燃える砂(本編)

  本編



 ──死ぬかと思った。

 京香は、山陰海岸さんいんかいがん国立公園 鳥取砂丘ビジターセンターの屋外休憩スペースで、足洗あしあらいシャワーの冷水に砂まみれの足とサンダルを流されながら、スポーツドリンクをがぶ飲みしている──。

 あの焼き菓子のような砂丘を舐めてかかってはいけない。

 砂漠さばくと違って湿度は高いが、太陽に熱せられた砂が足を飲み込んで体力を奪う。

 しかし、ここは天国だ。

 バスを降りた時には、謎の施設がこのようなオアシスだとは思わなかった――。

「あの」

 不意に掛けられた声に、京香はちょうど口に含んでいたスポーツドリンクを全て吹き出しそうになる。

 出そうになったスポーツドリンクをなんとか飲み込んで顔を上げると、四十代ほどとみられる男が、全身を使ってあたふたしていた。

「大丈夫ですよ」

 あたふたしている男が可笑おかしくて笑った京香を見て、彼は安心したらしく、「そうですか……」と息をいた。

「あの、本当にすみません……」

 気まずい沈黙を誤魔化ごまかすように、彼がおずおずと口を開く。

「バスで、下を向いておられたので、具合が悪いのかと……」

 大丈夫です、と言いかけて、京香は首をかしげる。

 バス……?

「今朝、車が故障してバスで来たのですが、席が隣だったんです」

 彼は申し訳なさそうに眉を下げて、京香の背中の、特徴的な桃色のバックパックに目をる。

 京香の方はというと、バスで隣にいた男の外見など微塵みじんも覚えていないが――。

「あっ、その、元気です!」

 京香が何故なぜか右のこぶしを屋根に向かって突き上げると、彼は「そうですか」と言って笑った。

「僕はここ、鳥取砂丘ビジターセンターに勤めています。因幡いなばといいます」

 彼が首に下げた名札をつまんで京香に見せると、確かに、『山陰海岸国立公園 鳥取砂丘ビジターセンター』のロゴと、『ガイド』という役職の文字、『因幡 禎雪さだゆき』の名前があった。

「今日は屋内おくないのカウンターにいます。お気軽に声を掛けてくださいね」

 因幡はそう言って、人間のものとは思えないほど澄んだ微笑ほほえみを残し、去っていった。

 んがあぁぁ……。

 自動ドアが因幡を迎えて開くのと同時に、古いドライヤーのような、今にも壊れそうな音がする。

 ――新しそうな建物なのに、ドアが故障しているらしい。

 だが、初めての一人旅の最中さいちゅうである京香はまだ、人工的な冷房の効いた室内に入る気分にはなれない。木製のベンチとテーブルで談笑する家族れやカップルの間を歩き、中央付近にいた席を見つけて座る。

 ──洗ったばかりの足とサンダルは、いつの間にか乾いていた。

 京香は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、砂丘から戻ってくる途中でSNSエスエヌエスに投稿した写真を眺める。

 昨日までは、自由に旅を楽しむ人たちの写真が、京香には直視できないほどに輝いて見えた。

 だが、今日からは違う。

 砂の平らな所にサンダルの爪先つまさきで書いた大きなハートマークと、その中の左半分を埋める『KYOKAキョーカ ISイズ HEREヒア』の文字、そして、その文字の隣に寝転がる自分――。

 しかし、写真に見惚みとれる京香の耳が不意に、平和な空間に似つかわしくない、慌ただしい足音を聞き取る。

 具合の悪い人でも出たのかと思ったが、その想像は一瞬にして砕かれた。

「砂嵐が来ます! 避難してください!」

 ――因幡の声だ。

「こちらです! センターの建物に!」

 ざわめきながらも避難を始める他の観光客たちと一緒に、京香も荷物をまとめて立ち上がる。

 その時、手に持ったスマートフォンが激しく振動し始める。

 砂嵐の警報だろうか。

 京香は自動ドアへと急ぎながら、何気なにげなくスマートフォンの画面を見る。

 そこにあったのは、気象予報アプリケーションのメッセージではなかった。


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 条例違反ですよ


 コメント着信:

 バカ行為バカ投稿するバカ逮捕されろwww


 コメント着信:

 こうゆう、人は、旅行、しないで、ほしい、です


 スマートフォンの振動は止まらない――。


 コメント着信:

 砂に落書き(大きいもの?)するのは鳥取県の条例で禁止されてるぽいです!


 コメント着信:

 速く死刑になれ


「え……?」

 違反? 何? 死刑って? 私、殺されるの? ねえ、どうなってるの?

