第11話 囲われた火種
自分の叫び声で目が覚める事があるんだな、と冷静になってからやっとまともに息を吸うことが出来た。ぽすりと真っ白なシーツに身を沈めると面前に橙色の天井が広がっていて、夕陽が主張するのに丁度良いキャンパスになっていた。古ぼけた蛍光灯と剥き出しの自然が支配する風景から一変し、無機質で温かみのある風景に包まれている。その事実がどれだけ僕を安心させ、どれだけの恐怖の中にいたのかを測る物差しになったかは、震え出した手を見て実感した。
あの洞窟は一体何だったのか。ある物全てが「良くない物」で、全て生きていた。鎖に繋がれて閉じ込められ、来たるべき時を待つ。表現としてあっているか分からないけど、これ以外の言葉が見つからない。あの狼の見た目に未だ引っ張られているかもしれないけど、まるで
「……保健所」
声に出して一息吸い、左手をゆっくりと天井に掲げる。痛み止めのおかげなのかぴりりと刺激が走るだけで、血も滲んでいなければ動かせない訳じゃない。ぐるぐると巻かれた包帯がかなり痛々しく映るけれど、生きている証拠だ。
人里離れた山奥の更に奥深くの洞窟に収監された、人に害を為す者共。きっとどれかに母さんが携わったんだろう。そしてもしかしたら……いや、本当は僕だって……。
左手の痺れに恐怖を思い出されようとしていたその時、小さい凹凸に爪弾かれながら開く横開きドアの音がして、サイケデリックな装飾に彩られた山男が部屋に入って来た。一瞬身構え、すぐに彼が水沼源五郎なる人物だったと思い出した。
「あ、ゲンさん……」
「おお坊主、目が覚めたか!! っておいおいどうした!? 傷が痛むんか!?」
「え、いや、大丈夫……だと思いますけど」
手に持った洋服やらフルーツやらをどこに置こうかと部屋を見回し、洋服を落としてしまい、それを拾おうとしてフルーツを落としている。
がたいのいい男がオロオロとする姿は珍妙な面白さがある。いや、笑っちゃいけないのは分かっているけれど、薬のせいか何なのかとにかく面白い。あたふたするゲンさんとそれを溜息交じりに諫めるセツさん。コンビとしてありそうだ。
床に落ちた物を全て拾い上げ、取り繕う様に笑うゲンさん。僕も釣られてふふと笑った拍子に脇腹に痛みが走った。
その瞬間、彼女の微笑と血の滴るナイフがフラッシュバックし、思わず声を上げて毛布を蹴飛ばし逃げようとして、ベッドから落下した。
「おい!」
荒い足音を立てて僕に駆け寄ってくれているみたいだが、それもまた彼女の足音を彷彿とさせ、喚き散らかし近くにあった物を投げつけた。
「坊主! 落ち着け! 深呼吸しろ深呼吸! ここには何もおらんから、な! 安心していい!」
ゲンさんの声は耳に届いているがどうしても体が反応してしまう。
「はーっ! はーっ、はーっ!」
投げる物が無くなると今度は過呼吸を起こし始める程の恐怖が染み付いてしまっていた。意識的に息をゆっくり吸おうとシーツで口を覆うと、今度はそれが彼女のドレスに見えて仕方がない。
看護師が駆け付けて二十分かそこらでやっと落ち着きを取り戻した僕は(初めに来たのが女性だったので更に悪化し、男性医師に交代して貰ったが)無理言ってゲンさんと二人にして貰った。無論、医師は反対したしゲンさんも日を改めると言ってくれてはいたが、今日中に聞いておかなければならない事が沢山あるし、今一人になりたくない。
ゲンさんが医師の去り際にセツさんの名前を出したのだが、驚いた顔をして「後で院長を寄らせます」と言って出て行った。セツさんの顔の広さを知るのはもう少し後の話になるけれど、退院するにあたって、院長と思しき人物が彼女に何度も頭を下げているのが印象的だった。
話を元に戻すとして、二人きりになった病室でシャクシャクとリンゴを齧る音が鳴っていた。音を出しているのは僕じゃない。
「それで……あの洞窟の事だがな、まあ凡その予想は付いてると思うが、あれは簡単に言えばやべえもんを保管してる倉庫だ。お前が出会ったあの女、あれは中世ヨーロッパに居た殺人鬼でな、趣味で子供喰ってたんだが、死んだ時の怨念がナイフに宿ってる。獄中で看守に最後の晩餐に何が良いかって聞かれてな、子供を食わせろって言ったやべえ奴だ。今になっても呪物として残り続ける怨念っつったらまあそう多くは無いな。で、世間一般的に呪物だとか言われる類の物からお前が昼間によく分からない物に分類したあれらだけどな……『忌世穢物(きよえもの)』って呼ばれてる」
「忌世穢物……」
「まあ婆さんの方が詳しいんだが、とにかく女を含む呪物とも一線を画す程の更にやべえ奴になる。普通のが原付なら忌世穢物はスーパーカーってとこか。どの性能に特化してるのかは千差万別だが、範囲か殺傷能力か、とにかく普通のとは比較にならねえ」
髪の毛の狼に有刺鉄線の人型がそうなんだろう。妖怪の様な古めかしさが無くて、禍々しさだけがあるような。
「本来なら全部払った状態にしてやりてえんだが、あんまり力が強えってんでどうしようもないのが一定数いる。だから解決策が見つかるまであの洞窟に保管してたって訳だな。それで…お前どうやってあそこに入ったんだ?」
