epilogue


 インフルエンザから肺炎になった僕は、受けるはずだった高校の受験を全て不意にした。合格が決まっていた併願優遇の高校も含めてだ。

回復したのは中学の卒業式の直前だ。定員割れをしている工業高校の二次募集に滑り込み、どうにか高校浪人だけは逃れた。


 自分の偏差値よりも二十五も下の高校は、今までと景色がガラリと違って見える。教員、友だち、教室の雰囲気、空気の匂い、家で朝食に出されるパンの味まで。全部が全部だ。


 それでも若いってことは良くも悪くも柔軟性に富んでいて、僕はすぐに順応していった。周りに大学にいこうと考えているやつは皆無。どうせあと三年で働くんだから今が楽しければそれでいい、勉強、何それ美味しいの? の世界だ。


 親が予備校に行けだとか、ここで終わりじゃないとか、いらぬ忠告をしてくる。あげく高校でできた友だちを遠回しになじってくることが我慢ならなくて、良好だった親との関係も変わっていった。遅くに訪れた厨二病は、僕の高校と非常に相性が良かった。


「別に大学なんか行かなくたって死にやしねえよ」

 バイクを買うために始めたバイトに僕は勤しむようになっていく。美大近くにある天井の高いカフェのホールスタッフで、シフトを多く入れていたら、面倒なことにバイトを束ねる責任者にされてしまった。


 ホールに出る隙間を縫ってバイト連中のシフトを組む。こんなものは、普通店長の仕事だろう、とパソコンに向かいながら毒づく毎日だった。

 バイクも別段欲しい訳ではない。今が楽しければそれでいいと意気がり、仲間と群れていても、実は空虚な自分に気づいてしまう。


 無為に過ぎていく一秒一秒から目をそらしている事には気づいていた。

その日、僕は地毛の伸びた金髪頭を片手でぐしゃぐしゃにしながら、バックヤードオフィスのパソコンでシフトを組んでいた。どうしても調整がつかず、『また手薄のここは自分が入るのか、時給がちょっと高いくらいじゃ割に合わねえ、もう辞めるか』と頭皮を強くひっかく。


 そんな状態で、僕は呼ばれたホールに出て行った。

 そして彼女に出会った。


 それはきっと、あまりにも白いキャミワンピースのせいかもしれなかった。その少女の身を包む清冽な白は、僕の目に天使の衣のように映った。まさしく天使が具現化されて目の前に降り立ったかのようだった。

 その日から、心が躍ると感じられるのは、その少女をバイト先のカフェで盗み見る時だけだった気がする。


 彼女はいつもひとりだった。たいてい大きなスケッチブックを小脇に抱えて入ってきて、窓際の席についてからはノートを広げている。

バイト先のある駅のホームを、女友だちと歩いているのを目にしたこともあった。三人は、どこかの美術館に行く計画を立てていた。「コトミの方向音痴が絶望的で現地集合が難しい」との会話が耳に入る。


 コトミ。極度の方向音痴。偶然知った憧れの人の些細な情報に幸せを噛み締める僕は、可愛い男子高校生だった。そしてその時に、この駅にある美大の学生なのだと確信した。


 カフェに来た時は、ノートに何かを一心に書きつけ、顔を上げるととても満ち足りた表情で時には微笑んでさえいる。

美大は駅を挟んで反対側にある。彼女がわざわざひとりでここに来るわけは、自分だけの時間を楽しむためだろうか。このカフェが、彼女の中でそういう位置付けだったらどれほど幸せだろう。シフトを組むのは面倒だがバイトはもう少し続けよう。


 けれどある日、彼女の前にずいぶん歳上の男が腰を降ろした。父親というほどには離れていない。誰だ、あいつは。

気になり、後から来たその男に水とおしぼりを持って行く。

二人は耳を疑うような会話をしていた。


「マキエダさん、わたし、妊娠したの」

 彼女の言葉にしばらく黙っていた男は重々しく口を開いた。

「コトミ……俺は、既婚者なんだ」


 男の側に立っていた僕は咄嗟に彼女を見た。

驚きの形に一瞬開いた唇は、みるみるきつく引き結ばれていく。明らかに今知らされた事実のようだった。彼女はこのことを知らなかった。知らずにつき合っていたのだ。あまりにひどい話にコップを持つ手が震えた。


