34話  阿加保(あかほ)の里

 阿加保あかほ里長さとおさと名乗った男が立ち止まると、隊列も止まった。

「お犬さまがあるじに会えて、安堵あんどいたした」

 里長さとおさの日焼けした目元に、くしゃりと深い笑いじわが寄る。


「あなたさまが、保知ぽちを預かってくだすっていたのですか」

 シェマは、感謝の気持ちでいっぱいになった。


「いえいえ、滅相めっそうもあらへん。お犬さまがお立ち寄りくだすったんや」

「お犬さま」

 シェマは、保知ぽちをふりかえった。保知ぽちは、ぴんと尾を張って誇らしげに舌を出して、「わしもひとかどのものになりましたでしょう」というように、はっはと息を吐いた。


「ぽち、神のハシクレ。言祝コトホグ」

 赤土のかたまりのように立っていたカグツチがしゃべったので、何人かの男たちが、ぎょっとした。


「今日は五之宮いつつのみやの神事の日。村総出で祝うんや。まれ人(客人)は歓迎します。村へお越し下され」


 願ってもない。満ち潮になるまでに、シェマたちは五之宮いつつのみやをあとにした。一度だけ、ティフィンは、うしろを振り返った。

(わがひもを結びせむ)

 昨夜のことを思い出そうとしたが、もはや、ぼんやりとしていた。神の御姿は、そのそばを離れるともやがかかったように思い出せなくなる。残るのは、その匂い、触れられた指の感触、吐息のようなものしかない。それも、いずれ失せる。


 海のみちを歩きだしたティフィンの背中を、シェマは見ていた。自分の中のユーフレシア皇子は、ふて寝している。ティフィンに声をかけてもらうのを待っているのに、ティフィンは考え事をしている。それで、ふてくされて寝たふりをしている。

 そんなユーフラテス皇子を、シェマは少し、かわいいと思った。

 ユーフラテス皇子は、五之宮いつつのみやの神からティフィンを取り戻そうと必死だった。

(好き、ってことなのかな)

 むずがゆくなった。

『悪いか』

 すぐに、内から返答があった。

(いいえ)

 シェマが嘘いつわりを申していないことは、ユーフレシア皇子にも、わかっている。

 心根の底でつながっている、ふたりは心をごまかせない。だから。

『叔父上、ティフィンを誘ったりしないでくれ』

 めずらしく神妙に、ユーフレシア皇子が言う。

「誘ったり? していませんよ」

『叔父上は気がついていないだけだ』

 ユーフレシア皇子は少しいらついたようだ。

「すいません」

 こんなとき、シェマは謝ってしまう。

 修道寮しゅうどうりょうでも、そうだった。先輩学生の言葉にとげがあるとき、シェマは対処法として謝ってしまう。その態度が逆に相手をイラつかせることを知らない。



阿加保あかほの地名は、この地の水辺に生える赤いタデの穂に由来する言いまして。さ、まず、のどをうるおしてくだされ」

 里長さとおさは館の広間の上座にシェマたち一行を据えさせて、椀に並々と清水の水を注いだ。

 上座に座っているのは、シェマを真ん中に右にティフィン、左にカグツチだ。保知は、自ら遠慮して土間辺りにいるとした。そこで、里長さとおさの、まだ幼い子らに背中の毛並みをなぜられて、ぺろぺろとなめ返していた。


「おいしいです」

 シェマは椀の水を飲み、ほっと一息ついた。ティフィンもだ。その水の清浄さに驚いていた。

「清水ですか。この海岸寄りの土地では井戸を掘っても海水が染み出すと思っておりました」

「おっしゃるとおりにございます。ここは、河口の水にも海水が混じりましてございます」


 シェマは目を丸くした。

「では、川の上流におもむいて水を汲んでくるのですか。それは大変ですね」

 修道寮しゅうどうりょうで、シェマは水汲みの手伝いもしていた。さすがに川から汲んでくることはなかったが、きれいな水を調ととのえるのは、地味に大変な作業だと知っている。


「いんや、いんや」

 里長は、満ち足りた笑みを浮かべた。

「井戸の水神みずがみさまをたてまつってから、この阿加保あかほの里の井戸だけは、澄んだ真水が湧くのでございます」

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