リンゴを更に一口齧って僕の顔を覗き込んで言った。心配もしてくれているのだと表情と声色で分かる。僕は二人と別れてからの脳裏に染み付いた光景を順を追って話した。涙を堪えるのに必死で相当嗚咽が混じってしまったし、しどろもどろになってしまったけれど、ゲンさんは何度か頷くだけで一言も挟まなかった。僕が話終わるとゲンさんはうーんと唸り
「相性か……怖え思いさせちまって悪かった。許してくれとは言えねえが、この通りだ」
そう言って頭を下げた。僕は謝る必要はない頭を上げてと言ったけれど、頑として頭を上げなかった。そのひと悶着があった後暫くして、セツさんが病室を訪ねて来た。また似たような流れがあり、簡潔に僕の話を説明してもらって今後についての話し合いが始まった。
「これから継はどうしたいですか?」
「どう、って、どういう事ですか?」
「つまり、母親の仕事やそれとは別にやっていた事を知った訳です。アルピニストとしての燈(あかり)。万屋天昇のお手伝いとしての燈……その両方を知った今、あなたの旅の目的は達成された。そう言っても過言ではありません」
セツさんの言う事は尤もだ。
「それに……あなたを傷つけてしまった。あの家にいる者達がまた悪さをしないとも限らないしあなたを守り切れるか分からない。それが怖いのです。恐らくあなたはこれから幾つもの怪異に出会うでしょうし、それを止める事は出来ない……無視し続けていれば少しずつ薄まるでしょうが、ここにいれば存在が濃くなるばかりです。ベスに貼っていた護符が剥がれたのもそのせいでしょう。ベスだけならまだしも」
他の名前を口にしようとして言い淀んだが、そこを敢えて掘り下げる必要はない。肝心なのは
「…………よ、要するに僕は……ここにいない方が良いって事、ですか」
「まあ平たく言えばそうなります」
「でも、他に行くとこ無いです。折角ここまで来たのに」
「東京のお家があるでしょう」
「帰りたくないです。だ、だって最初ここにいてもいいって言ってくれたじゃないですか。そのつもりだったのに」
「状況が変わったのです。安全が保障出来ない場所に何の自衛能力も持たない子供を置いておけるのですか? どれだけ平凡で退屈で寂しい場所であろうとも、あなたが一歩踏み出してここに来れたように、東京でも一歩踏み出しさえすれば意義ある場所に変えられるんですよ。あなたにはその力がある。しかし今あの屋敷においてあなたを守れる程の力が私には無いですし、未来を奪う可能性すらある……私は……私は私の孫をむざむざ死なせたくない……また家族を失いたくないのです」
僕からしたら親を、セツさんからしたら子を亡くしその悲しみは共有出来るはずで、だからこそ家族というワードを出した。どれだけ多くの理由を並べ立てたとして、この説得を聞いて誰が断る事が出来るだろう。
でもそれはあくまで普通の家族の話であって、妖怪だのに関わっている家族がいれば話が変わって来る。虚実織り交ぜて本質からずらす手法は、僕だって使う手法なんだから。殆ど確信に近いものを持ち尋ねる。
「母さんは……本当はどうやって死んだんですか?」
「……燈は滑落したの、雨が降っていて、足を滑らせて」
僕の目を見据えて言うが僕には分かる。これは嘘をついている目だ。有無を言わさず嘘を真実にしようとしている目。
「何故嘘をつくんですか。ゲンさん言ってましたよね、山は人を喰うって。畏れを無くしたら山に喰われるんだって。母さんは物や人を大事にしてたはずなのに、どうして山に喰われるんですか? それに母さんはアルピニストだけじゃなくて、今日僕を襲ってきた化け物なんかを退治する仕事をしてたっていうのに……そんなのどうやって信じろっていうんですか! 母さんは山で滑落して死んだんじゃなくて化け物に殺されたんじゃないんですか!? 」
叫びは洞窟の様に反響こそしなかったが、病室の静寂を取り戻すには十分過ぎた。裏でセツさんが人払いをしていたおかげで看護師が尋ねて来る事も無く、エアコンの駆動音と点滴の滴る音が時を緩やかに刻んでいく。二人は目を合わせるでもなく難しい顔で何かを思案しているが、その沈黙こそが答えであるのと同義だった。しかし結果だけで過程を知らなければ、全てを知らないの同じだ。
僕は叫んだ拍子に痛んだ傷を押さえながら、二人の挙動を待った。
「継」
先に口を開いたのはセツさんだった。
「話をする前に二つ約束してくれますか。今から語る話を聞いたら東京に戻ると。そしてもう二度とこの島根の地を踏まないと……約束してくれますか」
「……」
「聞けば納得してくれるはずです。それが私の出来る精一杯の譲歩です。本当ならあなたが寝ている間に警察に連絡しても良かったし、あなたの父親である
窓から見える橙と黒の景色のその先に、より深く黒に染まる山々が樹木を微かに揺らしていた。幾羽かの烏が寝床にしているであろうその山に向け、羽を動かしている。
僕が何も知らないだけで、実はあの烏でさえも化け物の一員なのか。
いや……知った所で僕に何が出来る訳でもなし、何かしたい訳でもない。きっと死の真相を知りさえすれば僕も諦めが付くだろう。
