燃える砂(本編)
本編
──死ぬかと思った。
京香は、
あの焼き菓子のような砂丘を舐めてかかってはいけない。
しかし、ここは天国だ。
バスを降りた時には、謎の施設がこのようなオアシスだとは思わなかった――。
「あの」
不意に掛けられた声に、京香はちょうど口に含んでいたスポーツドリンクを全て吹き出しそうになる。
出そうになったスポーツドリンクを
「大丈夫ですよ」
あたふたしている男が
「あの、本当にすみません……」
気まずい沈黙を
「バスで、下を向いておられたので、具合が悪いのかと……」
大丈夫です、と言いかけて、京香は首を
バス……?
「今朝、車が故障してバスで来たのですが、席が隣だったんです」
彼は申し訳なさそうに眉を下げて、京香の背中の、特徴的な桃色のバックパックに目を
京香の方はというと、バスで隣にいた男の外見など
「あっ、その、元気です!」
京香が
「僕はここ、鳥取砂丘ビジターセンターに勤めています。
彼が首に下げた名札をつまんで京香に見せると、確かに、『山陰海岸国立公園 鳥取砂丘ビジターセンター』のロゴと、『ガイド』という役職の文字、『因幡
「今日は
因幡はそう言って、人間のものとは思えないほど澄んだ
んがあぁぁ……。
自動ドアが因幡を迎えて開くのと同時に、古いドライヤーのような、今にも壊れそうな音がする。
――新しそうな建物なのに、ドアが故障しているらしい。
だが、初めての一人旅の
──洗ったばかりの足とサンダルは、いつの間にか乾いていた。
京香は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、砂丘から戻ってくる途中で
昨日までは、自由に旅を楽しむ人たちの写真が、京香には直視できないほどに輝いて見えた。
だが、今日からは違う。
砂の平らな所にサンダルの
しかし、写真に
具合の悪い人でも出たのかと思ったが、その想像は一瞬にして砕かれた。
「砂嵐が来ます! 避難してください!」
――因幡の声だ。
「こちらです! センターの建物に!」
その時、手に持ったスマートフォンが激しく振動し始める。
砂嵐の警報だろうか。
京香は自動ドアへと急ぎながら、
そこにあったのは、気象予報アプリケーションのメッセージではなかった。
コメント着信:
条例違反ですよ
コメント着信:
バカ行為バカ投稿するバカ逮捕されろwww
コメント着信:
こうゆう、人は、旅行、しないで、ほしい、です
スマートフォンの振動は止まらない――。
コメント着信:
砂に落書き(大きいもの?)するのは鳥取県の条例で禁止されてるぽいです!
コメント着信:
速く死刑になれ
「え……?」
違反? 何? 死刑って? 私、殺されるの? ねえ、どうなってるの?
「お二人とも、早く!」
鬼の喉から発せられたような因幡の
いつの間にか、風が強い。
痛い。
屋外休憩スペースに残っているのは、因幡と、京香と、京香と同じ年頃の女性だけ――。
砂を
京香は宙を舞いながら、どうしようもなく、脳内を疑問符で埋め尽くすばかりだった。
…………。
あれ?
休憩スペースから放り出されて駐車場のアスファルトに落ちたと思ったのに、痛くない――。
だが、痛みが無い奇妙さは、強く閉じていた目を開けた時にかき消された。
砂でできたサメの頭が、休憩スペースのタイルを突き破っている。
その尖った鼻先が、地中で何かが爆発したかのような勢いで浮上し、旅客機よりも太い頭と、フェリーよりも太い胴を引っ張り上げる。
壁の支えを持たない屋根は濡れたティッシュペーパーの
「
叫んだのは、因幡――。
「やりすぎです!」
京香には意味の分からないことを砂のサメに向かって訴える因幡は、京香ともう一人の女性を背中に
「砂鰐鮫様!」
空を泳ぐサメには、因幡の声など聞こえていない。
「お願いします!」
不意に因幡が叫んだその時、この世のものとは思えないほどの強風と、それに乗った砂の塊が京香たちを襲う。
「すっ、砂鰐鮫様……!」
呼吸をする隙間も無い砂嵐の中で因幡の影はよろめくが、京香と女性は息ができるし、因幡の姿を見るために目を開けていられる。
その目で見回すと、見慣れたような、見慣れないようなものが京香と女性を取り囲んでいた。
中心の棒の代わりに人間の脚が一本生えた和傘。
謎の巨大な一枚板。
ひとりでに宙に浮いている白い布。
古びたドライヤー。
守って、くれたの……?
京香は、は、と浅く息を
どっ。
巨大な水栓を踏み潰したかのような音と振動。
周囲の砂の全てが、空へと落ちていく。
京香と女性は顔を
どおおおおおおおおおおおおお!
