もう一つの20世紀 (Alternative 20th Century)

無名の人

もう一つの20世紀 (Alternative 20th Century)

カルロ・ロヴェッリの著作をいくつか読んだ。古代ギリシア以来連綿と続く正統派の「自然哲学」の真髄に触れたような気がした。内容に深入りするのは別の機会に譲るとして:


「妥当な相対情報」を「関係」だけからなる世界の内側から見たとき、「状況に埋め込まれた自己 (situated self)」としての「意識」や「意味」が物理的な構造の中から「現象として生じる」・・・・・・「関係」しかないという意味において「何もない」世界から、非可換性ゆえに相互作用を介して無尽蔵に生み出される「新たな関係」が状況依存的にユニタリー発展していく「過程そのもの」が「世界の実相」であり、そのような「時間」も「物質」も根源的には「存在しない」世界から、「現象」としての「意味」「意識」「記憶」「時間」「物質」が「生成され認識される」


のだそうだ。乱暴な説明をするならば、「不確定性原理と非可換性という二つの公準」に立脚した「量子論的世界観」によって、「存在」「時間」「意味」「意識」「物質と精神」といったやっかいな諸問題が「矛盾なく説明(= 記述)」できてしまうとのことであり、「西洋版の色即是空・空即是色」とでも表現すれば腑に落ちるかもしれない。


ロヴェッリが、20世紀初頭の現代物理学の黎明期に起きたことを解説する中で、相当なページ数を割いて「ボグダーノフとレーニン」の論争を軸にして当時の欧州における哲学・自然科学・政治・社会の状況や人間模様を振り返っている。「歴史にifはない」と言われるが、「哲学と自然科学」「自然科学と政治」「政治と哲学」の間の当時のダイナミックな「相互作用」を俯瞰したとき、ロシア革命以降現在のロシア・ウクライナ戦争に至る現代の歴史が「必ずしも自明(=必然)ではない」ことを改めて実感するとともに、「もう一つの20世紀 (Alternative 20th Century)」を妄想してみたくもなる。

(学ぶ者のためではなく「教える側の都合」で文科と理科を殊更に分けることの愚かさ・危険性も再認識させられる。)


例えば「ボグダーノフとレーニン」「石橋湛山と岸信介」「フランクリンとワトソン・クリック」「カミュとサルトル」「理性と本能」といった類である。「状況依存的」に生きるしかない存在である我々が「終わってしまったこと」を今さら妄想してみても無意味だと思われる向きもあろうが、あえて今ここで彼らを振り返って考察してみること(= 物理的相互作用)を通して「さらに新しい状況」を生成する可能性が残っているという意味において「物理的には終わってない」のかもしれないとも思われる。


個人的には、ボグダーノフ・石橋湛山・フランクリン・カミュ等の人々がもっと長生きして社会的影響力を持ち得た場合の「20世紀という現象のユニタリー発展」を今世紀中には実用化されそうな量子コンピュータでシミュレーションしてみたくてしようがない。(「ドラえもん」のセワシ君ではないが)「もう少しましな現在」が ( 我々人類によって実際には選択されなかったにせよ)「可能ではあったはず」のような気がしてならないからだ。それが「よりましな21世紀」をこれから創るヒントにはなるかもしれない。


可能 (possible) である限りその可能性 (possibility) を追求してみるのが「あるべき理性の姿」だと思う。この世は我々の想像 (= 思い込み?) 以上に「自由で適当で不思議」なのかもしれない。


2022.8.15

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