そしていつもの生活に戻る。それでいい。
「分かりました……約束します」
「ありがとう」
言うとセツさんは窓の外に目を移して一つ息を吐き出すと、遠い過去に起きた母の死について語り始めた。
「今からもう10年も前になりますか……当時燈がアルピニストとして働く傍ら私の仕事を手伝っていたのは話しましたが、道や家、物に関する怪異は勿論ですが、こと山においてその才能を発揮していました。山が好きだというのもあるでしょうし、山に関する怪異が多いのもあるでしょう。とにかく燈の才能は目を見張るものがあり、それを見込んでその日も一件の依頼が舞い込んできました。、どういう死に方だったのかは余りにも惨い為言いませんが県内の山中で人が不審死し、それが人でも獣でもない者の仕業かもしれないと……今思えば悪い予感はしていました。遠い昔に似たような事象を解決したことがあり、それと全く同じ死に方だと聞き、また現れたかと思ったからです。もし同じ忌世穢物であれば燈一人では重荷過ぎるのではと、6人で現場に向かわせました。私は別件で動いていたので後から合流しようと約束し、まずは様子見と情報収集をお願いしたのですが……まさに凄惨の一言でした。3人が既に死んでしまい2人が重傷、そして燈が行方不明になっていました。残念ながらその2人も怪我が祟り死んでしまいましたが……2人の話から察するに、燈1人でその忌世穢物の捕縛に向かったと言うのです。え? 名前ですか? それは教えられません……少し脱線しますが、幽霊も妖怪も忌世穢物も語られる事で生き永らえる者がいます。日本で悪魔を見た事が無いでしょう。それは日本において悪魔に馴染みが無く、信じる人が少ないから。いえ、少ないながらもいない訳ではありません。信仰する人がいて『絶対にいる』と信じ込む力が、存在を確固たる物に変えるの。信仰心は本当に馬鹿になりません。比喩でも何でもなく一国を滅ぼし神をも殺しうるのです。実際にそうやって消えた村や町は数知れません。つまり……もしあなたにその忌世穢物の名前を教え、あなたが懸命に探そうとしたらそれだけで新たに存在してしまうかもしれない。悪い言い方をすればあなたが探してしまう事で全く知らない別の誰かが死ぬかもしれない。誰の目にも触れさせず口にさせずひっそりと終わりに向かわせる、それが最善の手です。詳しく教えると言いましたが、忌世穢物の詳細については教えられない部分……そこは分かって貰えましたね? ……話を戻しましょう。私は燈が向かったであろう山中へと向かいました。目標だけではなくあの蛞蝓や他の何かしかの襲撃にも気を付けなければいけませんし、目的地に着く頃にはすっかり日も暮れ、辺り一面暗闇の世界に包まれ、虫の声さえ聞こえない程でした。少ししてゲンさんも私に追いついてくれましたが、相当急いでくれたようで、普段掻かない量の汗を流していました。まあ……ゲンさんも燈を我が子の様に可愛がってくれていましたから、無理してでも行かなければと思ったのでしょう。ほんの少しの休憩を挟み、目的地に踏み込みました………………凄惨、と言う以外に無い酷い状況でした。まだ当時そこには小さな集落があり複数の家族が細々と暮らしていたのですが…………ほぼ全員が死亡し、生き残った者もかなり危険な状態でした。ゲンさんにその方達の介抱を任せ私は燈を探しました……燈はすぐに見つかりました。集落の最奥に建つ家の前で座り込んでいました。いえ……一目で死んでいると分かりました、もっと……もっと早く集落に着いていれば、私が着いていけば、そもそも悪い予感がした時点で燈を行かせなけば! 燈は……死ぬ事は無かったのに……私のせいで……継……本当にごめんなさい……あなたにはもっと燈と親子としての時間を過ごして欲しかった。話して遊んで喧嘩して、様々な事を経験して欲しかった…………ごめんなさい…………忌世穢物自体はどうにか退治する事には成功しました。燈が可能な限り情報を集め、書き記し私に伝えてくれたおかげですが、再度相対した際にもまた多大なる犠牲が出てしまいました……それから燈を連れ帰るとあなたが待っていました。燈がいなくなったと遠回しに伝えたのですが、繊細なあなたは燈が死んだのを感じ取ったのでしょう、泣きじゃくり暴れ、パタリと気絶するように寝てしまいました。恐らくその時、あの家に関する記憶を封印してしまったのでしょうね……母が巻き込まれて死んだという悪い記憶と妖怪と話していた記憶をどこか遠い場所に隠して。ええ、妖怪とはあの付喪神のことです。葬式の準備を進める途中、篤司が家に到着しました。これは敢えて話しますが、当時燈と篤司は離婚協議中でした。と言うのも、篤司は燈の仕事内容を知っていて、それが原因で喧嘩していたからです。そしてその最中に燈が死んだ……離婚を考えていたとはいえ、それは継、あなたを思ってのこと。怒りの矛先が私に向くのも仕方がない。式が終わるとすぐにあなたを連れて東京に引っ越していきました。それからのあなたの生活はあなたの知る通りです…………いつかあなたがここに帰って来る予感はしていました。