何の
──窒息する。
京香たちは重い砂の中を泳ぎ、必死に顔を出す。
不思議なものたちは、いなかった。
因幡も、いなかった。
代わりに視界を埋め尽くすサメの口が、地獄へ続くトンネルのように
目の無い砂の目から、涙のような砂の塊が一つ生まれて、落ちる。
砂の涙は砂なのに、びちゃ、と汚い音を立てて、同じ色の砂の上に丸い染みを作る。
「違う!」
京香は
砂の染みは一つの生物のように
京香は立ち上がり、まだ砂に半分埋まっている女性を指差す。
「京香はこの人!」
京香の服の
京香を見る砂の目が、一瞬、赤く濡れて光る。
「私は
京香は、思い付いた友人の名前を叫んだ。
サメの首が、ぐぐ、と
砂の目が、京香が指差す先を向く。
そこで京香は
私はどうして、他人を売るようなことを……!
砂のサメが一瞬京香を見て、笑った。
「いやああああああああああああああ!」
隣の女性に飛び掛かったサメに
どうして、兎萌の声が聞こえたの?
大破したアスファルトと無秩序に積もる砂の上に叩き付けられた京香は、兎萌が愛用している白い腕時計を着けた手が、砂のサメと一緒に地中に運ばれていくのを見た。
鳥取砂丘で猟奇殺人 友人の死体の上で写真撮影
屋外休憩スペースがあったはずの地面に、ニュースの記事を表示していたスマートフォンが落ちる。
ばき、と嫌な音がして、スマートフォンのどこかが割れたらしかったが、それでも過去は変わらなかった。
鳥取砂丘のガイドである因幡は砂を歩くのに慣れていたためか、
だが砂鰐鮫に噛まれた際に怪我を負い、
兎萌は京香の両親に頼まれて、京香の一人旅を見守りに来ていた。
因幡も、京香の両親に頼まれていた。
――京香を少し
因幡は断りたかった。
妖怪と気持ちを通じ合わせる力を、人を怖がらせるために使うなど――。
だが、人知を超えた力を持つ因幡家には代々、全国で十本の指に入る巨大な商家であった都島家に守られてきた恩があった。
因幡は、このような使い方はこれで最後という約束で、力を貸すことにしたのだが――。
想定外のことが起こった。
鳥取砂丘に
それは、鳥取砂丘を
ゴミを捨てられた時はもちろん、砂に落書きをされた時にも砂鰐鮫は
また鳥取砂丘では近年、砂の流入の減少や
しかし京香が、落書きをしてしまった。
因幡は、それを知らずに砂鰐鮫を呼び出した。
少し姿を見せるだけの約束だったが、砂鰐鮫は暴れ、因幡を飲み込み、兎萌を体内で潰して、その死体を京香の落書きの下に埋めた。
現代の警察が、妖怪が犯人であるという話を信じるはずが無かった。
京香は友人を
「
「久しぶりー」
にこやかな男女の声に、因幡は青い顔を上げる。
そこには京香の両親、
「
「だねえ」
智子と忠治は
因幡は、声も出ない。
「落書きしたら楽しそうねってそそのかして、良かったわね」
「ああ。京香、僕たちが一人旅を許したと思って、大喜びだったな」
夫婦は
「京香、終身刑になりそうですって」
言いつつ智子は、扇子をショルダーバッグに
「禎雪くん、ありがとう。これで京香は一生、
忠治は因幡の肩を叩き、心底幸せそうに笑う。
「もう、危ないインターネットに関わることも無いの」
智子は、次はスマートフォンを手に持って、まだ炎上の火が収まらないSNSを見ているらしかった。
「智子さん、忠治さん……」
誰にも、罪を
「禎雪くん、顔色悪いわよ?」
「うん。中で休んだら?」
気付くと智子と忠治が、因幡の顔を覗き込んでいる。
「いえ、別に……」
因幡は、子を守る気持ちを暴走させた二人を責めることができない。
京香は、智子と忠治が五年以上願い続けて、やっと
「じゃあ私たち、砂丘に行ってくるわ」
「すぐ戻ってくるから、三人でお昼ご飯を食べよう」
口を引き結んで頷いた因幡に、智子と忠治は笑って手を振り、去っていった。
因幡は二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、壁に背中を
穴が
「砂鰐鮫様」
因幡は砕けたタイルを埋める砂に向かって、呟く。
「僕には、どうしていいか分かりません」
砂鰐鮫を含めた誰もが悪く、誰もが悪くない──。
「砂鰐鮫様」
砂鰐鮫なら、因幡の知らない答えを知っている──のかも、しれない。
「……お任せ、します」
足元の砂が返事をするように、ずず、と蠢いた。
因幡はもう、何も考えることができなかった。
ただ砂鰐鮫は、
砂鰐鮫様 ──スナワニサマ── 柿月籠野(カキヅキコモノ) @komo_yukihara
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