結構あり、ぶらりと立ち寄ったその店が気に入ったのは、料理の美味さもさることながら、店の雰囲気というか接客が気に入ったからだった。その店は奥にボックス席が1つあるだけで、あとはカウンターのみ。ぎっちり座っても30人は入れないくらいの店で、19時を過ぎるとほぼ満席で予約なしでは入れない。どちらかが店長でどちらかが副店長といった女性2人は大変明るく快活で、2回目くらいのお客でも常連さんの様に扱ってくれるところも人気の秘密なのだろうが、私の様に「おしゃべりはちょっと苦手」な客は、こちらから話しかけるまで放っておいてくれる気づかいが出来る人たちだった。


そうはいってもカウンターなので、隣の客に話しかけられる事も無くはない、だから私は18時前に店に入れる時しかその店には行かなかった。赤坂もそうだが、日本橋の18時はまだまだ夕方くらいのものらしく、その店もいつも嬉しいくらい空いていた。


私が店のドアを開けると、入り口にいちばん近いカウンターに神谷さん(当時は名前は知らなかった)は座って、PCで映画を観ながらキーボードで何かを打ち込んでいた。18時に行っても17時半に行っても先に彼がいて、いつも同じように静かに飲んでいた。私も誰かに話しかけられたくないのを知っているので、店の方が案内してくれるのは彼の真反対、入り口から一番遠くにあるカウンター席だ。ちなみにこのカウンターはL字型になっており、私の席からは神谷さんがよく見えた。私は本を読むか音楽を聴きながら何杯か飲み、その合間にたまに彼の事を考えた。


服装や佇まいを見ていればお金に余裕があるのは分かるが、彼も店にいる間ほとんど口を開かないので、何をしている人なのかさっぱり分からなかった。彼も私も店が混む前に帰るので、彼が先に帰ったり私が先に席を立ったりしてはいたが、当然ながら会釈などの挨拶も皆無で、私にとっては「顔を知っている」程度の人だった。


その日も京橋で仕事が終わり、歩いていくと店にちょうど18時には着けると思ったので、寄って帰る事にした。春にしては少し汗ばむような気温の夜で、それでも私は少し早足で歩いた。店へ着くと「臨時休業。しばらくお休みします」の張り紙があり、冷えた白ワインを楽しみにきた私はこのまま帰るのも惜しい気がして、近くにあるオープンテラスのイタリアンレストランで我慢することにした。


その店にはカウンターは無く、すべて2人、もしくは4人掛けのテーブル席だった。店に入りさてどこにしようかと店内を見回すと、知った顔と目が合った。神谷さんだった。とっさに私は会釈をし、彼はそれが当然のように私を自分の前の席に座るように右手で促した。私もあまり疑問に思わずに彼の前に腰かけて、メニューも見ずに予定外のドラフトビールを注文した。彼は本日臨時休業のイタリアンレストランに居る時と同じようにPCで映画を観ており、目の前にはワインクーラーに入った白ワインが置いてあった。


「あの店ではワインを残してもキープしてくれるからいつもボトルで注文するんだけど、この店はだめらしい。1本は1人で飲めないなと困っていたところに君が現れたから嬉しかった。良かったら一緒に飲んでもらえないかな?」


初めて聞く彼の声は想像していたより若々しくて、ひょっとすると私の想像より5歳くらい若いのかなと思いながらあいまいにうなずくと、彼はつづけて


「君もあの店に行って張り紙を見たけど帰る気になれなくてここに来たんだろ?振られたもの同士今日はここでのんびり飲もうじゃないか」


と言って笑った。私も笑って


「そうですね。何年か通っていますがこんな事初めてですよ。なにかあったんですかね?」


と彼に聞いた。昨日もあそこで飲んでいたが、変わった事は無かったと彼は首をかしげ「まぁ、店じまいとかって事はないだろうから大方風邪で寝込んでるとかそんな事ではないかな」と彼は言い、店員に私の分のワイングラスを注文した。ご馳走になるだけでは悪いので、私は2人で食べられる軽食を何品か頼んで、奇妙な宴会は幕を開けた。