あなたにとっては生まれ故郷でもあり、母親が育った場所でもあり、そして何よりどうしようもなく惹かれてしまう場所なのだから。継。あなたはもうここ島根に近づかないと約束してくれました。生まれ故郷に帰れないというのは自分が自分で無くなる様な感覚に近いものです。ただでさえあなたは転勤する篤司に着いていき、一人寂しい思いをしているでしょう。私もゲンさんも身を切る思いで一杯ですし、ずっとそうでした。でも継、あなたには力がある。前に進み、道を切り開く力がある。今はまだそれに気付けていないかもしれないけれど、やりたいことを見つけ愛する人と出会い共に人生を歩み、幸せな生涯を送る事が出来る。わざわざ負の遺産に首を突っ込んで、悩み、立ち止まり、悔やみ、無残にも人が死ぬ光景など見なくていいのです。あなたの名前は継。『人と人、人と物の繋ぎたれ』。燈があなたに沢山の人と知り合い、愛を育み、大事にしていけるようにと付けた名前です。燈は死んでしまったけれど、思い出が無くなる訳じゃない。燈との幸せな思い出を胸に優しくしまって、自分の人生を生きなさい」
セツさんの話が終わり、僕は既に用意されていた僕の鞄を受け取り、病室を後にした。寝台列車の時間にはまだ余裕があるが、最後に街を歩いて帰ろうと伝えた所オッケーが出たからだ。街道を歩く際、出雲大社には近付かない様にだけ釘を刺された以外は自由にしても良いとのことだった。
病院を出ると、空はまだほんのりと明るさを残していた。重い足取りを引きずりながらとりあえず門前通りを目指した。
僕が病院を出て角を曲がり門前通りに向かって歩いている時、病室にはゲンさんが戻ってきていた。
「お役目ご苦労さん」
「いえ、あの子には酷かもしれませんが、仕方のない事です。今は分からなくてもいつかきっと分かってくれるはずです」
「そうだな。燈の倅ならそうだろうよ。ちっとばかしなよなよし過ぎちゃあいるがな」
「何を言っているんですか。あなたもあれくらいの年頃には同じだったじゃありませんか」
「ああ? 何馬鹿言ってんだ。誰がなんだって?」
「いつも私がいれば私の背中に隠れていたではありませんか。でかい図体の割に臆病だし、麵屋の息子だからと『独活ん子(うどんこ)、独活ん子』と呼ばれてたのを忘れましたか?」
「かーっ、そんな大昔の事なんざ忘れちまったよ」
「全く都合の良い頭ですね、いえ、中身が無いのかしらね」
「言ってろってんだ……それで婆さん」
「何ですか」
「上手い事嘘ついたもんだな」
「……当たり前でしょう。どうして言えるものですか」
「縁でも出来ちまったら大変だからな。そういうのは婆さんに任せるのが一番。嗄れても山椒は辛いからな」
「誰が嗄れてるですって? まだまだ現役ですよ」
「おえっ、気持ち悪い事言うなよ」
「冗談ですよ……でもまあ……言える訳ないでしょう。幾ら忌世穢物だとは言え、母親に会えるかもしれないだなんて」
「そうだな。あのまま封じてるのが一番か……虚しいな」
「ええ、本当に……」
夜の8時を回り商店の殆どがシャッターを下ろし、街灯だけが等間隔に道路を照らしていた。観光客も地元の人らしき人も数える程しかおらず、勢溜(せいだまり)から宇迦橋にかけてゆっくりと歩き、出雲大社前駅を目指す。路地裏を覗けばいくつか灯りが灯っているけれど、寝台列車が出る出雲市駅まで行かないとそれらしい飲食店は見つからないだろう。列車の時間は勿論だが、そもそも電車の時間もかなりぎりぎりだ。もし逃そうものなら1時間後に来る最終電車に乗るか2時間かけて歩いて向かわなければならないし、飲食店どころかホテルを取ったりと面倒な事になる。
怪我のせいで走れないが気持ちだけは出雲大社前駅へ急いだ。
結局ちゃんとした島根の郷土料理も観光も堪能出来なかったのは心残りだけれど、母さんを知る目的は果たされた訳で。残すはノートを写すだけ……
「あ……ノートってでも……どうなるんだろ?」
病室で鞄を渡されて何の確認もせずに出てきてしまい、しかもあのノートは付喪神に変身してしまう。その対策も何も聞いていない。もしかしたら鞄の中で目をギョロギョロと動かし、僕の様子を窺っているかもしれない。
どうしたものかと中身を検めようと立ち止まり、鞄の紐を緩めた時だった。
「痛い!」
大社前駅手前で右に曲がる方の小道から、誰か女性の叫ぶ声が聞こえてきた。その声の主は誰かと揉めているのか荒ぶる男の声が重なって聞こえ、付近に人影が無いのも相まって通りまで鮮明に会話の内容が筒抜けだった。
「静かにしろガキが! お前がそんな態度ばっかり取るから出が悪くなんだよ! いくら負けたと思ってんだ! 今日もお前の飯無えからな!」
「なんで!? 私関係ないじゃん!」
「うっせえな! あのアマに似やがって! そんなに飯が食いたかったら働いて稼げこの愚図が! 誰が育ててやってると思ってんだ!? ああ!?」
察するに親子の喧嘩の様だが、圧倒的に父親が理不尽な事を言っているのは明らかだった。道の幅はそれ程広くなく、速足で進めばものの数秒で通り過ぎる事が出来るだろう。
