赤坂サイレントバー
秋海英世
第1話 SILENT BAR AKASAKA
そのバーは赤坂の繁華街から少し離れた、そう、歩いて5分ほど離れた場所にある。それなのに赤坂の喧騒とは無縁の静けさで、本当に赤坂なのか?と思うことも少なくない。一ツ木通りから円通寺通りに入り、少し坂を上がった右側の地区、住宅やマンションが立ち並ぶあたりの細長い5階建てのマンションの地下で、1階にはスペイン人とイタリア人夫婦の営むレストラン「トラットリア・バル」がある。2人とも料理人で、店の名前をスペイン人の夫は「バル」と名付けるつもりで、イタリア人の妻の方は「トラットリア」と名付けるつもりで業者に看板(といってもドアに吊るすような小さなもの)をオーダーしてしまい、仕方なく2つ吊るしていたら客のほうが勘違いして「トラットリア・バル」と呼び始めたものだから、そのまま店名になったと神谷さんから聞いた。
神谷さんはこのビルのオーナーで、地下にある「SILENT BAR AKASAKA」の経営者で、さらに雇われマスターである私の大家でもある。私はこのビルの5階にある、かつて神谷さんの息子の部屋だった2DKに住み、昼間は赤坂にある会社でサラリーマンとして働き、退社後の18時から神谷さんが自宅に帰るまでの時間をこの店で過ごすという生活を1年近く続けている。
神谷さんは4階部分を住居としており、お手伝いさんに家事を任せて昼間は仕事のようなもの(神谷さん曰く)をし、夕方になるとこのバーでワインを飲みながら夕飯を取り、映画を1本観てから帰るという生活を送っている。映画はいつも外国語で、英語だったりフランス語(のように聞こえた)だったりするが、どんな内容なのか私は知らない。昔欧米で仕事をしていたという事と、このマンション以外にもいくつか建物を所有していること、奥方を何年か前に病気で亡くし一人息子が外国にいるという事は聞いたから知っているし、お金に困っていないのは分かっている。なにせ私の住んでいる部屋の家賃はゼロ、この店の売上で酒屋の支払いだけ済ませたら「あとは君に差し上げる」と言って私を驚かせたくらいだから。週末の夕方、」赤坂見附駅の近くのルノアールで私は彼に聞いた
「電気水道やその他の経費はどうするんですか?」
と私は至極まっとうな事を聞いたつもりだが、彼は
「ここの光熱費は私の部屋と合算で払っているから今更分けるのは面倒だし、この店で商売するつもりは、はなからないんだ」
と、またも私の理解を超えた答えを言い。そして更に難解な提案を彼は話し始めた。
「私はね、おしゃべりNGなバーを、君にやって欲しいんだよ」
「おしゃべりNGって、客同士がしゃべっちゃいけないって事ですか?」
「いや、君もしゃべらない、誰もしゃべらないバーだ」
そんな事できるはずがない。「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」も言わないのか?注文はどうする?2人連れとか3人連れは入れないって事か?私の頭の中は疑問だけが次々と浮かんでくるが、どういう店なのかは想像もつかなかった。しばらくの沈黙の後、神谷さんは静かに、本当に静かに話し始めた。
「若い時にモロッコに仕事ででかけてね、タンジェという港町で何泊か滞在した時に、そのバーを見つけたんだ。タンジェは決して寂れた町ではなく、賑やかでちょっと危険な街で、アジア人の観光客などはあまり近づかない。夜も物騒なんだが若いころの私はなぜかそういうのも平気でね、地元の人しか行かなそうなレストランやバーで食事をするのが楽しみだった。そして何日か経ってくるともう少しマニアックな店を見つけたくなり、裏道にある1件のバーを見つけたんだ。その店の名は「スクーツ」ドアにペンキで大きく書かれていた。その言葉はモロッコの言葉で「黙れ」の意味で、普段は使わないような強い言葉だ。私はモロッコにいる間に、誰かがその言葉を発しているのを聞いたことがない。」
「恐る恐るドアを開けて、カウンターの中年男性に店の名前(かドアの落書き)の意味を聞こうとしたところ、男性は人差し指を唇に当て、彼の前のカウンターに目を落とした。つられて私も見ると、そこには大きなリボルバーが置かれていた。驚いて顔を上げ私に少しだけ微笑んで、彼は軽くうなずいた。」
私は全く意味が分からず神谷さんに尋ねた
「リボルバーって、警官とかが持っている拳銃のことですよね?それをどうするって言うんですか?」
「男性は一言もしゃべらないから今でもその答えは分からない。でも私はその時、あぁ、この人は『しゃべったら撃つぞ』って伝えたいんだな、って思ったよ」
「そんなの無茶苦茶じゃないですか。それで神谷さんはどうしたんです?とりあえず店の外に出たんですか?」
「いや、私はカウンターに腰かけて、男性の後ろにあった酒棚の適当なウイスキーを指さして、指を1本立てたんだ『1杯ください』のつもりで」
「それで?」
「男性はまた軽くうなずいて、氷を入れたグラスにその酒を入れて、私の前に置いた。そして今度は私の左側に顔を傾けて見せた。そこにはウオーターピッチャーとグラスが置いてあり、きっと水が入っていたんだと思う『飲むなら自分でやれ』って事だろうね」
神谷さんは面白そうに笑って
「そういえば1度も飲まなかったから、それが何だったのか分からないな、飲んでおけばよかった」
と言った。私は少々呆れてしまい、少しバカにしたように尋ねた。
「そんなところで飲んで面白いんですか?私は嫌だなぁ。かえって落ち着かないですね」
「私も最初は落ち着かなかったさ。1メートルも離れていないところにリボルバー、おまけに相手は何もしゃべらない。他に客なんていやしない。1杯か2杯飲んだら普通よりかなり多めのお金を置いて帰ろう、で、こんな店で飲んできたんだと同僚に自慢してやろうってね、もう肝試しと同じ気持ちさ」
そう言うと神谷さんはすっかり冷めたコーヒーを一口飲んでちょっと苦そうな顔をしてからさらに続けた。
「でも2杯目を半分くらい飲んだあたりでね、ふと自分がやけにリラックスしている事に気が付いたんだよ。誰の声も何の音も聞こえない空間がやけに居心地良くなってね、結局その店に2時間居た。そして日本に帰るまでの数日間、毎晩そこで酒を飲んだ」
そこまで聞いても私は神谷さんがなぜその店を気に入ったのかが理解できなかった。客は1人もいないバー、音楽も、しゃべり声も聞こえず、目の前には口をきかない異国の男性と拳銃。どこが落ち着くシチュエーションなのか分からなかった。
「何年か経って再びタンジェを訪れた時、私は夜になるのが待ちきれなくて夕方早い時間にその店を訪れた。しかしその店は無かった。無かった訳ではなかったが、もうそこにはドアも酒棚もカウンターすら無く、ただの空間になっていた」
それを口にした時の神谷さんは本当に悲しいような、悔しいような顔をしていた。こういったら失礼だけど、奥方が亡くなったと言った時と同じような表情に見えた。
「それから色んな国でいろんなバーで酒を飲んだけど、あのバーより寛げた店は無かった。だからこの店の店子が出て行って、君に会った時に『ここで理想のバーを開こう』と思いついたんだよ。だからお金なんていらないし、なんならお客さんも来なくてもいいんだ」
神谷さんのこの言葉から、私がカウンターに立つ「SILENT BAR AKASAKA」は産声をあげたのだった。
SILENT BAR AKASAKA 完
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