「お二人とも、早く!」

 鬼の喉から発せられたような因幡の怒鳴どなごえに、京香は足を止めていたことに気が付く。

 いつの間にか、風が強い。

 かどのある砂粒すなつぶが、ばちばちと音を立てて頬をたたく。

 痛い。

 屋外休憩スペースに残っているのは、因幡と、京香と、京香と同じ年頃の女性だけ――。

 砂をけて細められた京香の目がそれを認識した時、地面が下から突き上げられる。

 京香は宙を舞いながら、どうしようもなく、脳内を疑問符で埋め尽くすばかりだった。

 …………。

 あれ?

 休憩スペースから放り出されて駐車場のアスファルトに落ちたと思ったのに、痛くない――。

 だが、痛みが無い奇妙さは、強く閉じていた目を開けた時にかき消された。

 砂でできたサメの頭が、休憩スペースのタイルを突き破っている。

 いな、タイルを突き破っているのはサメの鼻先だけだ。

 その尖った鼻先が、地中で何かが爆発したかのような勢いで浮上し、旅客機よりも太い頭と、フェリーよりも太い胴を引っ張り上げる。

 壁の支えを持たない屋根は濡れたティッシュペーパーのごとく破れ、砂のサメの全身が青い空を砂色に曇らせて裂く。

すな鰐鮫わにさま!」

 叫んだのは、因幡――。

です!」

 京香には意味の分からないことを砂のサメに向かって訴える因幡は、京香ともう一人の女性を背中にかばって立っている。

「砂鰐鮫様!」

 空を泳ぐサメには、因幡の声など聞こえていない。ねっせられた砂の目が、京香を見る。

「お願いします!」

 不意に因幡が叫んだその時、この世のものとは思えないほどの強風と、それに乗った砂の塊が京香たちを襲う。

「すっ、砂鰐鮫様……!」

 呼吸をする隙間も無い砂嵐の中で因幡の影はよろめくが、京香と女性は息ができるし、因幡の姿を見るために目を開けていられる。

 その目で見回すと、見慣れたような、見慣れないようなものが京香と女性を取り囲んでいた。

 中心の棒の代わりに人間の脚が一本生えた和傘。

 謎の巨大な一枚板。

 ひとりでに宙に浮いている白い布。

 古びたドライヤー。

 守って、くれたの……?

 京香は、は、と浅く息をく――。

 どっ。

 巨大な水栓を踏み潰したかのような音と振動。

 周囲の砂の全てが、空へと落ちていく。

 京香と女性は顔をせ、掴まる所の無いアスファルトに掴まる──。

 どおおおおおおおおおおおおお!

 何の前触まえぶれもなく、上空の砂がそそいで、京香と女性の身体からだを埋め始める。

 ──窒息する。

 京香たちは重い砂の中を泳ぎ、必死に顔を出す。

 不思議なものたちは、いなかった。

 因幡も、いなかった。

 代わりに視界を埋め尽くすサメの口が、地獄へ続くトンネルのようにひらく。京香は数万本ある牙の一つに、見覚えのある名札が引っ掛かっているのを見た。

 目の無い砂の目から、涙のような砂の塊が一つ生まれて、落ちる。

 砂の涙は砂なのに、びちゃ、と汚い音を立てて、同じ色の砂の上に丸い染みを作る。

「違う!」

 京香は咄嗟とっさに叫んだ。

 砂の染みは一つの生物のようにうごめき、まぎれもなく、大きなハートマークと、『KYOKA IS HERE』の文字をみずからに刻もうとしていた。

 京香は立ち上がり、まだ砂に半分埋まっている女性を指差す。

「京香はこの人!」

 京香の服のそでからすそから、砂が際限さいげんなく流れ出る──。

 京香を見る砂の目が、一瞬、赤く濡れて光る。

「私は兎萌ともえ!」

 京香は、思い付いた友人の名前を叫んだ。

 サメの首が、ぐぐ、ときしんで曲がる。

 砂の目が、京香が指差す先を向く。

 そこで京香はわれかえる。

 私はどうして、他人を売るようなことを……!

 砂のサメが一瞬京香を見て、笑った。

「いやああああああああああああああ!」

 何故なぜ

 隣の女性に飛び掛かったサメにはじばされながら、京香は首を傾げた。

 どうして、兎萌の声が聞こえたの?