地面に顔を向け歩幅を大きくしてそそくさと横切っていく。
「きゃっ!」
と短い叫びと同時にガラガラと崩れる音が路地に響いた。
僕は思わず立ち止まってしまい、更にその音の方向にほんの少し顔を向けてしまった。結果、視界の端でこちらを見て驚く女の子と目が合った。
「あ……」
鳴海だった。誰かに見られた、ではなく、明らかに僕だと認識した顔をした様に思う。だからだろう。
ほんの一瞬、痛みではなく顔を顰めたのは。
「おい……何見てんだ? 見世物じゃねえんだぞ」
僕の存在に気付いた鳴海の父親(すぐに名前が雄三だと知るが)が、鳴海に暴力を振るうのを止めてこちらにじりじりと歩み寄って来る。目が血走り顔も赤く、若干千鳥足だ。まず間違いなく酒を飲んでいる。夏とは言えどよれよれ過ぎる白シャツ、所々擦り切れた半ズボンにトイレ用のスリッパ。だらしなく伸びた無精髭は街灯に照らされて濡れたように照り返している。いや、実際に濡れているのかもしれない。
動けずしどろもどろする僕に苛立ちを隠さない雄三は「なんらてめえもか、クッ……ソガキが」と呂律が回らなくなりつつあり、それは鳴海への暴力と興奮により更にアルコールが巡ったからでもあった。そのアルコールのせいもあるのか元々の性格か知らないが、兎に角何かが気に喰わなかった様子を隠さず、中身を溢しながら手に持ったビール瓶をふらふらと掲げ僕目掛けて振り下ろした。瓶は手前10センチで空を切り、手からすり抜けて父親の後方の地面に叩きつけられ砕け散り、音を立てながら扇状に破片が飛散していく。
流石にこれだけの騒ぎを起こしていて誰も来ないという事は無く、道の奥やまだ店舗に残っていたらしい店員がちらほらと顔を出し始めた。
しかし、雄三は野次馬が集まりだしたのに気付いていないのか、僕の胸倉を掴み右頬を殴り付けた。困惑と鈍痛が頭を揺らし、3度目の痛みが訪れる前に、酒屋から出て来た主人らしき人物が雄三を背中から羽交い絞めにする。何か喚いているが良く聴き取れない。恐らくは「離せ」とか「くそが」的な内容を言っているのだろう。それでも殴り続けようとする雄三の横から鳴海が体当たりし、店主ごと地面に倒れこんで僕を掴んでいた手が離れた。僕の朦朧とする頭では何が起きているのか理解出来ず、受け身の一つも取れずに硬い地面とぶつかり、殴られたのとは逆サイドにも痛みが走った。それが鈍痛ではなくざらついた鋭い痛みだったからか、多少思考が戻ってきたように思ったがそんな事はなく、地面に伏せる鳴海が「!!!」と何か叫んでいるのに口の動きしか分からない。
「え? え?」
と、理解出来ていない様子を見せると、鳴海は大きく舌打ちして立ち上がり、僕の手を取ってどこかに向けて走り始めた。
「いやっ、ちょっと……えっな、鳴海!」
「うるさい! いいから着いてきて!」
背後から数人の大人が叫んでいる。それを無視して突き進む鳴海に、転びそうになりながら同じく静止してもらおうと再度口を開き、止めた。
そして皺だらけの制服と真新しく出来た痣が残る横顔が白く光る街灯に照らし出し、夜の闇がそれら全てを完全に飲み込んでしまうまで僕らは走り続けた。
どれくらい走っただろうか。幾度も角を曲がり、看板と街灯が続けて減り、民家すらもまばらになって錆びついたフェンスが見えた所で鳴海が止まった。
息つく間もなく走り続けて二人共肩で荒く呼吸していて、夜になっても収まらない暑さのせいで汗が滝の様に流れていく。呼吸を整える最中にここがどこなのか、あの喧嘩がなんなのかを聞こうとしたが
「いっ……」
疲れと思い出したかのように襲って来た腹部の痛みとで、とうとう僕はその場にへたり込んでしまった。鳴海が
「ちょっ……と。座んない、でよ」
と、呼吸の合間に叱責するけれどそれに応える余裕も無い。奔る鼓動に合わせて傷が痛むせいで、波が来ずずっとピークがあるような感じだ。痛み止めが効いていない訳では無いけれど、あんな怪我をしたすぐ後に全力疾走すべきではなかった。
「早く立って」
鳴海が僕の腕を掴み立ち上がらせようとしてくるがそれどころではないし、手を振り払い背中を指差してから押さえるのが精一杯だ。
「…………」
ほんの一瞬考える素振りを見せ、鳴海は僕が着ているシャツを思い切り捲り上げた。痛々しく巻かれた包帯が姿を見せるとそれを凝視し、汗ばみ濡れて気持ち悪いはずなのにそっと触れた。
「な……」
「いいから」
何を思っているのだろう。顔も見えなければ心情など微塵も分からない。父親に暴力を受けその場に居た誰に助けを求めるでも無く逃げ、今は何も言わずに傷に手を当てている。初めて会った時から彼女は言いたい事は言い、僕を含めて嫌な物は避けるタイプかと思っていた。
暫くそうしていたかと思うと、僕の状態が少し快調したのを見計らい肩を貸す素振りを見せた。そういう気遣いをされるのには驚いたが、素直に受け取っておかないと後が怖い気もするし、何よりここから動けなさそうだ。