話してみると彼の話は面白く、私たちは大いに盛り上がった。私もなんだか古い友人と飲んでいるような気になって、酔いも手伝って自分の事をたくさん話してしまっていた。最近、離婚して持っていたマンションを売りに出している事。もう子供も大きく同居の必要がないので、今住んでいる街は出ようと思っている事。会社が赤坂なので、赤坂に住むか趣味のゴルフの為に茨城県に住むのもいいかなと思っている事。(赤坂に止まる千代田線は常磐線と乗り入れている為、茨城方面からも1本で通勤できるし茨城県はゴルフ場もたくさんあるので)


私の話を最後まで聞いた後、彼は笑顔を崩さず私に尋ねた


「君はいつもあの店で、黙って飲んで帰るじゃない、それはどうしてなの?」


話題の変化にちょっと驚き、少し考えてから私は答えた


「私はもともと人見知りで、よく知らない人とおしゃべりするのが好きじゃないのと、1人で飲んでいるときは話しかけられたくないって気持ちもありますかね。仕事では人と話す機会が多いので、プライベートは黙っていようというか・・・」


「では、長い時間黙っている事は苦痛ではない?」


「はい、もちろん。あなたもご存じだと思いますけどね。あれほど人懐っこくておしゃべりな店員さんたちがいるあのお店でも、私はほとんどしゃべりませんから」


彼は声を出して笑ってから「あの店でしゃべらないのは私と君くらいだもんな」と言ってもう一度笑い、今度は少し真剣な顔になって私に言った


「赤坂で私が持っている部屋が空いているから、そこに住まないか?」


その時初めて彼が赤坂の住人と知り、こういうのも縁だなぁとは思ったが、赤坂の家賃がどのくらいなのかもよく知っているので私はちょっと躊躇した


「いや、さっきは赤坂に住もうかなとは言いましたが、ほんとに外れの地区の家賃が安いあたりにしようと思っています。1人なので狭くてもいいし」


「いやいや、家賃は要らないよ、ずっと空いているんだから、その代わり電気とか水道とかは自分で契約してくれ」


もうこの手の話は酔っ払いの戯言だなと私はすっかり白けてしまい、まともに相手にしないで早く退散しようと思い始めた時、彼はもう一つの提案をしてきた。むしろこっちがメインの話だった。


「家賃は取らない代わりに頼みがあるんだ。そのビルの地下でバーをやってくれないか?開店前の費用も一切私が持つので」


この人はバーのオーナーになりたがっている。そしてそこを切り盛りするバーテンが欲しい。要するに私は住み込みのバーテンというわけか、それなら家賃なしも少しは納得がいくなと思いながら、私はこの話を終わらせようと思った。


「大変ありがたい話なんですが、私には無理ですね。まず私は会社員で、定時で帰れたとしてもその店に入れるのは18時過ぎです。仕込みなんかする時間ありません。そしてもっと大事な事は、私は飲食業の経験はありません。酒の種類もろくに知りません。次の日の仕事の事を考えたら夜更かしだってごめんです」


怒っているわけではない、むしろ心の中ではちょっとやってみたいという気持ちさえある。ただ、現実的に無理なものは無理だ。


「土日限定のバーとかなら、考えないこともありませんがね」


少し前向きに考えている心が口から出てしまって私は苦笑いしたが、彼は静かにこう話した


「食べ物は一切出さなくていい。カクテルも出さないし酒の種類も覚えなくていい。仕入れも必要ない。営業時間だがね、私がいる間だけ開けてくれたらいい。そうだな、、、18時から20時か21時くらいまで。どうだい、一度会社の帰りにでも見に来ないか?君が住むことになるかもしれない部屋と、立つことになるかもしれない店を」


次の週末に私は彼のビルへ行き、部屋と店とを見せてもらい、一緒にビールを飲んだ後この話を受けることにした。そしてその後、赤坂見附駅近くのルノアールで彼が考える店のコンセプトを聞いて、開店までずっと頭を悩ませる事になる。        

                              静かな出会い 完






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