 大破したアスファルトと無秩序に積もる砂の上に叩き付けられた京香は、兎萌が愛用している白い腕時計を着けた手が、砂のサメと一緒に地中に運ばれていくのを見た。





鳥取砂丘で猟奇殺人 友人の死体の上で写真撮影


 屋外休憩スペースがあったはずの地面に、ニュースの記事を表示していたスマートフォンが落ちる。

 ばき、と嫌な音がして、スマートフォンのどこかが割れたらしかったが、それでも過去は変わらなかった。

 鳥取砂丘のガイドである因幡は砂を歩くのに慣れていたためか、砂鰐鮫すなわにに飲み込まれた後、その体内を泳いで脱出することができた。

 だが砂鰐鮫に噛まれた際に怪我を負い、都島つしま京香の友人、白坂しらさか兎萌ともえを救出することは叶わなかった。

 兎萌は京香の両親に頼まれて、京香の一人旅を見守りに来ていた。

 因幡も、京香の両親に頼まれていた。

 ――京香を少しおどかして、もう二度と一人旅などしたくならないようにしてほしい、と。

 因幡は断りたかった。

 妖怪と気持ちを通じ合わせる力を、人を怖がらせるために使うなど――。

 だが、人知を超えた力を持つ因幡家には代々、全国で十本の指に入る巨大な商家であった都島家に守られてきた恩があった。

 因幡は、このような使い方はこれで最後という約束で、力を貸すことにしたのだが――。

 想定外のことが起こった。

 鳥取砂丘にむサメの妖怪、砂鰐鮫すなわには、普段は温厚で、砂丘を訪れた子供たちと遊んだり、夜に砂丘をのんびりと泳いだりすることを楽しみとしている。しかしその砂鰐鮫が、唯一、許さないことがある。

 それは、鳥取砂丘をよごされること。

 ゴミを捨てられた時はもちろん、砂に落書きをされた時にも砂鰐鮫はいかり、暴れ出す。

 また鳥取砂丘では近年、砂の流入の減少や草原化そうげんかの進行といった環境の変化も起こっており、砂鰐鮫はそれに対する不安からか、このところピリピリしている。

 しかし京香が、落書きをしてしまった。

 因幡は、それを知らずに砂鰐鮫を呼び出した。

 少し姿を見せるだけの約束だったが、砂鰐鮫は暴れ、因幡を飲み込み、兎萌を体内で潰して、その死体を京香の落書きの下に埋めた。

 現代の警察が、妖怪が犯人であるという話を信じるはずが無かった。

 京香は友人を無惨むざんに殺して埋め、その上に落書きをして記念撮影をした猟奇りょうき殺人鬼さつじんきとなった。

禎雪さだゆきくーん」

「久しぶりー」

 にこやかな男女の声に、因幡は青い顔を上げる。

 そこには京香の両親、智子さとこ忠治ただはるがいた。

派手はでにやったわねえ」

「だねえ」

 智子と忠治は扇子せんすや手で汗ばんた顔をあおぎつつ、大破した休憩スペースを見渡す。

 因幡は、声も出ない。

「落書きしたら楽しそうねってそそのかして、良かったわね」

「ああ。京香、僕たちが一人旅を許したと思って、大喜びだったな」

 夫婦は大穴おおあないた屋根の下で、微笑み、顔を見合わせる。

「京香、終身刑になりそうですって」

 言いつつ智子は、扇子をショルダーバッグに仕舞しまい、続いて水筒を取り出して冷たい飲み物を飲む。

「禎雪くん、ありがとう。これで京香は一生、おりの中で安全に暮らせるよ」

 忠治は因幡の肩を叩き、心底幸せそうに笑う。

「もう、危ないインターネットに関わることも無いの」

 智子は、次はスマートフォンを手に持って、まだ炎上の火が収まらないSNSを見ているらしかった。

「智子さん、忠治さん……」

 誰にも、罪をなすり付けられていい理由も、死んでいい理由も無い――。

「禎雪くん、顔色悪いわよ?」

「うん。中で休んだら?」

 気付くと智子と忠治が、因幡の顔を覗き込んでいる。

「いえ、別に……」

 因幡は、子を守る気持ちを暴走させた二人を責めることができない。

 京香は、智子と忠治が五年以上願い続けて、やっとさずかった子だった。

「じゃあ私たち、砂丘に行ってくるわ」

「すぐ戻ってくるから、三人でお昼ご飯を食べよう」

 口を引き結んで頷いた因幡に、智子と忠治は笑って手を振り、去っていった。

 因幡は二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、壁に背中をもたけ、ずるずると座り込む。

 穴がき、ささくれた木の壁が、Tシャツの上から背中に無数の傷を作る。

「砂鰐鮫様」

 因幡は砕けたタイルを埋める砂に向かって、呟く。

「僕には、どうしていいか分かりません」

 砂鰐鮫を含めた誰もが悪く、誰もが悪くない──。

「砂鰐鮫様」

 砂鰐鮫なら、因幡の知らない答えを知っている──のかも、しれない。

「……お任せ、します」

 足元の砂が返事をするように、ずず、と蠢いた。

 因幡はもう、何も考えることができなかった。

 ただ砂鰐鮫は、昼夜ちゅうやわず押し寄せ、砂丘を汚す野次馬のせいで、このところピリピリしている。

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砂鰐鮫様 ──スナワニサマ── 柿月籠野(カキヅキコモノ) @komo_yukihara

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