路地の最奥まで進むと、明らかに誰も使っていない古びた小さい温室の様な物が現れた。長年の雨風で剥き出しのステンレスは赤黒く錆びつき、天窓を覗き全面がこれまた錆びたトタンで覆われている。本来は天窓以外もガラスだったのだと思われるが、他が割れた結果、天窓風の見た目に落ち着いたのだろう。扉は鎖と南京錠がかけられているものの、誰かが勝手に入らない様にする為だけのフェイクだった。
ふと振り返り周囲を見渡したが、綺麗にコンクリの壁と草木に覆われていて、外からは殆ど見えない位置にあるのが分かった。隠れるには良い場所だった。
鍵が掛からないようふわりと刺された南京錠を外し、慣れた手つきで鎖を外して扉を開ける。それらを手に持ち反対の手で僕を支えながら中に入った。
小屋の中は物で溢れていた。あの玩具屋敷と比べれば、量も違うし整理整頓が行き届いているしで完全に別物だけれど。種類ごとに山積みにされたそれらの中心には、どこで拾ったか(あるいはあの玩具屋敷か)簡素な木製のテーブルと椅子があり、右に視線を写せば子供用の小さい座椅子が置かれている。
「そっち使って」
と促されたのは小さい座椅子の方だった。背もたれにバッグを引っ掛け、体育座りの要領で座り込む。中学生にしては丁度良いサイズなのが何とも言えない気持ちになるが、すぐに疲れと痛みと安堵感とで吹き飛んで行った。
鳴海は物の奥底に隠していたらしいクーラーボックスから水のペットボトルを取り出し、一気に半分程飲み干して僕に渡した。
「…………」
「いやいやいや。そういうのいいから。何? 間接キスとか思ってんの?」
「えっ、あっ、いや」
何故そういう所だけは無駄に鋭いのか。
「いらないなら仕舞うからどっちか早くして」
「あ、じゃあ……頂きます」
一応鳴海に背を向けて水を飲む……が、相当喉が渇いていたのか、気恥ずかしさも忘れ残り半分を一気に飲み干してしまった。
「ふぅー……あ、ありがとう」
「ん。それ貸して」
言われペットボトルを渡すと、ささっと潰してゴミ箱に捨てた。
鳴海はそれから椅子に座り、大きく溜息を吐いた。
「あんた顔」
「え?」
「だから、顔。大丈夫かって聞いてんの」
「ああ、まあ……ちょっと痛いけど」
「そっか………………………………ごめん」
「いや、別に鳴海が謝る必要はない、よ」
「だとしてもさ……くそ……あいつまじで早くぶっ殺してやりたい」
「そ……」
「ん?」
「いや、何でもない」
思わず口に出そうになった言葉を押し込み、天窓から空を見上げた。細く伸びた下弦の月が雲を垂らし、金色の光を鳴海に向けて流し込んでいた。
照らし出された頬を紫に上塗る痣だけは、どうやら間違いなく僕らの共通点になったらしい。
「その傷、見てもいい?」
鳴海は疲れや苛立った表情を抑え、改まった様に真面目表情を作って僕に聞いた。どこかで見た事があるその表情は、付喪神をお出迎えした時に見せた物と似ている。
熟れた手つきで包帯を外していき患部が露わになると、うわ、と小さく漏らした。
「うわって何うわって。そんなにやばそうなの?」
「ちょっと黙って」
毎回乱暴な言い方をどうにか出来ないものかと思いはするけど、たかが出会って数日の関係性であれこれ言うのも憚られる。凄く言いたいけど。
「これ、誰に……何に刺されたの?」
「えっと……ベス? って女の人で、ヨーロッパで子供食べてたっていう」
「ああ、なるほどね……だからか……」
「いやなんか一人で納得してるみたいだけど、説明してくれないの?」
「あのさあ、あんたは何も知らないんだから、こっちに任せて黙って聞いて答えるだけ答えればいいの。それとも何? 聞きたくない訳?」
首を曲げて鳴海の方を見ると眉間に皺を寄せて睨みつけていた。
僕の何が気に入らないのか……。
「分かったよ……だから教えて」
「教えてくださいでしょ」
「……教えてください」
僕は今人としての何かを試されているかもしれない。わざわざちょっかいを出しに来る物好きもいたし多少の我慢はしてきたつもりだけど、鳴海はこう、また新しいタイプだ。こうも人を苛つかせることが出来るのもある意味才能と言える。どう対応したらいいか分からないし、とりあえず従うのが吉か。
「自分が何者かも分かってないあんたに特別に教えてあげる。こういう傷って言うのは手術で綺麗に傷跡は消せても、あんたっていう存在自体には傷を残す事があんの。今回はそれ。削り取るって言うか、齧ったケーキは元に戻らないでしょ。そんな感じ。新しい生地で埋める事も出来なくはないけど、傷があったっていう事実は消えずに楔として残る。この楔ってのは奴らにとっては甘い匂いを漂わせる目印になんのよ。特にあんたは極上の餌だろうね。なんてったって神に呼ばれるくらいなんだし」
「え、え、え、ちょっと待って、神って何どういうこと」
「話区切るなって」
「あ、うん、ゴメン」
「チッ、ほんとにさぁ」
そんな分かりやすく舌打ちしなくても。
「簡単に言うと、あんたはヤンキー達に目をつけられやすくなったって事。分かった?」
分かったような分からない様な話だが、とにかくこの傷が原因で幽霊や忌世穢物に狙われやすくなるってことか。
……どうしてそんな大事な話をセツさんはしてくれなかったんだ?