 次の瞬間、バイト用の白いシャツに水が浴びせられた。予期していない衝撃に、引っ叩かれたような感覚がした。

 何が起こったのか分からなかったが、事態はすぐに飲み込めた。立ち上がった彼女が、男に向かって水の入ったコップを振り、その半分が隣にいた僕にかかったのだ。


「ごめんなさい!」

 彼女は僕に向かって頭を下げた。

「いいんですいいんです」

 こんな修羅場を見られた上、誤って標的以外にも水をかけてしまったなんて、彼女にしてみたら最悪だろう。僕はすぐにその場を後にした。去り際、男の声が耳をついた。


「コトミ。結婚するよ。妻は子供を産みそうにないんだ。うちには跡取りが必要なんでね」

 ひどい話だ。ふざけすぎている。


 憤りがおさまらない気持ちの一方で、水をかけられた場所が疼くように痛んだ。僕はいったいこんなところで何をやっているのだ。

 彼女が水をかけた標的が僕であるかのような錯覚にとらわれる。


 彼女はあれほど最悪な目に遭っている。それでも自分をそんな目に合わせた相手に精いっぱいの対抗をしている。

 それに対して今の僕はなんだ? 一度受験に失敗したことなど、彼女が負わされた災いというには重すぎる運命に比べればなんということはない。


 一気に目が覚めた。

 けれどそれ以来、彼女はそのカフェにこなかった。


一ヶ月ののちに、僕もバイトを辞めた。親が口を酸っぱくして説教を垂れても行く気にならなかった予備校に通うためだ。

 彼女のような理不尽な目に遭う弱者を救いたい。

あの日芽生えた、その時の僕には青臭く、あまりにも遠い人生の目標だった。



「倉智。森吉ゼミでまた集まろうぜ」

大学時代の仲間と森吉教授が手をあげ、散っていく。

 僕は貞慶大学の法学部を卒業し、弁護士資格の国家試験も通過し、今は渋谷にある法律事務所に勤めている。


 腐り切っていた高校一年から、もう十五年近くが経とうとしている。その間、数人の女性とつき合い、そのうちのひとりとは婚約していたが、諸々の事情で結婚に至ることはなかった。


 大学の森吉ゼミの仲間は二十五人いて、今でもつき合いがあるほど仲がいい。ほとんどが僕と同様弁護士になり、あちこちの法律事務所に勤めている。

大学時代にゼミの飲み会で、なぜ弁護士を目指したか、という話題になり、高校時代にバイト先のカフェで、間違いで女性に水を引っ掛けられて目が覚めたことを詳(つまび)らかにした。


 淡い想いを連想させるそのストーリーに、男女ともに場はおおいに盛り上がる。その頃大人気の新人女優、浜内琴美(ハマウチコトミ)が主演したドラマ〝僕の天使〟にあやかり、勝手にマキエダコトミは倉智の天使、すなわち僕自身の天使だということにされた。


 そしてそこからおふざけで、もしも誰かの事務所に、三歳年上のマキエダコトミーーあの時聞いた会話のままに事が進んでいれば、彼女はその名になっているはずだーーなる人物から連絡がきた時には、その場で僕の事務所を紹介することとなった。

そんな事がありはしないと誰もがわかっていたし、僕を含め、誰もがすぐに忘れただろう。そこに淡い期待が一片もなかったか、と問われたら自信がないが。


 マキエダコトミのことは、青春時代に誰もが経験する淡く美しく、けれどありふれた幻だった。

 人と少しだけ違うとすれば、人生の分岐点にたまたま彼女がいたことだろう。彼女に水を引っ掛けられなければ、僕は弁護士になっていなかったはずだ。


 僕は彼女を忘れていた。少なくとも表面上は。心の深淵にひっそりと沈み続け、生涯思い出すこともなかったはずの存在、それがマキエダコトミだ。

 十五歳の高校一年時から約十九年の時がたち、浜内琴美が推しも押されぬ大女優になった頃、僕の事務所に森吉ゼミの仲間であった藤原から電話が入った。


 もちろん藤原も忘れていて、単なるクライアントとしてマキエダコトミの依頼を受けた。受けてから、何かがどうしても引っかかったのだそうだ。思い出せずに気持ちが悪い。考えに考えて、もしかしたら昔、倉智の天使だとかみんなで騒いだ女性の名ではなかったのか、と僕のところに確認の連絡をよこした。


 あまりの事態に驚愕する。

マキエダコトミ。それは確かにあの時の少女の名だった。当時、知りもしなかったその名の響きに、時が十九年前に巻き戻ってゆく。高校一年にバイトをしていたあのカフェの壁の色。コーヒーの香り。めちゃくちゃに嫌いだったシフトを組む作業。

 そしてモノクロの高校生活に、ひと差しの鮮やかな彩りを与えてくれた、白いキャミソールドレスの少女。僕に水を引っ掛け、人生の軌道を修正してくれたコトミという名の少女。


 依頼は立て込んでいた。それでも僕は藤原からの案件を受けた。

 藤原は離婚の要請だと言っていた。今度は僕が彼女の人生の軌道修正をしよう。

 牧枝寿実が藤原のところから僕の事務所にやってくるその日、あまりにも時計の針の動きが遅い。それだけではなく、想定されるよりも時間がかかりすぎている。

いくらなんでも遅すぎやしないか? 


 ふと 昔ホームで聞いた彼女が方向音痴であるという会話が蘇ってきた。もしかしたら迷っているのではないか?

 受付の女性に牧枝寿実さんが来たら、予約の部屋で待ってもらい、僕に連絡をくれるようにと申し伝えてから、エレベーターで階下に降りる。


 初夏の風に誘われるように宮益坂を降り始める。ビルの谷間から、境目がくっきりとした立派な入道雲がのぞいていた。

 宮益坂の下まで来ると、僕の視線は一人の女性に吸い込まれていく。一眼で彼女だと確信できた。


 スマホを片手に幼児(おさなご)のような心許ない表情を浮かべる彼女は、もう白いキャミドレスを着てはいなかった。けれど、まるで時が止まったかのように、あの頃のままだった。



お久しぶりです。寿実さん。倉智勧です。


                                    了







 





 




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