島人われは 〜 亡父に思う 〜

無名の人

島人われは 〜 亡父に思う 〜

島に生まれ、文芸と教育と、そして何よりも島を愛して島を生きた父の人生だったように思う。実際には、旧制中学を卒業するまでは旧今治市内、新制大学教育学部を1期生として卒業するまでは松山市内に生活の中心があり、私から見ると「街の子」だったはずなのに、父の心の拠り所は一貫して島にあったようだ。


40年近い教師生活も、最後の数年を除いたほぼ全てを自ら望んでしまなみ海道の島々(しかもその大半を地元の吉海中学校)で過ごしたことになる。退職後の第二の(そして最も充実した)人生を短歌と農業を中心にまさに晴耕雨読で楽しむ姿を間近に見て、当時はあくせく落ち着かない暮らしをしていた私は羨ましく思ったものだ。


典型的な「真面目な愛媛の昭和ひとけた」だった。明治・大正の伝統的価値観を受け継ぎつつも、戦後日本の民主主義構築の一翼を担うという高邁な理想に忠実に生きた人であった。親戚・教育関係者・教え子の皆さん・歌人・俳人など様々な方から父の横顔を伺いつつ、50年以上にわたって、山仕事・畑仕事・夜釣り等の際の何気ない対話から食卓での自慢話や愚痴・寝言に至るまで全てを観察してきた。その私には、父の密かな「見果てぬ夢」がわかるような気がする。


良くも悪くも「昭和ひとけた」だった父は、戦後の「自由な社会」の価値を知りつつも、同時に伝統的「家」の価値をも守るという極めて難しい連立方程式を解こうとしていたように思われる。私自身は、海の向こう(私にとって来島海峡の向こうは、今治も東京もフィレンツェもストックホルムもみな同じ「海外」だった)に憧れ続け、「家」よりも「自由と真理」を重視して世界を飛び回り(連立不等式の気の利いた別解を見つけただけなのだが)両親をハラハラさせ続けた。にもかかわらず、何故か「温かく見守って」もらえたのは、実は自分たちもやってみたかったけれど立場上許されなかった夢を我が子を通して体験していたからだ、と今にして思う。


20年ほど前には綿密な「フィレンツェ移住計画」(60歳までには帰国予定だった!)も密かに立案していたのに、結局実行することもなく、気がついたら故郷に帰って教育の真似事をしている自分がいる。老後は一切を処分してクルーズ船に乗り、旅の空で天寿を全うしてそのまま海に帰ってゆくのが現在の私の人生設計なのだが、30年後にその決心がどうなることかわかったものではない。最近になってようやく父の心境が解ってきたような気がする。しまなみと愛媛の引力畏るべしである。


橋架かり延びゆく道を命ありて

渡るよろこび島人(しまびと)われは

(父)


父母のふるさと老いて山海(やまうみ)あり

春には桜秋には錦

(子)


2022.1.1

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