折角気持ちを切り替えて帰ろうと思った所だったのに、心配が増えただけじゃないか。
「物のついでだから教えてあげるけど、出雲大社であんたが見た『らしい』門、恐らくだけど……常世への入口だよ」
「常世って、神様がいるっていう」
「そう」
だからか。だからあんな不自然に鉱石が混ざりあっていたのか……神様何でもありだな。
と、携帯に映っていなかった門を思い出しながらも、勿論本質的な問題はそこではないと継も分かっていた。
「門が見えるって事は神様に呼ばれてるって証拠。それも今まで聴いてきたどんな人よりもはっきりとね。これまで声を聴いたり夢に出て来たりしてお告げの類を受けた人もいるけど、そのどれとも格が違う……もしあのまま門の中に入ってたらもう戻って来れなかったかもしんないんだから」
「それは所謂神隠しってやつ?」
「そうそれ。ほんとに感謝してよね……あんたが呼ばれた理由を詳しくは知らないけど、神仏に近しい人間ってのが一定数いるみたい。妖怪とか熊ならまだしも神様に連れて行かれて戻って来れるなんてどだい無理なんだから」
「いや妖怪でも熊でも無理だとは思うけど……」
「対処の仕様がないって話。言葉が通じるだけでこうすればいいが通じないの。出来る事はせいぜいお願いするくらいだからさ。物理的に殺せる動物と違って、システムが分かれば対処出来る幽霊や妖怪と違って、想像するだけでほぼ何でも出来て寿命も無い様な存在が私達と同じ感覚な訳ないじゃん?」
「ふうん……」
出雲大社に祀られている神様といえば大国主神(おおくにぬしのかみ)で、つまりその大国主神に気に入られて呼ばれたって事なのか。神様のお誘いを断わるってそれはそれで良くないんじゃ……。
「はい、どうも。もう服降ろしていいよ」
そうこうしている間に包帯を巻き終わったらしく、綺麗に巻き直されていた。口は悪いけど高次元の存在に対する所作はしっかりしているし、応急処置も出来て知識も豊富。心無しか痛みも引いている、気がする。彼女こそ一体何者なんだろう。どうやってセツさんと知り合って手伝うようになったんだろう。
ここにいると疑問ばかりが増えていって帰るに帰れない。
「あ」
まずい。急いで携帯を取り出し時間を確認すると、時刻は既に予定の時間をかなり過ぎてしまっていた。乗り継げばまだ間に合うだろうか。しかしここがどこかも分からない。とにかく駅からかなり離れた位置にいる事だけは分かる。土地勘も無いのに……鳴海に案内してもらうしかないか。
「ここから出雲市駅までどれくらい!?」
「はぁ? まぁ1番近いのが大社駅で……そこから乗り継いで40分くらいじゃない。多分もうバスも無いと思うけど」
「そんな……」
今から子供一人でホテルなんか取れる訳が無い。どこかで朝まで待つしかない……もう一度セツさんに連絡するのが良いかも……いやでも電話番号聞いてない……。
一人焦る僕の思考に、蚊帳の外が気に入らないらしい鳴海が割って入ってきた。
「あんたもしかして帰るの?」
「そのつもりだったんだけど、と言うかセツさんに帰れって言われて」
「この傷のせいで?」
またいつもの様に眉間に皺を寄せる。
「そうらしいけど……守れなかったから東京に帰れって……僕が知ろうとすればする程、悪いやつが寄ってくるからって」
「…………」
黙る、睨む、暴言のサイクルしか鳴海の中には無いのかもしれない。
「痛っ!」
「今余計な事考えたでしょ」
「違うよ……」
こうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。
それともここに居させて貰う方が安全なのかも、と思ったけれど一瞬で考えを改めた。
壊れた玩具を含む大量の雑貨があるのを忘れていた。幾つもの窪んだ目がこちらを見ているのは、意識したからかどうにも居心地が悪い。地面は横になれる状態でも無いし……公園とか駅前のベンチは補導されるだろうし、された事がある。公衆トイレはさもありなん。色々と知る前なら神社の境内も選択肢にあったのに、今は全く良いと思えない。日中ならまだしも夜に行くのは多分自殺行為。
神様は日没と共に眠るのだから。
「いいとこ知ってる」
鳴海が立ち上がり言った。
「朝まで過ごせる場所があればいいんでしょ? ちょっと歩くけど……どうせ私も今日そこ行くつもりだったし」
「誰かの家?」
「家……まあ家っちゃ家か……」
どこか含みがある言い方だが、泊まれて安全ならどこでも良い。鳴海が安全だと思えるならきっとそこは安全なのだろう。
もう少しの辛抱だと痛む節々と脇腹に鞭打ち立ち上がり、鳴海に連れて温室を後にした。
月光が少しずつ民家の明かりに打ち消され、『はちはく』という名前のスナックを横切った時、温室にあった玩具の中に見知った物があったと今更ながらに気付いた。思い返せば初めて会った日に、鳴海はあのごちゃついた玩具屋敷から茶碗を1つ拝借していた。それに似た色の茶碗と、子供の邪悪な無邪気さによって産み出されたザリガニの人形。
温室にあった物は全部屋敷から持ってきたに違いない。わざわざ持ってくる理由が何であれ、聞いても流されるだろうから聞きはしないけれど。
黙って着いていくことはや30分。流石にもうこれ以上動きたくないなと弱音をこぼそうとした時、1軒のアパートの前で鳴海が立ち止まった。
そこは以前飲み屋が1階に入っていたようで、和風な出で立ちの土壁(に似せたコンクリートではある)と薄暗い店内に山積みにされた椅子が認められた。いつからやっていて、いつ閉店したのかは定かではない。
その横はシャッターが降りており、何の店舗が入っていたのか分からない。2階には既に入居者がいるようで、2部屋とも明かりが点いている。
「ここ?」
「そう」
ぶっきらぼうに答える素振りはいつもと変わりない様にも思えたが、僕に答えたと言うよりはそのアパートに向けて呟いた様に感じられる。
鳴海は徐に襟ぐりに手を突っ込むと、1本の鍵を取り出して閉店している飲み屋の鍵を開けた。
「早く入って、見られると面倒だから」
言われるがまま、僕は薄暗い店内に入っていった。
どこにでもありそうな店内の内装は所々剥がれ落ちてはいるものの、ほったからしにされているにしては埃が殆ど落ちていない。まだ日が浅いのか、あるいは
「ここお母さんがやってたんだ」
カウンター内にあるハイチェアに座り調理台に手を置いて、哀相を込めた調子で鳴海が呟いた。僕は適当な椅子をカウンターから降ろしそれに座る。
「じゃあ掃除は鳴海が?」
「そう、いつかその時が来たら使える様に」
「その時?」
「私、ここで店開きたいんだ」
雑貨屋か料理屋かは決めてないけどとにかく開きたい、調理台に目を落としたまま鳴海は言う。
あれが父親だとして、素直に喜び後押ししてくれる人物だとは到底思えない。しかし母親はそうとは限らないし、店を開きたいくらいだし慕っているのだろう。
いや、慕っていた、のだろう。
「お母さんさ、私が小さい頃自殺したんだ。すぐ近くのアパートで首を吊って」
「……それは」
それは何となく、そんな気がしていた。こんな遅くまで出歩いていて連絡も無ければ、父親がああで、母親がやっていた店の跡に店を出したいとくれば、自ずとその結論に近づいて行く。病気か離縁か死か。
「お母さんが死んでからどういう経緯で知ったのか知らないけど、あんたのお母さん、燈さんが私をセツさんに引き合わせた。風の噂だったってセツさんは言ってたけど、本当の所は分からない。それであの山の上の屋敷でお世話になってた。あんたを知ったのもそん時」
「じゃああの集合写真の女の子って」
「私」
「やっぱりそうだったんだ」
「まぁあんたは忘れてた訳だけど」
「それはごめん」
面影があるからきっとそうだろうと思っていた。そのままだと言うと怒られそうだから止めておくとして、まるっきり全部記憶を封印してしまったのは間違いない。こんな印象深い女の子を忘れるわけが無い。
「でも店を出す前にやんなきゃいけない事が沢山あるんだよね……」
「卒業とか?」
「まぁそれも。調理師免許とか営業許可証とか色々あるけど、些事だよ些事」
「些事って、使いたいだけ──」
「あいつをぶっ殺すことに比べればね」
「…………」
冗談じゃなかったのか。温室で聞いた時よりは抑えているけれど、明らかな憎悪と決意が感じられる。
世に言う反抗期だからだとか、親との折り合いが悪いとか、そういうレベルではない。
「なに、そんなこと言っちゃいけないよーとか言うわけ?」
「いや別にそんなつもりはないよ……ぼ……俺も願ったことあるし」
「ふうん」
「でもなんで? さっきのと関係があるの?」
「まぁそれはそうだけど、あんたに関係あんの? 東京に帰るのに?」
「それは……そうだけどさ」
確かに彼女の言う通り僕には関係無い……東京に帰って、もう来ないようにするんだから。鳴海とはなんの関係性の進展も無い……。
「はぁ……あんたが思ってる以上にあいつがクソだってこと。胸糞悪い話を無理に聞く必要なんかない。これは私の問題で私だけでやらなきゃいけないから……言えるとしたら、お母さんの自殺の原因はどこからどう見たってあいつのせいで、もう決意も準備も出来たっていう話」
警察か誰かに相談すべき、だとは思う。人殺しは良くない……いや、良くないと思い込んでいるだけで、死んだ方が良い人間なんてこの世に5万といる訳で。ただ僕が鳴海に殺人者になって欲しくないと思っている、それだけの話なのかもしれない。
人に殺意を抱かせる程の何かを、あの父親は仕出かしたのだから。
「どうせ覚えてなかったんだし、全部すっぱり忘れて新たな生活を始めるのが1番良いって。セツさんも言ってたでしょ? 私も心からそう思うよ。やり直すチャンスがあるなら何度でもやり直せばいい」
鳴海にチャンスは無かったのか、殺してしまえばこれから先やり直すチャンスは訪れないのではないか。
その問いを口に出す事は無く、僕らはそれぞれ椅子を並べて眠りについた。
異形の匣庭 第二部 久賀池知明(くがちともあき) @kugachi99tomoaki
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